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批評家になろう  作者: 八雲 辰毘古
表現篇
10/13

言葉に責任を持つ

 言葉にはそれ相応の責任が起る。

 なにを当たり前のことを言うんだと考えられた方も多いでしょう。しかし自身の言葉に責任を持つのは、とてもむつかしいことであります。それは信じるということです。自らの用いた言葉の、最初から最後までを信じることです。さらに付け加えるならば、自身の言動を、自分が死ねばちゃんと落ち着く範囲に抑えることです。ネット時代において、やれ拡散だの、炎上だのがよく見受けられますが、ああした事象には、ことに自身の言動に責任を持つことが見失われやしないかとの懸念を抱きます。言葉は粗末にされるべきではありません。それは、余計な言葉を慎めということ以上に、自分の言動を、自身で始末していくことだと思うのです。

 これは飽くまで主観です。私が抱いている問題意識です。そのことを自覚します。自覚することが自己を批判するための第一歩です。形にならない観念やら感情などを、こねくり回しているあいだは、あらゆる「表現」の可能性を秘めています。しかし、それが文字に起こされるとき、必ず何かしらの「表現」に落ち着かせなければなりません。そのとき、言葉遣いを始めとしたあらゆるものを選び、書き表したのであります。ことに批評の場合、それは相対化された自己、鏡に映された自身の姿の一つであります。あたかも行き先に適した服装を選ぶかのように、自身のスタイルを整頓させなければなりません。もちろん書くときは無我夢中でしょう。無我夢中で書けなければ「表現」がぬるま湯のようになってしまいます。しかし、それを冷静に読み返すとき、自己批判の視点を持つことができます。「ああ私は句点を多く用いるな」、「ああこの言葉遣いは厳しいな、俺はこの作品のこの部分に嫌悪を感じているのだな」と、過去の自分を批判します。ここで勘違いしないで欲しいのは、自己批判とは、自己嫌悪に陥ることではないということです。自己を批判するとは、自分を知ることです。自分が何を好きで、何が嫌いなのかをあらかじめ自覚することです。それを通じて、直したければ直せば良し、むしろ延ばしたいところは延ばせば良いでしょう。

 『火垂るの墓』などで有名な、野坂昭如という作家は、「初めて小説を書いたのは、昭和三十八年、三十二歳の夏である。書きはじめると小説とは何ぞやみたいな感じとなり、カッコつければ、ものに憑かれたごとく約六十枚を仕上げ、読み返すと助詞を省いているし、延々と『、』でつないで『。』がないし、行替えも少ない。全く意識しなかったが江戸期の戯文体に似ている」(『この国のなくしもの』PHP研究所)と自己の文体を観察しています。そしてそれを延ばし、磨いたのです。彼の傑作『(ほね)餓身(がみ)(とうげ)死人(ほとけ)(かずら)』の冒頭は、以下のようになっています。


「入海からながめれば、沈降海岸特有の複雑に入りくんだ海岸線で、針葉樹におおわれた岸辺、思いがけぬところに溺れ谷の、陸地深く食いこみ、その先は段々畠となって反りかえる。南に面した地方のそれとことなり、玄海の潮風まともな受けるこのあたりでは、耕して天空にいたるといった旅人の感傷すら許さぬ気配、人間の孜々たる営みを自然のあざわらうようで、それは、いずれもせんたんちいさいながら激しい瀬をもつ岬の、尾根となって谷あいをかこみつつ、背後の、せいぜい標高四百メートルに満たぬ丘陵にのびる、その高さに似合わぬ険しい山容のせいであろう。」


 徹底していると思いませんか? ものを「表現」するための文体(スタイル)を作るとき、このように自分のなかにあるものを徹底させ、先鋭化させることも一つの手です。もちろん、こうも目にわかりやすいものばかりが文体ではなく、例えば村上春樹や、三島由紀夫や、夏目漱石や、森鷗外などの文章には、彼ら独特の文体が息づいております。近年では平野啓一郎の文体がなかなか特殊で、彼は作品ごとに文体を変えているそうです。それが一つ、彼の中の拘りなのでしょう。

 ここまできて、話題がすり替わってると感じた読者がいるでしょう。自分の言葉に責任を持つことと、自己のスタイルを確立することの話題をすり替えた、と。しかし私は一つ同じ次元で話をしています。自己のスタイルを確立できない人間に、どうして自分の文章が信じられるでしょうか、どうして自分の言葉の最後にまで責任を負うことができましょうか。つまるところ私は、言葉遣いを丁寧にさえすれば作品に敬意を示せていると考えるのは馬鹿げている、と言いたいのです。己の分限を持たない人間に、作品を賛美する「表現」力は生まれません。なぜなら、責任を負わないからです。正確に言うと、責任を負う主体がないからです。評者が作品に対してきちんと負うものがなければ、その作品を語ることには決してならないでしょう。批評にも文体は必要なのです。評者は、一人の読者であると同時に、一人の作者なのです。ゆえにその人自身の思考フィルターを免れることができない。それを敢えて自覚し、受け容れ、徹底するなり、磨くなりしなければ、何物をも「表現」できないし、その「表現」に対して責任が持てないのであります。

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