第49話:ラベンダーの夢
熱光線が発射される寸前、影人形クルーガーの身体がやおら硬化した。
何者かが投てきした鋭利な物体が直撃し、固まっていた身体は粉微塵に砕けた。
濁った空に聖なる光球が昇り、神々しき光がススキの大地を照らす。光はイクとシロコを護るように射し、包囲を狭めていた他の人面ブラックマターたちは光を恐れて散り散りに退いてく。ついには地面に逃げ帰ってしまった。
砕けた影人形クルーガーの破片が黒い霧となって天に還る。
邪悪な霧が晴れると、二人の前にクナイを構えた獣耳の女性がいた。
「来てくれたんだな。カズラ」
「死に損なったかイク。それに――」
カズラは震えかけた声を一旦飲み込み、潤んだ瞳をひとしきり擦った後、親しげに笑んで台詞を続ける。
「それに――シロコ。ずいぶんと見違えたね」
「お姉ちゃん」
「さあ、二人とも武器を構えろ。最後の敵を蹴散らす。再会を喜ぶのは後だ」
地面にひときわ大きな染みが広がって軟化し、悪臭放つ泥地となる。そして隆起し、汚泥の化け物へと変貌した。
苦悶に歪んだ顔面をした汚泥の化け物の正体は、逃れられぬ老いから逃れたいあまりヒラサカの口車に乗せられた無様な老人、宰相フェルナンデスの醜悪なる末期の有様である。グリア城での戦闘で浄化されたはずの彼もクルーガーと揃って今一度、ヒラサカの駒として永遠の眠りから呼び覚まされたのだ。
無差別に吐き散らされる酸の汚泥は光球の光で打ち消される。もっとも、効果はその程度に留まっており、流動する汚泥の肉体表面が薄く固まって剥がれ落ちるだけで浄化には至っていない。
「守護の光球を消して魔力を集中し、この者を完全に浄化させます。イクさん、カズラさん、それに……えっと、もしや会話の流れ的にシロコさん、でしょうか? とっ、とにかく頃合を見計らって合図をお願いします!」
カズラのかたわらには翼の聖女ミソギがいて、見慣れぬミュータントの女性と馴れ馴れしく会話するイクたちに若干戸惑っていた。
「やれやれ。こいつらもまさか、地獄から蘇らせられてまで首領にこき使われるなんて思わなかったろうに」
男装の令嬢イザベルも余裕ぶった仁王立ちを決めていた。
「イザベルさんも用意はよろしいですか」
「早く闘いたくてうずうずしているくらいだ」
息切れした汚泥フェルナンデスが酸の吐しゃを止める。
ミソギは光球を手元に戻して念じ、霊感を研ぎ澄ませて魔力を集中させる。
「白い娘」
イザベルがシロコに呼びかける。
「勝負しろ。フェルナンデスにトドメをさした方が勝利だ」
「望むところよ。イザベルってば相変わらず勝負事が好きなのね」
「勝者は――」
「『勝者はイクの伴侶となる権利を得る』でしょ?」
「久しく会わなかったうちに随分と物分りがよくなったじゃないか。変わったのは外見ばかりではないらしい。真の好敵手と認めるぞ!」
自分と競り合う相手が現れるという、思いがけぬ幸運にイザベルはご機嫌。シロコも彼女との競争に乗り気で、不敵ににやついている。勝手に賭けの賞品にされたイクは呆れ返っており、事情が掴めず戸惑うカズラは妹とイザベルを交互に見やっていた。
ミソギの光球が弾ける。
光が拡散し、汚泥フェルナンデスの足元に聖なる魔法円が出現する。
今度は芯まで届いたらしい。流動していた汚泥が次第に硬化していき、汚泥フェルナンデスは錆びついた人形のように露骨に動きが鈍くなった。
シロコは疾駆の瞬間に瑞獣ビャッコに変身して前足の爪で汚泥の肉体を抉る。
イザベルはまっすぐに突き出した細剣で苦悶の顔面を串刺しにする。
一足遅れ、イクの撃った銃弾が硬化した汚泥に風穴を空け、カズラが雨あられと放ったクナイも固まった汚泥を粉々に破壊していった。
ミソギの力で不死能力を封じられた汚泥フェルナンデスは、四人の一斉攻撃を食らって形を保てなくなり、黒い霧になって霧散した。
「フッ、造作もない」
「楽勝ね」
変身を解いたシロコも、剣を納めたイザベルも、己の勝利を確信していた。
シロコとイザベルが向かい合う。激しい火花を散らすとイクは思いきや、二人は意味深に目配せした後「やるわね」「闘い甲斐のある相手だ」と清々しげに称賛し合った。まさかの意気投合であった。
「さてと、イク。私と白い娘、どちらが速かった?」
「……どっちでもいいだろ」
「あら、それは私じゃなくてイザベルさんと恋仲になっても構わない、という意味合いと受け取っていいのかしら。薄情ね」
「はっきりしろ。どっちの勝ちだ? 白黒つかないのは好かん」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
妙な友情で結ばれた二人にイクは詰め寄られる。
「三角関係の修羅場! わたくし、漫画や映画でしか見たことなかったです!」
「ミソギ、キミまで……」
二人に問い詰められて大弱りのイクを救ったのは、遠巻きから痴話げんかを観察していたカズラであった。業を煮やした彼女はイクとイザベル、それと修羅場に興奮するミソギもついでに邪魔者扱いに押し退けた。
そしてシロコを奪い、抱きしめた。
ありったけの愛情をこめた、痛いくらいに強い抱擁。
背後まで回した腕で背中をしきりにさする。愛しい家族の名を連呼する。まるで妹の存在が確たるものであるのか確かめるかのように。
恥じらいをかなぐり捨てて嗚咽する姉に対し、シロコは苦笑しながら背中をなで返していた。
「お前のぬくもり、何度夢で感じたことか。やはり本物の心地には敵わない」
「お姉ちゃん。私を一目でシロコだって見抜いてくれたわよね」
「当たり前だ。お前のお姉ちゃんなんだからね」
長く伸びた髪を愛しげに指で梳く。
「お前はアタシのよすがだ。血の繋がった唯一の、かけがえのない肉親だ。アタシはもう、他人しかいない世界で心細くなる心配はない」
「さびしんぼお姉ちゃん」
抱きしめ合う姉妹。
白い虎の少女二人が望んでいた結末。
この時間ばかりはイクであろうと入り込む余地はなかった。
「ミドさんとははぐれてしまいました」
辺りをしきりに見回していたイクにミソギが先んじて言った。
「エセルタワー内でブラックマターに襲われた際、陽動を買って出てくださったミドさんはわたくしたちとは別行動を取りました。その直後でした。タワーの風景が急に黄泉津比良坂の幻影に変異したのは」
「ヨモツヒラサカの幻影……?」
「口頭では紛らわしいですね。魔王ヨモツヒラサカが居とする超高次元領域。それが死者の往く場所『黄泉津比良坂』です」
「なるほど。ヒラサカの好みそうな戯れだ」
景色の終端がいびつに傾斜し、濁った空を穿っている。黄泉津比良坂の名称に相応しく、地面全体が坂となって上階へと彼らをいざなっていた。
「上の階へ参りましょう。彼の趣向からすれば終点は屋上階。ここでもたついていたら『黄昏と暁』が再び地を焦土に変えます」
「黄昏と暁……まさかそのままの名前だなんてな」
「置き去りにした地上の民をその焔で滅し、文明ごと痕跡残らず焼却する――『地の底に眠る怪物』を屠る他に与えられた『黄昏と暁』の裏の役割です」
「けれど俺たちは生き延びて、文明の歩みを一からやり直している」
その歩みを断つためヒラサカは現代で目覚めさせられた。今は滅びた旧人類の亡霊めいた意思が働いて。
以前とは真逆の穿った憶測であった。
「ところでイクさん。その、貴方の右腕を元通りにする手がかりは……」
「今はヒラサカとの戦いに専念しよう。みんなには心配かけてばかりだな」
「いえ、そんな……」
ミソギは後ろめたげに目を逸らした。異形のイクの右腕から。
坂を登って濁り空を越えた途端、むせ返る花の香りがイクたち五人を迎えた。
抜けるような青空。
目を眩ませる陽射し。
足元に広がるのは鮮やかなラベンダー畑。曲がりくねる小路が紫の絨毯を分けて引かれている。
哀愁をもたらすススキの平原の上には、幼子の無垢な夢を再現したかのような美しい景色が待っており、写実的な風景画の中に放り込まれた錯覚にイクたちは陥った。
「みんなを追っかけてたつもりが、追い越してたのか」
小路に立っていた黒ぶちメガネの優男がそう言った。イクと成長したシロコの姿を目にして彼はぎょっとしたが、それまでの経緯をなんとなく察したらしく喜びをあらわにして二人を歓迎した。
「やあやあ、おかえり。イクとシロコちゃん」
「ただいま、ミド」
「久しぶりね」
「信じてたよ。二人が生きてるって」
ミドは帽子を目深にかぶって目元を隠した。
「やはり私たちは因果の鎖で繋がっていたのですね」
ミドと対峙していた黒服の女性が歩み寄ってくる。
腕組みする彼女は片目を髪で隠しており、その隻眼でイクを見据えている。
「ベラドンナ。お前もまさか」
「私もまた黄昏とともに消えゆく定めの影法師。心臓はとうに鼓動を停止し、魂を喪失した虚ろなる殻」
「そうよね。あなたは私が噛みちぎったんだもの」
「シロコ!」
「気遣い無用さイク。ベラは僕らの倒すべき敵だったから」
あけすけに話すシロコを咎めたイクに対し、ミドは首を横に振った。
傀儡と化したクルーガーやフェルナンデスと異なり、彼女ベラドンナから敵意は窺えない。むしろ浄化した先の二人と比べて人間らしい知性と容姿を完全に残しており、自我もはっきりしている。
わずかに違う点があるとすれば、黒服の袖から伸びるきれいな肌の右手くらい。
その些細な差異はイクに強烈な印象を与えた。
「首領の志半ばで果てましたが、私は自身の行いとそれによってもたらされた結末に何の後悔も未練もありません。イク、あなたを生かしておいた過ちを別にして」
ラベンダー畑を眺めるベラドンナ。
ミドは彼女と肩を並べる。
「キミの半生に何があったか、暗殺組織から足を洗った僕には知る由も無い。けどねベラ、キミの選択によっては幻じゃない、本物のラベンダー畑を手に入れることはできたんだ。過酷で目を逸らしちゃった選択の先に光はあったんだよ」
「グリア大陸で花畑を所有している者など王族くらいです」
「たとえ話さ」
「親友ぶるおせっかいなミドのこと、幼い頃から嫌いでした」
「知ってた」
「家族を持つというささやかな夢。みなしごの私たちには到底届かぬ彼方の夢。それを恥ずかしげもなく語るあなたが不愉快でした。殺人道具になりきっていれば、幸福を犠牲に痛みすら殺せたのに」
「うん。知ってたよ」
「その夢を叶えてしまったあなたが憎かった」
「たぶんそうだろうと思った」
憎まれ口を叩かれながらも屈託なくミドは笑って――
「にもかかわらず構いたくなっちゃうのが僕の性分。ねっ? 二人とも」
振り返って肩越しに、イクとシロコにウインクを送った。
高熱でうなされるシロコを介抱するイクに最初に手を差し伸べたのは彼だった。遠いようで案外近い思い出がイクの脳裏によぎった。
「不思議よね。私のかけがえのない人たちとの出会いは悲劇を前提に成り立ってる」
「幸福と苦痛は表裏一体で運命を織り成す。苦痛を受け入れる強さが私にあれば、あるいはラベンダー畑も……いえ、今となっては詮無いこと」
ベラドンナは小路から外れてラベンダー畑に踏み入る。
「小路の先で首領がお待ちです。『黄昏と暁』第二射の時間稼ぎならもう充分でしょう」
ラベンダーに紛れるベラドンナの姿がゆらぎ、霞む。
「白きエーテルエッジを振りかざす者、イク」
最期の話し相手に彼女はイクを選んだ。
「過酷な運命に抗い葛藤してきたあなただからこそ、天空都市エセルに到達できたのでしょう。私とあなたは似ているようで違う。盲信して痛みから逃れた私と、痛み抜いて立ち向かったあなたとは――」
ラベンダーの鮮やかな風景に溶け込んで、彼女は言葉を紡ぐ半ばで消えた。
次いで、ラベンダー畑の幻影が霧散して晴れ、電気照明が四角い廊下を照らすエセルタワー本来の無機質な内装が目の当たりとなった。
エセルタワー屋上。
夜空はちりばめられた星が輝いている。
地上は文明の灯火できらめいている。
人類が絶えて千年が経過し、営みの音は消えた。主の命令を忠実に守る光のみが、静寂の夜を無意味に明るくしている。だからか、きらめきの美しさに一抹のむなしさが見え隠れしている。
「待ちくたびれたよ」
摩天楼の頂で六人を待ち受けていたのは、トレンチコートを夜風にはためかす男。魔王ヨモツヒラサカの因子を移植された、不死なる存在。
氷雷会首領ヒラサカ。
「さあ、生存競争をはじめよう」