第42話:愛の告白
操舵室の窓から澄み渡る青を眺望する。
眼下の雲間から覗けるのは枯渇した陸。
天地のコントラストにイクは言葉を失っていた。
船渠の床がせり上がって天井が開き、排水されたタカマガ湖の中心から飛行船が飛翔したのだが数刻前。足元を漂う綿のような雲や穢れ無き青空、陸地に点在するちっぽけな都市の数々をじっと眺めていた。自分たちの住む世界を俯瞰するなど地図でしかできなかったのだから、この見晴らしに心を奪われるのも当然であった。
「飛んでいるんだな、俺たち」
「はい」
水晶型の舵に手を添えていたミソギが返事をした。
飛行船『トリフネ』はマストの金属の刃――プロペラを回転させ、雲をかき分けて空を航行している。プロペラの回転自体はあくまで姿勢を保つためで、飛翔の根本的な原理は船内の魔法動力機関が担っている……などとミソギから説明されたところでイクたち現代人にはさっぱり違いがわからなかった。
「空を飛ぶのが先生の夢でした」
ミソギが唐突にそう言ったので、イクは「先生の夢?」とそのまま訊き返した。
「失われた古代文明の航空技術を蘇らせるのが生涯の夢だ、とおっしゃっていました。五十年前、ディオン先生が」
懐かしでんいるはずの微笑に陰り。
若かりしディオン教授は寡黙で大体愛想が悪かったが、夢を語るときだけ青年の若々しさと青さを発揮していたという。タカマガの秘境で聖女ミソギに会えた偶然を足がかりに天空都市への移動手段を見つけ出し、航空技術を解析するのだと意気込んでいたらしい。彼から熱く夢を語られるたび、内心で葛藤に苛まれたのだとミソギは告白した。
「わたくしは告げられませんでした。天空都市エセルに現代人が踏み入り、世界の均衡が崩れるのを怖れて。トリフネの在処をお別れの最後まで先生に隠していたのです」
――湖の付近の隠れ里に天空都市エセルの居場所を知る者がいる。かの者の名は、癒しの魔法を授かりし聖女ミソギ。
ミュータントの村でディオン教授は確かにそう言っていた。
地下洞窟で初めて出会ったイクたちから教授の名を聞かされたとき、ミソギはどんな心境だったろうか。イクは想像する。あのときの涙は単純な喜びから生じたものではなかったのだ、と居たたまれなくなる。今こうして力を貸してくれているのは千年前からの使命とは別の、もっと個人的な事情が先にあったのだ。
後悔に身を縛られているという共通点をイクとミソギは持っている。
二人はある意味、同類。
「きっと理解している。ミソギの立場くらい理解していたさ。じゃないと、ミソギの写真を大事に持ってるはずないから」
癒しの聖女の存在を秘密にし、肌身離さず彼女の写真を持っていた事実が、ミソギを大切に想っていた証に他ならない。教授はさがしていたのだろう。聖女に認められ、聖女の手を引き、聖女を外の世界へ連れていくパートナーに値する人物を。認められなかった己の代理として。
――ときにイク君。君はシロコ君を娶るのかね?
イクの憶測が正しかったとすれば、あの問いかけの真意は彼が受け取っていたものと真逆になる。
トリフネの甲板は飛翔と同時にガラスのドームが展開してテラスになっていた。
木目調のタイルが張られた床。木陰を伴うホログラム映像の木々が街路樹のように並び、かつての王都と似た優雅な雰囲気をかもしている。ガラスを透けるやわらかい陽光がテラスを暖め、ここが船の上だと忘れてしまいそうであった。
「さながら豪華客船だな」
木陰から日向に現れたイザベルが言った。
片手には抜き身の細剣。
「『何の用だ』なんて野暮な質問はよしてくれよ」
「イザベル。剣をしまえ」
「いい加減、貴様と決着をつけたくてな。このテラスで日向ぼっこをしていたらふと思ったんだ。この陽だまりの中でイクと一戦交えたい、と」
あくびを誘うのどかな空間でその発想に至るのがいかにも彼女らしかった。
彼女も薄々感じているのだろう。すべてに終止符を打つ決戦が間近であることを。
「私は聖女や白い娘の姉ほどヒラサカに固執していない。正直、天空都市だとかブラックマターだとかには大して興味はない。世界平和の大冒険なら勝手にやっていてくれ。私が一心不乱になれるものはこれひとつ」
挑戦的な笑みを浮かべながら腰を落とし、刺突の構えで格好をつける。
「荒野の只中、閃く二つの剣。至近距離に詰め寄ったとき交じり合った二人の激しい呼吸、熱を帯びた吐息……あの興奮、血の昂ぶりが忘れられない。もう一度味わいたくて仕方がない」
物騒なものを片手に握りながら、秘めた想いをつぶさに語る。
「これが私の初恋だ」
「……恋」
「イク、お前が初恋の相手だったんだ」
「初恋の相手に剣を向ける奴なんていないぞ!」
「いるさ。この私、イザベル・クレージュ・エスパーダだ」
キザな台詞で見得を切る彼女の表情『だけ』は恋する乙女のそれであった。
決闘こそが彼女なりの恋愛表現なのだ。
上天の陽がガラスドームの骨組みと重なって、細長い影が二人の上に落ちる。三つ数を数えるはかない時間の涼しさの後、再び陽の光と熱がイクのまぶたを焦がし、細剣の刀身をまぶしく光らせた。
まるで、そよかぜになびく草原の昼下がり。
静けさの中でののどかな涼しさ、暑さは、世界が混沌に陥る瀬戸際であるのを忘れさせる。
「さあ――命を賭けた決闘だ」
雲海を泳ぐ舟の上、紅の闘士は宣言した。
「エスパーダ家を継ぐに相応しい血の熱を持っているか、ためさせてもらうぞ。貴様を花婿として迎える最終儀式だ」
瞳の炎を燃えさからせる。
「行くぞイク。エスパーダの剣閃、捉えてみろ!」
大股での踏み込みからの腰の捻り。そして限界まで引いていた右腕をイクの心臓めがけて突き出す動作は文字どおり、目にも止まらぬ速さであった。筋肉の躍動と加速の力を重ねた細剣の刺突は防塵マントをはためかす暴風を起こした。
風が起きた瞬間にイクも抜刀していた。
鞘から半分だけ抜いた太刀をわずかに傾け、イザベルの細剣を迎え撃つ。彼女の渾身の刺突は太刀の刀身に受け流され、心臓を貫く直前で折れるように逸れた。崩れかけた姿勢を元に戻したときのイザベルの面持ちは、興奮と狂喜で熱を帯びていた。
「そうだ! それだ! そうでなくては!」
「イザベル、訊いていいか!」
「聞いてやろう!」
「この決闘、俺が勝ったらどうなるんだ」
「私をも退ける強者ならば、エスパーダ家当主足る実力の男子と認めてやる」
「お前が勝ったら?」
「潔く私の婿になれ」
氷雷会すら舌を巻く悪質極まりない二者択一であった。本人がまったくの無自覚で選択を押し付けてくるのが特にひどい。
恋は盲目とはよく言ったものだ。
イクは呆れきった溜息をついた。
「どうした。さっさと剣を構えろ」
「なあ、一つ言わせてくれ」
「なんだ」
「勝者がどちらになろうと、決闘で片方が死んだらお前の婿さがしはふいになるんじゃないか?」
「……んっ?」
「イザベルは決闘で殺した俺を婿にするのか? それとも死んで幽霊になってから俺と結婚する予定なのか?」
「……ううむ」
眉間にシワを寄せながら考え込むイザベル。
長い沈黙。
黙り込んだ末に合点した彼女は「なるほど」と首を縦に振った。
「私が敗北するなど考えていなかった」
「その納得の仕方、ちょっとズレてるぞ」
「フフッ、イクは頓智にも長ける男だな。惚れ直したぞ」
旅を共にする女性たちで、なんだかんだで一番の乙女は彼女なのかもしれない。一途に向かう先が世間の女性とは違うだけで。
「極端すぎるんだよ。イザベルは」
「極めて何が悪い」
「悪いさ。恋愛は互いの感情を通じ合って初めて成立するものだろ。お前たち貴族の慣習は別かもしれないがな」
「剣どころか、愛すらイクに届かなかったというのか」
「『当てずっぽうにぶん投げたせいで、どっか遠くに飛んでいった』っていうのが正しい」
「向こう見ずな性格が災いしたか」
「無謀で猪突猛進なところはイザベルの良さでもある。シロコがいなくなって途方に暮れていた俺を救ってくれたのはイザベルだったからな」
「あくまで友人に対する褒め方をするのだな、イクは」
ままならんものだ。恋愛とやらは。
うつむき加減に見せた寂しさとイザベルの悔しげな微笑は妙に艶やかで、イクの心をほんの少しだけ動かした。
イザベルがお嬢さまらしい高貴な衣装をまとって化粧を施したら、どれだけ見違えることか。闘牛士を真似た、炎を象徴するカポーテも十分似合っている。しかし、氷雷会の悪事に加担する羽目にならなければ、彼女が本来着るのは可憐なドレスであったのだ。
もしもそんな彼女に猪突猛進な愛の告白をされたら『決闘』の結末も変わっていたであろう。
「なるほど。わかった」
イザベルは潔く細剣を鞘に納める。
「わかったよ、イク」
「ああ、やっと諦め――」
「仕方がないから『種』だけいただくぞ」
そしてやおらイクの胸倉を掴んだ。
掴んだ胸倉を持ち上げてドームの側面に押し付け、イクの動きを封じてくる。
油断していたイクは彼女に完全に拘束されるかたちとなってしまった。
「私もエスパーダ家の子孫を繋いでいく役目があるからな」
冗談ではない台詞に戦慄する。
「おい! ちょっと待て! 嘘だろ!」
「私は嘘をつくのもつかれるのも好かん」
「冷静になれ!」
「男なら観念するときをわきまえろ」
イザベルの様相をたとえるなら、乙女の首筋に牙を立てる吸血鬼。
ところが彼女が急に手の力を緩めたせいで、イクは床に尻餅をついてしまった。
イクを放り捨てた彼女は血相を変えてテラスの窓ガラスに両手をつき、外の景色に食い入った。
「外を見ろ」
促されたイクはガラス越しの大空に目をやる。
果ての果てまで広がる青空。
ちぎれて漂う白い雲。
そこに紛れる黒い影。
王都を発ったヒラサカの飛行船が飛行していた。
針山のごとき数の砲塔をトリフネに向けて。