第40話:雪降り積もる街
濃緑の屋根に薄雪が積もり、西方都市タカマガは白き世界に。
厚い雪雲から振る雪の欠片は都市の背に広がる湖にも絶え間なく落ち、水面の一滴として儚くとけていく。
「かつて、この地で天空都市タカマガが建造されました」
ミソギの吐息で車窓が曇る。
「天空都市タカマガが飛び立った跡地。それがこの湖でございます。残念ながら浮上は失敗し、都市は付近の大地に墜落しましたが」
地上の脅威『地の底に眠る怪物』から逃れんと全世界で都市浮上計画が実行され、成功したのは百数十のうち片手で数える程度であった。墜落した都市は『怪物』の殺戮以上の災害を地上にもたらした、とミソギは説明した。
列車が停車して扉が開く。
雪をまとって吹きすさぶ凍てつく風に抗い、イクたちは降車した。
雪を踏みしめる、慣れない歩き心地。
市街地の縦に長い住宅や商店は、曇天の下では更に圧迫感が増している。大通りの積雪は馬車と通行人で踏み固められ、わだちと足跡が汚く残されている。防寒具を着込んだ人々はマフラーの隙間から白い息を冷えた大気に吐いている。
うー寒っ。冬眠しちまうわ。
すれ違ったカエル男が両腕を抱きながら寒がっていた。
ついてねぇ。マッチがしけてやがる。
あっしに貸しなさいな、旦那。
トカゲ男が指先に火を点し、相方の葉巻に近づけた。
紛争の火種としてくすぶっていた二者の軋轢は、皮肉にもヒラサカの企みによって急速な解消を見せていた。
まさかヒラサカはあえて荒治療を……いや、あまりにも安直だな。
陳腐かつ都合の良すぎる憶測をイクは口にするまでもなく否定した。
街中で五人は一旦解散し、個々旅の支度に取り掛かっていた。
イクが郵便局に立ち寄ると、ちょうどミドと鉢合わせた。知り合いと鉢合わせるなど思いもしなかったらしい彼は、メガネ越しに帯びていた陰りを陽気な声色で無理やり消して「やあ」と親しげなあいさつをしてきた。
「やっぱ貨物便も止まってたよ。都市間の路線が軒並み運行休止しててさ。僕らの乗ってきたアレが最後っぽい。積雪じゃなくてブラックマターのせいでさ。キミも家族に手紙かい?」
「狩猟に出かけた男たちへの狼煙が故郷での唯一の伝達方法だ」
「そっか、ミュータントの一族に育てられたんだったね」
「望郷も哀愁も、冒険者の道を選んだその夜に捨てた」
「キミってばキザな台詞を自然と言えちゃうよねぇ」
雪ケッコー降ってるねぇ。
そう窓の外に視線を誘導した隙にミドは便箋をポケットにねじ込んだ。
「ミドがここに入っていくのを偶然見かけて心配になったんだ。おせっかいだったか」
「持つべきものは友だってしみじみ感じたよ。仕送りはちゃんと届いたかなぁ」
「家族のところに戻らないのか?」
エスパーダ邸を発つ前にもイクは提案したが、彼は今回と同様、首を横に振っていた。
ミドの妻子が暮らしている南方都市は大規模な港湾があり、漁業と貿易が盛んな商業の中心地。ブラックマターの侵略は遠いが、遠くとも近くとも災禍はいずれ訪れる。
「妻と子をおんぼろアパートにほったらかして旅する僕が、殊勝にしたところで何を今更って感じでしょ」
おまけに昔の女友達を心配してるときたら、幻滅されるしかないよね。
小声で自嘲し、すくめた肩を落として溜息をついた。
損な役ばかり演じてくれる彼とて見栄やプライドはあるに決まっている。イクは浅はかな気遣いで郵便局に入ったのを後悔した。
「天空都市の『至宝』に願いを叶えてもらえば、奥さんも子供もミドを見直すだろうさ。パスタが美味しくて暖かい街で暮らすのが夢なんだろ?」
ところがミドは「うーん、至宝か……」と難しそうに額に指を添えて悩む。
「キミには悪いけど、どうも胡散臭いんだよね。都合が良すぎる代物で。ヒラサカがそれに関して一言も言及していなかったのも怪しいし。あの演出家気取りがこんな絶好の小道具、隠すと思うかい?」
「ヒラサカは至宝の存在を知らない……いや、だとしたら手下をけしかけてディオン教授を執拗に脅していたのが不可解になる」
現段階では判断の材料が少なすぎ、どれほど悩もうが詮無かった。
郵便局を出てミドと別れると、入れ替わりにカズラと会った。終始無言でいた彼女は、ミドが洋食屋に入ったのを見計らってイクに口を利いた。
「あのメガネの道化、確かベラドンナと顔見知りだったな」
ベラドンナ――長い前髪に片目と感情を隠したヒラサカの秘書。イクに偽りの情報を与え、白い虎の一族を滅ぼさせた張本人。そして白き呪いの力を右腕に宿している。イクにとっても浅からぬ関わりがある。
「首領ヒラサカの命令を忠実に実行し、立ち塞がる敵は容赦なく排除する。感情を抑えているのとは違う、初めから心などないかのような空虚な……謎めいた女だ。アタシは雇われの身だったから、竜の紋章の暗殺組織に所属していたこと以外は――ん、どうした。間抜け面して」
イクが惚けた顔をしているのをカズラは訝る。
「シロコそっくりの顔でそんなしゃべり方をするから、面食らったというか……い、いや、すまない。カズラをシロコの代わりだなんて決して思ってはいない!」
悪鬼の形相で睨まれたイクは大慌てで弁解した。
「痴話げんかか? 私も混ぜろ」
そこに意気揚々とイザベルが乱入してきて、なおさらややこしい事態となったのであった。
探索の支度を済ませた翌朝。五人は町外れの凍れる洞窟に足を踏み入れた。
タカマガの秘境へと繋がる自然の地下通路。視界を奪う暗闇とすべる足元に注意しながら慎重に進んでいく。吹きすさぶ風に運ばれた雪は奥に進むに連れて減っていき、代わりに壁面の凍結が厚くなっていった。
先導するミソギのたいまつの火が不自然に揺れる。
彼女は「ここですね」と足を止めた。
植物型クリーチャーが根を張っていた急流の手前、以前イクたちが休息した広間であった。
何の変哲もない岩肌の壁に彼女が手を添える。
奇妙なことに、バスタブの湯に浸けるかのように彼女の腕は深く壁の中にめり込んだ。それどころか彼女は左半身までも壁の中にめり込ませてしまった。
壁の表面は不思議と波打っている。
「ホログラムを利用した隠し通路です」
「幻視の魔法で壁を偽装していたのか。アタシたち一族も狩りの待ち伏せで使っていた。勘の鋭い獣は風の流れで察知していた」
「僕さ、確かこの近くで寝転んでたよね」
「勘の鈍いメガネくんだな」
ミソギの手引きによってイクたち五人は更なる地下へ。
岩肌がむき出しだった周囲は幻視の偽装を跨いだ途端、王城の地下と同じコンクリートと電気照明の空洞に様相が一変した。洞窟は古代遺跡にも続いていたのだ。
橙色のぼやけた照明が照らす薄暗闇を五人は歩く。
山なりの天井で、横幅にだいぶ余裕のある地下通路は中央に白線が引かれている。ミソギによると、自動車なる輸送機械が通るためのトンネルとして利用されていたとのこと。
――みなさま、大変お疲れさまでした。
陽気な女性の声が唐突に。
イクたちは反射的に身構えた。
――間もなく天空都市タカマガへと到着いたします。
通りのよい女性の声はトンネル内に反響する。
――バスが停車するまでお席を立たないようお願いいたします。お忘れ物には十分ご注意ください。お預かりしましたラックは都市到着後、局員がタグの番号順に検査、搬出いたします。
そもそもこの声はどこから聞こえてきているのか。近くからしているのは確かでありながら、周囲をくまなく見渡しても人影はない。イクたちは正体不明の声に困惑していた。
「シャトルバスの無線アナウンスを傍受したのですね」
ミソギの真剣な面持ちが、右手に持つタブレットのバックライトに照らされて陰影を濃くしている。
――ペット、植物等の持ち込みは衛生管理の関係上、固くお断りしております。これらの無許可の持ち込みをした場合、天空都市法Dクラスに則り移住権を剥奪いたします。その他禁則事項等はオリエンテーションで配付されたガイドブックをご参照ください。
皆、タブレットの音声に聞き入っている。
――ランチケースをトラッシュボックスに捨てるのはご遠慮ください。後ほど局員がトレイごと回収いたします。
――長いトンネルもようやく抜けようとしています。
――私たち人類の新たなステージ、近代的空間と自然が調和した天空都市タカマガ。局員一同、まごころをもってみなさまを歓迎いたします。
やたら流暢で整った発音を冒険者たちは薄気味悪がった。ときおり雑音がひどくなって音声が奇怪に捻じ曲がるので余計に。
――どうぞよりよい生活を!
ひゅん。
鋭利な影がイクの耳元を高速で飛んでいき、風を切った。
コンクリートに固い物体の落ちる音が遥か遠くで反響した。
頬を軽くなでる。赤い血が指を汚し、後を追って小さな痛みが走った。
「悪運の強い奴だぜ。まあ、俺も他人のことは言えねぇが」
曲がり角付近に大男の人影。
つばつき帽子で顔の上半分は隠れており、口元は葉巻の火で赤く灯っている。
ずんぐりとした身体を悪者の証である黒服が包んでいる。
大男は靴音を鳴らして近づきながら、背中の矢筒に手を伸ばしてクロスボウに新たな矢をつがえた。弦を引くレバーの軋みが聞こえてきた。
浅からぬ因縁で繋がった邪悪なる男。坑道の崩落に呑まれて死んだと信じきっていたイクとカズラは、彼との思いがけぬ場所での再会に絶句していた。大男の方はクロスボウの装填を完了させて彼らを歓迎した。
「鼻のよじれる獣の臭いがすると思ったら――」
「……生きていたのか」
「気に食わねぇ、スカした小僧の声がすると思ったら――」
「クルーガー!」
「てめぇらだったとはな」
氷雷会元幹部クルーガーは、捨てた葉巻を革靴の底で捻じり潰した。