イントロダクション
このサイトの名前は「小説家になろう」ですが、小説というものは、書き手だけでは成り立ちません。読み手、それもかなり目の肥えた人がいなければ、恐らくこの界隈は啻に同好会のようなものであって、作者の修練の場とはなれないと思うのです。尤も、ネット小説の場とは半ば交流の場であります。同好会でもいっこう構わないのです。むしろ、同好の士を得ることでより積極的になることも期待できるでしょう。しかし、それは同時に自己満足と閉鎖性を招くことにもなりかねません。なあなあと物事をやっているうちは、どうにも上達ということはありえないと思われます。上達のプロセスとは、実践と反省の往復にこそあるのです。本作品は、とくに「反省」に重きを置いた内容をとっております。
一方「実践」に関しましては、もうすでにお腹がいっぱいになるくらい、世の中にありふれています。少なくともこのサイトにはさまざまな小説方法論が載せられていますし、現に書籍としてもさまざまな「書き方講座」が書店に置かれていますが、私見を申し上げますと、ああいったものを読んで書き物が上達するならそんなに楽なことはあるまいと考えています。そして、幾つか読んだ印象としては、どれもこれも(多少主張の差はあれ)同じことを言っているのです。つまり、基本的な原稿用紙の使い方や、辞書を引くこと、視点の置き方、キャラクターの作り方やプロットの書き方などなどの、非常に実践的で具体的な方法に終始しているのです。もちろん勉強だと思えば、こうしたものは役に立つし、便利です。あとは与えられた方法論をもとに実践していく。それが実践論の総じての主張なのです。しかし、これは拙作の本旨に悖ります。繰り返しになりますが、私は「実践」ではなく「反省」に重きを置きたいのです。実践的な小説の書き方を学びたいのなら、このサイトではM.N.ぺんくらぶの『0から始める小説の書き方徹底講座!』(http://ncode.syosetu.com/n3716ba/)、別サイトの『ライトノベル作法研究所』(http://www.raitonoveru.jp)、書籍ならディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』(朝日文庫)やリンダ・シガー『ハリウッド・リライティング・バイブル』(フィルムアンドメディア研究所)などがあるので、これらを読んだ方が圧倒的に作者のためになると思います。本文ではそうした小説方法論の説明をあまりしない積りなので、期待している方がいらしたら、すぐ諦めて別のサイトに飛ぶことをお勧め致します。
さて、「反省」のことです。私は以後この言葉を「批評」と置き換えて書きます。先ずあらかじめ言って置くと、的を得た批評はありますが、それ自体が絶対的に正しい批評というものはあり得ません。なぜなら、見方を変えればいろんなものが出てくるのが批評なのであって、質を問わなければさまざまな批評が可能だからです。
物語には大雑把に言うと二通りの見方があります。作品に籠められた作者の求めるテーマを「読解」する見方と、読者が好き勝手に「解釈」する見方とであります。注意して置きたいのは、どちらが良くてどちらが悪いということは絶対にありません。前者のやり方は、「文は人なり」という考え方に基づいたもので、つまり小説は人間が書いたものなのだから、その書き手の為人や作品に籠めたテーマを能く知っていた方が、作品をより楽しめるだろう、という見方なのです。一方後者は、いい加減なように見えますが、こうした作品の見方が「作品の社会現象化」や「萌えキャラ」などを生み出したのだと私は考えています。ミリオンセラー作品がどうして売れたのか、ということを模索するとき、「読者がどう感じたのか」という視点に立つことで、幾つかの手がかりが掴める見方と同じです。つまり、作品を買って読むのは読者なのだから、読者が作品にどれだけ感情移入して、どんな体験をしたのかということに重点を置くことで、作品を深く楽しもうとするのが後者の考え方なのです。
もちろん、どちらも極端に走ると危険です。前者のやり方だと作品というよりも作者の人間像にばかりに目が行き、人物批判に論点がずれてしまいがちですし、後者の場合はただ作品の浅瀬でじゃぶじゃぶと遊ぶだけで終わってしまいがちだからです。それに、作者の表現方法や、腕前などによって、ないしは読者の読解能力や、教養などによって、こうした批評の深浅は大きく変わってしまいます。つまるところ、批評とは、こうした作者と読者との相対的関係の緊張のなかにこそ見出せるものであって、決してただの感想文であったり、況してや解説文などでは収まらないものなのです。それは一つの文芸作品だとしても過言ではありません。
もちろん、これから批評を書こうとするみなさんは、芸術としての批評を書く必要はないですし、私もよくわからないので、これを語ることはできません。これから本文で説明することは大きく分けて二つです。片方を「観察篇」、もう一方を「表現篇」とします。飽くまでこの二篇は、批評を書くための方法論ではありますが、同時に作者の方々にも少なからぬ物をもたらすと信じております。なぜなら、この二つは、より良い小説作品を書くために、あった方が良いこともあるからです。ここで敢えて断定を避けたのは深い理由があるのですが、今は述べません。それはおいおい分かっていくと思われます。取り敢えずは、ここまで読んでくださった皆様のために、次へ行きたいと思います。