第43話:空中戦闘
雲の覆いから全容を現したヒラサカの飛行船がトリフネめがけて砲撃した。
船内まで響く重低音と同時に足元を揺さぶる震動。テラスを覆うガラスのドームが軋む。そよ風に揺れるホログラム映像の木々が一瞬、ざらついて歪んだ。
トリフネを覆っていた光の壁が薄れる。緊急展開されたこの魔法障壁がなかったら、テラスもろともイクとイザベルは木っ端微塵にされていたに違いない。
砲塔から黒煙を立ち昇らせるヒラサカの飛行船はトリフネに速度を合わせて併走し、次なる砲撃の機会を窺っている。
――回避運動を取ります。みなさん、身体を支えてください!
テラスにミソギの声が響き渡った。
トリフネ全体が急激に傾く。
急降下で敵の一斉砲火を紙一重でかわし、そのまま雲の中に逃げ込んだ。
雲の中は白い暗闇。
テラスに暗黒が訪れた時間は数拍。すぐさま自動照明が機能し、仄かな明かりが空間をうら寂しく照らした。
白い闇の世界を泳ぐ天駆ける舟。テラス全体が雲の白に覆われ、ガラスに張りつく露の流れで正面に向かって進行しているのがわかる。降りしきる雨を耐えて走る夜行列車をイクは思い起こした。
右舷にはぴったり同速で飛行する鋼鉄の影。三度目の砲撃をトリフネに浴びせようと、雲の外から虎視眈々と見計らっている。
「反撃は無理なのか!」
イクとイザベルが操舵室に戻ると、既にミドとカズラも集まっていた。
「こちらも砲撃するとなると、魔法障壁を一旦解かなければなりません」
「丸裸になっちゃうわけか」
「歯がゆいな」
水晶型の舵が赤色に点灯する。
「通信回線を開きます。ヒラサカの飛行船からです」
水晶から操舵室前方上部に映像が投射される。
映像に映るのはトレンチコートの男ヒラサカ。尊大で自信に満ちた余裕を相変わらずたたえている。かたわらには片目を隠した秘書ベラドンナもいて、こちらもやはり普段の無表情をつくっていた。
『大空の旅は楽しめているかね』
「船を下りろ。アタシと一騎打ちだ!」
冷静さを欠いて牙をむくカズラを、ヒラサカは冷笑の一瞥であしらう。
『念願叶って白い娘を取り戻したのかと思ったが、なんだ、死にぞこないの姉のほうだったか。そっちで妥協したのかね、イクくんは』
ヒラサカの映像が揺らぐ。
カズラの放ったクナイは、彼の額を透けて操舵室の窓に当たっていた。怒髪天をついた彼女は放電で髪を逆立て、凶暴な獣の牙をむき出しにして唸っていた。握り締める船内の配管は今にもへし折れそうだった。
「ヒラサカ、お前の首はアタシが捻る!」
『ほう、ヨモツヒラサカの息の根をキミが止めるのか』
ミドはヒラサカの隣に立つベラドンナを真剣に見据えている。
「ベラ、キミの望んでいた居場所はそこなのかい?」
『……』
「ラベンダー畑の家に住む夢、今でも叶えられるんだよ」
『……』
「僕はちょっとだけ叶えたよ。きれいな奥さんをもらって、息子も元気に成長してる。あとはさ、パスタのおいしい街で立派な家を構えるだけさ」
『……』
「……一言くらい、なんか言ってよ。ベラ」
失意にミドはうなだれる。旧知の前であろうとベラドンナは沈黙を貫いていた。
前方の雲が薄れ、青空が見え隠れしだす。
「30秒後に雲を抜けます」
「万事休すってやつかい?」
「さて、ミソギの舵取りに期待だ。私にはどうにもならんからな」
「アタシは……アタシはこんなところでヒラサカごときにやられるつもりはない。イク、お前がどうにかしろ!」
イクたち五人がうろたえている間にも刻々と猶予の終わりは近づく。
「ミソギ、飛べるだけ上昇してヒラサカの射程圏内から離れるんだ!」
「かっ、かしこまりました!」
横に逃げられなければ縦に逃げればいい。一か八かの賭けに出た。
水晶型の舵にミソギが手を添えて呪文を唱える。トリフネが急上昇を始めて重力が増す。窓から映る雲の流れもほとんど垂直になるまで傾いた。焦燥に駆られる彼らをあざ笑う黒い影も執拗につきまとってきた。
「くっ、雲を抜けます!」
『伝説の天空都市への道が拓けたキミたちへの祝砲だ。受け取ってくれたまえ』
いよいよ雲を抜ける。
分厚い雲の頭からトリフネは出現した。
白のヴェールを脱いだトリフネが青空に躍り出て全身を晒し、白銀の船体が日差しにまぶしくきらめいた。闇の中から光の下へ抜け出てイクは目を細めた。
太陽を求めるかのように天高く上昇するトリフネ。
雲海は遥か眼下に。
鋼鉄の飛行船はかたわらに。
「追いついてきたのか」
『その機知は認めるよ。イクくん。私を出し抜くには足りなかったがね』
ヒラサカが指を鳴らす。
『さよならだ。黄泉の淵で逢おう』
ヒラサカの飛行船は待ってましたとばかりに砲火を浴びせてきた。
心臓を震わせる断続的な砲撃音が細めた目をこじ開ける。
鋼の船体を覆い隠すほど火砲の煙が立ち昇る。
魔法障壁に砲撃が命中するたびに激しく震動する。しかも直撃が続くにしたがって半透明の魔力の壁に亀裂が入っていく。絶え間ない攻撃は反撃の余地を与えない。防御を破られたトリフネが空の藻屑と散るのももはや秒読みの段階であった。
「やばい! ホントにやばいってこれ!」
両耳を手でふさぎながらミドが悲鳴を上げた。
「ごめんなさい、皆さん。わたくしが至らぬばかりに」
冗談めかして泣き言を言える彼はまだましなほうである。舵に抱きついて身体を支えるミソギは迫りくる絶望の影に怯え、涙を堪えるのに精いっぱいであった。イザベルは操舵室の計器に目を走らせており、ミソギに代わってトリフネの舵を取ろうとする動きを見せている。カズラは高笑いするヒラサカの映像に延々吠えていた。
そのヒラサカの映像が突如、雑音混じりの砂嵐に変わった。
同時に、にわか雨が止むかのごとく砲撃が途切れる。
「へ? 砲撃が止んだ? どうして?」
「……雷雲がヒラサカの飛行船を覆っています」
「雷雲だと。雲の上だぞここは」
どこからともなく発生した雷雲がヒラサカの飛行船にまとわりついていた。
黒い雷雲から発生する小さな雷が飛行船の先端部分に落ちている。雷撃にやられたマストのプロペラは何本かが動きを止めていた。
安堵したのも束の間、制御不能に陥ったヒラサカの飛行船が船体を傾けて急接近してくる。トリフネに黒い影が覆いかぶさった。
大質量の激突。
左右の大きな揺れ。かき混ぜられたイクたちは壁や機器に身体をしたたかに打ちつけた。頭を打ったカズラは獣の耳を垂れさせて気絶し、ミドに抱きとめられた。
「ヒラサカ……絶対にお前を……殺す」
うわごともやがて途切れた。
魔法障壁がついに破られ、二つの天駆ける舟は側面同士を擦りつける。金属的な摩擦音は船体の表面ばかりか皆の正気をも削ってきた。
砕かれたテラスのガラス片が、晴れた空に光の雨となって降り注ぐ。
ヒラサカの飛行船の甲板に何かがいるのをイクは発見する。
目を凝らす。
じっと目を凝らす。
イクの瞳に映ったのは――魔法の鎖に四肢を縛られた白い虎。
白い虎は身体をもがかせながらなりふり構わず放電している。力任せに暴れて体力を使いきった獣は、散々暴れた後にぐったりと床にへたり込んだ。雷雲が消え、晴れ間が訪れた。
そこから先のイクの行動は、理性を上回った感情の爆発によるものであった。
トリフネ甲板のテラスは衝突で破壊しつくされていた。
ドームのガラスは木っ端微塵。半球型の骨組みは歪み、折れ、落下した一部が床に突き刺さっている。ガラスや船体の破片もそこら中に散らかって、折れたマストが横倒しになっている無残な有様であった。ホログラム映像の木々だけがそよそよと風になびく演技を続けており殊更奇妙であった。
トリフネに船体をめり込ませるヒラサカの飛行船。横倒しになったマストの一本が、上手い具合に二つの舟に橋を渡している。助走をつけて跳躍したイクはそれに飛び乗り、傾斜と雨露のすべりを利用してその上を滑走した。
風圧が髪と防塵マントを暴れさせる。
円柱状のマストから一歩でも足を踏み外せば空の海へまっさかさま。
求めていたものを求めるため、イクは躊躇いを置き去りに、姿勢を低くして空気の抵抗を軽減しながら高速で滑走していた。
終端までたどり着いて対岸の甲板に降り立つ。
水溜りの上に着地。
水しぶきが高く上がり、晴れ空をきらめかせた。
「やっと会えた」
重なり倒れる幾本ものマスト。
その向こうには衰弱した瑞獣ビャッコがいた。




