第5話:幾つもの迷い
「シロコ。俺の声が聞こえるか」
「……うん」
「どこか悪いのか」
「身体、熱い。頭痛い。気持ち悪い」
朦朧とするシロコはイクの声かけにかろうじて返事をする。
まさか、変身の反動か。
二人がけの座席に寝かせ、水筒の水でハンカチを湿らせて額にあてがう。心なし顔色のよくなったシロコは目を閉じて眠りについた。
列車は各駅に停車しながら走るため、王都に着くまでたっぷり半日はかかる。不安定に揺れる車内に寝かせ続けるのはシロコの身体に負担がかかる。
次の駅で降りるべきか。降ろしたところでどうするのか。医者はミュータントを診てくれるのか。もし診察を拒まれたらどうすればいいのか。他の一族と同じようにシロコまでも死なせてしまうのか……うずまく負の渦に思考が呑まれ、イクは喘ぐ。
「ありゃりゃ。その子、乗り物酔いしちゃった?」
乗り合わせていた乗客が話しかけてくる。
言葉とは裏腹に、声の調子は世間話をするときのそれである。
声の主本人も気さくな雰囲気を漂わせる、黒ぶちメガネの青年であった。
年齢は二十代後半から三十代前半ほど。痩身かつ長身の優男で、白いシャツに律儀にネクタイを締めている。肉体労働者というよりは会社勤めの人間に風貌が近い。
目が合うとにこり、友好的な態度を示してくる。
「キミの妹さん? 僕、酔い止めの薬持ってるからさ、飲ませてあげなよ」
黒ぶちメガネの青年は紙の小袋を差し出してくる。
唐突な厚意を素直に受け入れるべきか、イクは考えあぐねる。
青年はシロコを純粋な人間だと思っている。
半人半獣の遠い隣人を苦手とする人間は多い。今は友好的な青年だって、シロコのフードを脱がした後も同じ態度を取ってくれるとは限らない。そうなってしまったら、シロコを無用に傷つけてしまいかねない。
青年は「まあ、勘ぐるのも当然だよね」と苦笑して肩をすくめる。
「すまない。疑うつもりはなかったんだ。ただ――」
「いいよいいよ。これ絶対怪しいお兄さんだよなー、って自覚しながら声かけたんだよ。実のところ」
などと青年がおどけたおかげで、イクの緊張はいい具合に解けた。
次の駅が近づいてきて列車が減速を始める。めまぐるしく流れていく荒野の風景が、目で追える速さまで緩やかになった。乗客の何人かが下車の準備に取りかかりだした。
黒ぶちメガネの青年は、フードに隠れたシロコの顔色を覗き見て驚く。
「熱があるじゃないか。大変だこりゃ。解熱剤が必要だぞ」
常備薬を分けてもらうよう、青年は車掌に事情を話しにいった。
一等車両に乗る金持ちならいざしらず、二等車両に乗る冒険者ふぜいの訴えなど聞く耳もたないらしい。車掌にすげなくあしらわれている様子が遠目から窺えた。
「おかしいなぁ。鉄道法だと乗客への常備薬の提供は義務付けられてるはずなのに」
戻ってきた青年は皮肉を込めて嘆いた。
「ところで、キミらの行き先は?」
「王都グリアまで」
「王都はちょっと遠いねえ。妹さんには酷かもよ。そこでさ、提案があるんだ」
そう切り出した青年は人さし指を立てる。
「次の駅で一旦降りるってのはどうかな。僕さ、近くの宿に部屋を取ってるんだ。次の町なら医者がいるはずだよ。ついでに遺跡も――って、やっぱこれも大きなお世話だったり?」
しばしの躊躇を経てからイクは「いや、助かるよ」と感謝を述べた。
イクが心を許してくれたことを青年は心底喜んでいた。おせっかいな性分なのを自覚しており、知り合いにも度々それを咎められているのだと白状した。
「僕の名前はミド。見てのとおり怪しいお兄さんさ。こんなナリでも一応、冒険者として遺跡漁りの日々を送ってる。身なりからしてキミらも同業者だよね」
黒ぶちメガネの青年ミドは陽気に自己紹介し、手を差し伸べてくる。
求められた握手にイクは快く応じる。イクの手を握ったミドは、にこにこしながら大げさに腕を上下に振って友好の意を示してきた。明るく社交的な彼に好印象を抱く一方、自分と正反対な性格に対する驚きと戸惑いもあった。
「俺は幾。彼女は白虎だ」
「イクにシロコか。二人とも面白い名前だね。余所の国から来たのかい?」
「いろいろあるんだ」
「そうかー。そうだよね。人生いろいろあるよね。うんうん、わかるよ」
曖昧な言葉で濁したのを察してか、ミドもそれ以上の言及を避けていた。
列車が駅のプラットホームに滑り込む。
寝そべるシロコを抱き起こす。
緩んだ左膝のベルトが外れて義足が床に落ちてしまう。
黒ぶちメガネの青年が素っ頓狂な悲鳴を上げた。
ミドが借りる宿の一室に着く。
天井には洒落た意匠の照明が吊られており、サイドテーブルには白磁の水差しが飾られている。絹のカーテンがかかる窓辺には白い花が挿された花瓶があった。
着替えの服と部屋鍵をイクに渡した清潔な身なりのボーイは、彼らに恭しい礼をした後に下がっていった。冒険者相手の安宿とは違う、裕福な旅行者を泊めるための上等な宿に、イクは終始恐縮していた。
「義足だったんだね、シロコちゃん。いやはやびっくりしたよもう」
「なら、二度もミドを驚かせることになるな」
イクがシロコのフードを剥がす。
白い髪に混じって生える獣の耳が現れる。
ミドは「あっ」と短い声を出した。
「まさかイクも?」
「育ての親がミュータントだから、名前も彼らに倣っているだけだ」
「なるほど。まあ、シロコちゃんの耳を隠してたのは正解だよ。王都ならともかく、こんな片田舎じゃミュータントを怖がる人間はまだまだ多いからさ」
服を替えさせて、シロコをベッドに寝かせる。
コップを傾けて口に水を含ませる。彼女はかろうじて喉を動かし、水を飲み干した。
顔は相変わらず火がついたように熱を帯びている。
冷たい水で絞り直したハンカチを額に当てる。
結局はこれも気休めに過ぎず、熱を下げる根本的な対処が迫られる。
「シロコは成人の儀式を行えなかった。大人たちから力の加減を学べなかったんだ」
俺のせいで、と吐きかけた言葉を寸前でこらえる。
「白い虎の一族が行う成人の儀式か。僕も噂を耳にしたことあるよ。一族の若者たちを集めて凶暴なクリーチャーと戦わせるんだってね」
ミドは腕組みしながら「うーん」と唸る。
「単なる風邪じゃないんだとしたら、医者はシロコちゃんを診てくれないかも」
イクも相づちを打った。
ミュータントは人間と動物の合いの子。純血の人間とは勝手が違い、たいていの医者は診察を拒否する。閉鎖的な暮らしを好むミュータント特有の性質も相まって、彼らの医療に通じる医者は常に不足しており、二者の隔たりを広げる遠因にもなっている。
解熱剤だけを譲ってもらうにしても、薬を処方するには処方箋が要る。処方箋を用意してもらうには診察が必要となる。ミュータントというだけでこうもままならないのかとイクはもどかしがった。
「義理人情に厚いお医者さんと会えるのを祈ろうか」
さっそく医者をさがしにいこうとしたミドをイクは「待て」と引き止める。
「部屋を貸してくれただけで十分だ。これ以上迷惑はかけられない」
「イクが医者を見つけてくるのかい? シロコちゃんの看病は誰がするの?」
「それは……」
言い淀むイク。
彼を言い負かしたミドは背筋を張って、にやりと勝ち誇った。
「シロコは俺が守ると誓った」
「なら、なおさら彼女の近くにいてあげないと」
ベッドの中でシロコは熱に喘いでいる。
癖っ毛の先が汗でぐっしょりと濡れている。
「なんだかワケありっぽいね、キミ。使命感に駆られて気負う気配満々だ。そういう危うい雰囲気が心配になってさ、あのとき僕は声かけたんだ。あのときのキミは、背負う重荷に今にも押しつぶされそうだった」
「これは俺の償い。他者の力を借りるわけにはいかない」
「力は借りるものじゃない。合わせるものさ――なーんて、カッコつけてみたり」
ふざけた調子で言いながらも、彼のまなざしはイクを捉えて離さない。
「想像してごらん。これから続くキミの旅、全部自分の力で乗り越えていけるかい? そういう無茶はきっとシロコちゃんのためにもならないよ」
人間とミュータント、二人きりの旅。
ひたかくしにするイクの罪、死をもたらす呪いの印、氷雷会との因縁、故郷と左脚を失ったシロコ、人間社会におけるミュータントの立場……幾重もの荒波がこれからも彼らをさらっていくだろう。
観念したイクは「ありがとう、ミド」と素直になった。
心を許してもらえたミドも喜んでいだ。
「ここはお兄さんに任せて、キミは吉報を期待していたまえ!」
胸を張っていたミドは意気揚々と医者さがしに出かけていった。
部屋が静まり返る。
「……イク」
薄目を開けたシロコが弱々しくイクを求める。
イクはベッドのそばに寄って腰をかがめる。
「頭がくらくらするよ」
「しばらくの辛抱だ。今、医者をさがしている」
「ミドっておじさんが?」
「彼は信頼に値する」
あの献身が他者を欺く演技だなんてイクは信じたくなかった。
体温でぬるくなったハンカチを絞っている間、シロコは身体を起こしてコップの水を飲んでいた。食欲はない様子で、温かいミルクに浸したパンを少しずつ口に運んでいた。喉が痛くて苦しいとしきりに訴えていた。
夕焼けの茜色が町並みを染める時刻になった。
医者さがしから帰ってきたミドは「世知辛い世の中ですわ」と大げさに嘆息した。
「シロコちゃんの具合は?」
「ようやく寝付いた。とはいえ熱は相変わらずだ」
「こうなりゃ最後の手段しかないねぇ」
「最後の手段?」
「僕らの本分、遺跡探索だよ」
ミドが窓の外を指差す。
夕暮れの町外れに、古代人が遺した無数の塔があった。
「解熱剤の材料を採取しにいくのさ。調合なら僕ができる。近場の遺跡だから、ささっと行って、ちゃちゃっと済ませてくるよ。夜が明けるまでにね」
「同行しよう。シロコは寝付いたし、様態も一応は安定している」
「キミって案外強情だね」
ミドは不本意ながらも同行を許可した。
まあ、彼なら大丈夫かな。何かあっても自分の身くらい守れそうだし。
そんな独り言がイクの耳に届く。
「クリーチャー戦なら何度も経験がある。足手まといにはならない」
「……うん、なら安心だ」
言葉とは裏腹に、ミドは複雑な心境のようであった。
遺跡探索に備えて各々の役割分担を決めた後、身支度をする。
遺跡探索用の装備を各々準備していると、ミドの懐から短刀が落ちる。
それに気づいたイクは床に手を伸ばしかけて……戦慄した。
鞘に彫られた竜の絵柄。
それは、大国グリア屈指の暗殺組織が掲げる紋章と瓜二つであった。