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批評家になろう  作者: 八雲 辰毘古
観察篇
4/13

文章を味わう1

 最近、三島由紀夫の『文章読本』(中公文庫)を読んでいまして、まだ読み()えていないのですが、三島はところどころで、現代の吾々が、文章を味わう習慣を持たなくなったと嘆じています。三島の言葉を借りるならば、「現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます(文庫版p44-7,8行目)」。しかしそのすぐあとで三島が述べるように、小説に於ける唯一の素材とは、結局のところ言葉であり、文章なのです。絵画の色彩であり、音楽の音に当たる部分こそが、小説に於ける言葉なのです。この基礎的なディテールを見逃して作品の善し悪しを判定するのは、()わば(ざる)で水をすくうようなものではないでしょうか。もちろんこうした見方が揚げ足取りにつながりかねない危険はありますが、小説世界とはこうした言葉のディテールの積み重ねにこそ成り立つのであって、大雑把にやってしまえば、演劇装置のピアノ線が見えたり、馬脚が覗き見えたりするようなもので、それだけ読者に不信感を抱かせます。前項で述べた「文脈」と細部の関係とはこのことを指すのであります。

 だからと言って、私はピンセットで摘まむように言葉を選べとは言いません。極度に意識的な言葉の積み重ねが、美しい世界を描き出すのはよくあることですが、私見を述べますと、偉い人とはつねに普通に物を書いているのです。こういうのは古典と呼ばれ、現代にまで遺され続けるような作品をよく読んで、吟味するうちにわかっていきます。美食家は旨いものを食べることで舌を肥やしていきます。絵でも、美術画家の絵を観ていくうちに眼が肥えていきます。それと同じように、物書きは良い文章を読んでいくうちに、言葉の感覚に鋭くなっていくのだと、考えられるのです。

 文章を観る眼を肥やすための、最も良き手本はやはり古典であります。それは『源氏物語』や『枕草子』などの日本古典のみならず、『論語』や『史記』のような漢籍、ないしはゲーテ、トルストイ、ドストエフスキーなどの近代以降の世界文学なども含めて、とにかく後世へと永く評価され続けているような作品を味わいながら読むことが何よりも審美眼を養うのであります。最初のうちは、唯なんとなく面白いと思うばかりでしょうが、一歩一歩を踏みしめながら、時には何度も振り返り、行ったり来たりを繰り返してでもじっくりと読んでみると、その作品の言葉遣いにある独特の味がわかるようになります。可能ならば、偉大な作者のうちの何人かを心の中で師匠を仰ぎ(これを私淑(ししゅく)と言います)、何度も何度も立ち返る原点として捉えることをお薦め致します。すると、立ち返るたびに新しい発見があり、学ぶところがあるものです。大芸術家となると、芸術に対する持論というものがあるので、それを読むのもまた一興です。私淑する人は唯一絶対ではありません。増えても減っても構わないと思います。増えれば増えた分だけ価値観が相対化して、深められていきますし、減らしたらその分先鋭になっていきます。そのあたりは各人がうまく調整してもらった方がいいように感じますね。

 また文章の趣きがわかりにくいと顔をしかめる方には、二者を並べ、比較して読む方法をお薦め致します。例えば、『源氏物語』と『枕草子』、森鷗外と夏目漱石、トルストイとドストエフスキー、李白と杜甫、江戸川乱歩と横溝正史、……と言った工合(ぐあい)に。詳細を云うと、鷗外は、文章の極意を「一に明晰、二に明晰、三に明晰」と言ったそうで、『舞姫』や『寒山拾得』などを読んでいると、その文章の無駄を排した趣きが、いかにもさりげないお洒落な気配を感じるのであります。対して漱石は、文章そのものに固有の趣きを断じることはむつかしいですが、描こうとしたものに対して並々ならぬ情熱と浪漫とを感じることがありまして、恰もそれは一つの詩であります。ゆえに『草枕』や『こゝろ』のなかに出てくる鋭い言葉が、痛いほどに読者の胸を突き刺すのでありまして、その境地は『吾輩は猫である』から『明暗』の途中で亡くなるまで、ずっと深められて行ったのであります。海外の文豪ではトルストイとドストエフスキーを好対照として紹介致しますが、よく言われる喩えとして、トルストイは一目で全貌を見渡せる街のようであり、対してドストエフスキーはさながら深淵を(のぞ)くかのようであると書かれています。事実その通りだと思いますが、トルストイの作品は『戦争と平和』や『イワン・イリッチの死』からわかる通り、限りなく無駄を排し、かつ同時に対象を完全に描ききる猪突猛進的なパワーが漲っていますし、ドストエフスキーの場合は、『罪と罰』や『白痴』のように、あちこちを行ったり来たりと彷徨するような滔々たる流れを持ち、次第に読者を惑わせ、途方もない深みへと連れ去ってしまうのであります(本当は、トルストイは『アンナ・カレーニナ』、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』が非常に名高いですが、私はまだ読了していないのでここでのコメントは差し控えたいと思います)。

 とにもかくにも、名作傑作と呼ばれる作品を読んでみることです。好き嫌いや合う合わないはそのときに感じればいいことで、全てを理解する必要はまったくありません(シェークスピアがわかったところでたいがいの就職には大した影響はありませんでしょうし)。気に入った作品を何度も読み返す、その方が大事で、どんなに時間を置こうとも、読み返してもなお「面白い」作品こそが「本物」なのです。この「本物」を大切にしていくうちに、秀れた価値観が養われるのだと、私は思います。

 文芸作品に依らず、文章や語感について勉強するのであれば、冒頭に挙げたものを含めた、中公文庫版の『文章読本』をお薦めします。三島由紀夫以外にも、谷崎潤一郎、丸谷才一、中条省平のものがあります。他にも鴨下信一の『忘れられた名文たち』(文芸春秋社)は、新聞や音楽批評、翻訳、官能小説などその他さまざまな文学外の好い表現を集めていますし、中村明の『悪文』(ちくま学芸文庫)は反面教師として役立つでしょう。日本語の感覚に秀れていたと云うのならば、井上ひさしや、丸谷才一、大野晋や大岡信が居ます。彼らの『日本語相談』(朝日新聞社)は、辞書を引くのでは足りないほどの言語感覚を養うのに適しているでしょう。さらには、齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』シリーズ(草思社)や中学校の教科書である『ことだま百選』(講談社)と云うものもありまして、とくに後者は古今東西の名文を百種集めた一口サイズのエッセンスであり、よく吟味するにはとても良いものだと思います。

 では最後に、題にあるように、「文章を味わう」ことを紹介したいと思います。例えば芥川龍之介のような作家の文章は、ぱっと見あまり見映えのするような感じがせず、国語がしゃんとしていれば誰にも書けそうに見えるかもしれません。しかし、芥川のような文章を書くのはなべてならぬものであって、なぜならそこには格調とか気品というものがあるからであります。そういった言葉の底に、凛と張り詰める気配をどう感じ取るかということですが、私はそれを声に出して読むことをお薦め致します。つまり音読であります。書かれた言葉を「味わう」とは、つまり己れの口を通じて文字通り「味わう」ことなのであり、耳で聴くことであります。できることなら文字そのものを触って、五感すべてで言葉を感じ取ることが一番良いですね。もちろん、世の中には書き言葉と話し言葉という区別がありますが、その気になればありとあらゆるものからこうした言語感覚を磨く要素はあるのだと考えています。思えば、現代にて吾々は実に多くの言葉の世界に触れています。むしろ言葉が氾濫(はんらん)しているとさえ、言っていいでしょう。テレビやニュースは事実を伝えてはいますが、殆んどは言葉でできています。ネットも言葉です。もちろん多くのメディアは、音や映像などを駆使して吾々の感覚に訴えかけてきますが、結局どうしても言葉を無くして物事を伝えることができないのです。だからこそ吾々はもっと言葉そのものを大切に扱わなければならない、そう感じるのです。次回はこのことについて少し深めてお話したいと思います。

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