レビューの陳腐な「表現」
このサイトの新着レビュー一覧を見ると、私は次のような言葉にぶつかり、非常に残念に思うことがあります。「前代未聞の傑作!」「騙されたと思って読んでみて!」「言葉にできないけど、とにかく凄いんです!」等々……。別にこれらの言葉が悪いとは思わないんですが、人に依っては非常に陳腐で、ありきたりな、なんの輝きも帯びない主張に陥ってしまう感じがするのです。
どうしてそう感じてしまうのでしょうか? 少なくとも、評者の方はなかなか本気だと思うんです。腹の底で嗤っているなら話は別ですが、たいがいはそんなこともないと考えられるのです。しかし読む側は、実にありきたりだなと感じてしまう。ここに「表現」の不思議が隠れています。
先ず一つ、その原因として考えられるのは、レビュー欄に載るのは必ず「傑作」か「名作」か「良作」と表されるものになるからです。とにかく形容しようもない駄作なぞは、悪意のない限り最初から対手にされないのですから、どいつもこいつも「良作」以上ということになってしまう。別に「みんなちがって、みんないい」でも構わないんですが、最初からその結論に達してしまえば、「表現」に個性もへったくれもありません。むしろ、そもそもレビューなど書かない方がましだ。一人で黙って楽しめばよろしい。一人で娯しむには惜しいと思うから、心の底から思うからこそ、評者はレビューを書くわけであって、そこには評者自身の特別な思いが籠められてなければおかしい。
同じようにもうひとつの理由として、評者自身がとびきりの意味で「本気」になっていないからだと思うのです。レビューでも批評でも構わないが、少なくとも読んでひどく感動することがなければ、他人に広めようだなんて思うわけがない。ここで言う感動とは、泣いた、とかいう安っぽいセンチなことだけではなく、興味が湧いたり、続きが気になるな、というようなものを、徹底させたところにあります。一度湧いた興味や、気になるといった感覚をどこまで徹底できるか、ここにレビューの「表現」の強弱が表れるのだと思います。
人数なんてどうでもいいんです。これは主観かもしれませんが、作者がある一人の読者を心の底から感動させることができれば、それだけでも作者はやったかいがあると思うのです。むしろ私の場合、「僕はゲーテや村上春樹みたいな世界的な作者なるんだ!」と意気がっている人間ほど白い目で見てしまいます。なぜなら、彼らは世界的になろうとして作品を書いたわけではないからです。彼らは彼らなりに物を書いただけで、社会や世界が彼らを認めたのです。なるほど、作家自身に野心がないかと云えば断定はできませんが、私自身ある考えから言うと、偉い作者は普通に物を書いているから素晴らしい作品を書けるんだと思うのです。理由は、無理をしないから、肩の力が抜けて自然に整ったスタイルになっているから、そもそも偉い作者は想像力の冒険をすることが「普通」だからです。
話は変わりますが、私が剣道を修めていたとき、「練習は試合のように、試合は練習のように行え」と言われました。作品を書くときもそのようにやるのが一番だと感じているのです。同じように、レビューを自発的に書くときは、ふと自然な具合に物を書くのが一番のような気がします。これがなかなかむつかしいことですが、「慣れ」とはちょっと違うんです。ある意味では「慣れ」も必要ですが、普通に物を書くというのは、それよりも広い意味で言うと思うのです。つまるところ、レビューや批評というのは、読んだ側による印象か感動の告白でもあるわけです。話さずにおれないと云う気持ちが徹底していれば、仮令文章が拙くても、情熱のようなものを感じるのです。
もちろん、どんなに考えに考えても、最終的には「傑作」だとか、「是非一度でいいから読んでみて!」というような、ありきたりな「表現」に落ち着かざるを得ないと思います。しかし、散々に悩んだ結果編み出された言葉は、もう冒頭に載せるような陳腐な「表現」とは一線を画するものになっていることでしょう。なぜなら、あなたはもうこうした「表現」だけでは自分の感動を表しきれないと肌でわかっているからです。頭でわかっていたって仕方のないことだ。それは評者自身の感動であり、実感であるはずで、頭で理解されるような観念ではありません。どんな字引きを引いてきても、どんな知識を持って来ても足りないくらいの、とびきりの感動やらなんやらを「表現」するのだというものがあれば、それは人に伝わると思いますね。感動の度合いなんてものは、誰かと比べられるものではないでしょう。私はこういうところに興味が湧いた、気になった、それを徹底していったすえにこういう言葉が出てきた。むろんこの言葉で全てを表したとは思っておらぬが、最大限の敬意と努力はした。レビューの「表現」というのはそういうことだと思うのです。




