第4話:騒がしい出立
闇夜、満月がおぼろに浮かんでいる。
四角に切り取られた月明かりが差し込み、部屋をほのかに明るくしている。
隣のベッドのシロコが寝付いたのを確認してから、イクは小箱の封を解いた。
膝の上に落ちた、何粒かの白い錠剤。
躊躇の後、そのうちの一錠を水で飲み干した。
右腕が疼きだす。
意識の混濁が始まる。
イクはベッドに伏せた。この抗い難き疼きとめまいから解放されるなら、たとえ悪夢であろうと夢の中に逃げ込みたかった。
翌朝。
荷物をまとめて宿を後にする。
シロコは線路の上に立って地平線の彼方を眺めていた。
「汽車はまだかな?」
「もうしばらくしたら停車するはず。駅で待とう」
静けさを保つ荒野の田舎町を二人は歩く。遺跡探索を目的に訪れた冒険者とときおりすれ違うくらいで、往来を歩く住民の姿は窺えない。労働者のほとんどは早朝の列車で鉱山労働にでかけていた。
手ごろな小石を蹴って遊びながら、シロコはイクの隣にぴったりくっついている。
「ねえねえ、イク。王都ってどんなところ?」
「王都グリアは大国グリアの首都だ。荘厳な王城、最高学府たる王立大学、豪華絢爛を体現した劇場、市場、サーカス、紡績工場……ありとあらゆるものが集っている。駅だって国中の汽車が停まるからかなりの規模だ」
「早く見てみたいなぁ、お城」
白い虎の一族として山間の集落でひっそり暮らし続け、イクに助けられてからは町の中で療養生活を過ごしてきたシロコ。彼女からすれば、線路の果てには胸をときめかす新世界が待っているといっても過言ではない。
「はぐれたお姉ちゃんたち、もしかしたら王都にいるかもしれない。あっ、もちろんイクの呪いを治すのが一番大事だよ。大学で偉い先生に会えばいいんだよね? 呪いを治す手がかり、掴めるといいね。絶対に掴もうね」
ふいにあの日の悪夢が脳裏によぎり、イクを責め立てる。
悲鳴が、断末魔が、責め苦の怨嗟となって胸の中で渦巻く。
青ざめるイクを心配したシロコが、彼の顔を覗きこんできた。
「風邪引いたの? 昨夜もうなされてたし」
「遺跡の探索で疲労が溜まっただけだ。列車の中で一眠りすればよくなる……必ず見つけよう、逃げ延びたシロコのお姉さんたちを。それまでは俺がキミを守る」
イクが笑みをつくるとシロコの頬が赤らんだ。
駅に向かって意気揚々とシロコは走り出す。
イクを置き去りにして一足先に酒場の角を曲がろうとした、そのとき、おり悪く建物の陰から現れた男と出会い頭に衝突してしまった。
尻餅をついた男が怒声と共に起き上がる。
「てめえ、俺を誰だと思ってやがる」
ドスの聞いた声にシロコは震え上がる。
黒い上等な服はつやが効いており、同じく丁寧に磨かれたつば付き帽子を頭にかぶっている。加えて今の台詞。葉巻をくゆらせるその中年男性は傍から見る限り、真っ当な人生を歩んでいる人間とは到底思えない。
イクが駆けつける間に、侍っていた部下らしき男たちが一斉にシロコを囲った。
「ここら一帯を取り仕切るこの俺、クルーガーさまの服を汚すとはいい度胸だ」
「わ、私、別に度胸は強くない、です」
「ケンカ売ってやがるな、小娘が」
青筋を立てた鬼の形相でシロコを睨みつける。取り囲む部下たちも殺気立っている。あまりの緊張にシロコは完全に居すくまって硬直し、うんともすんとも言えなくなってしまった。
ミュータントは往々にして人間と距離を取りたがる性質を有している。シロコはそれに輪をかけた深刻な人見知りで、イク以外の人間と話そうものなら声がうわずってしまい、ろくに会話が成立しない始末なのである。
「彼女の非礼は俺が詫びる」
「小娘はてめえのツレか」
クルーガーという名の男はイクの知る限り、ただ一人である。
グリア大陸最大勢力のマフィア『氷雷会』幹部、荒くれ者のクルーガー。シロコのぶつかった相手は、よりにもよって一番出くわしてはいけない類の輩であった。
イクは防塵マントの下で太刀の柄に手を触れる。彼らがシロコに乱暴を働こうとしたならば、力ずくでもこの場を突破する心積もりであった。
クルーガーの部下がシロコの胸倉を掴む。
かぶっていたフードが落ち、白い髪と獣の耳があらわになる。
緊張の極限に達した彼女の全身が電気を帯びだす。
「この小娘、ミュータントだ! どうりで獣臭いと思ったぜ」
「触らないで!」
男の手が耳を掴む寸前にシロコが叫び、彼女の内に眠る力が呼び覚まされた。
全身が青白く発光し、鼓膜をつんざく雷鳴と視界を覆う閃光を伴い、雷がほとばしる。シロコに触れていた者はおろか、周囲を囲んでいた他の部下たちまで雷撃を浴びて吹き飛ばされた。部下を盾にしていたクルーガーはかろうじて踏ん張っていた。
巻き起こっていた土煙が晴れて、シロコの姿が晒される。
全身には白い体毛。
口元から覗ける二本の鋭い牙。
鋭利な爪の生える四肢。
ミュータントの真なる力を解放して『変身』したシロコの外見は、大部分が人間側から獣側に傾いていた。
クルーガーの部下たちはシロコの変身した姿にうろたえ、包囲の輪を崩す。
「なにビビってやがる。やっちまえ!」
業を煮やしたクルーガーが怒号を上げた。
総動員で殴りかかってくるクルーガーの部下たちを、シロコは軽々と持ち上げて次々と放り投げていく。幾度か瞬きをする間に、敵は全員片付けられてしまった。
激怒したクルーガーが拳銃を構える。
すかさず抜刀したイクがシロコをかばう。
極度の興奮状態にあるシロコは冷静さを完全に失くしている。鋭い牙をむき出しにし、クルーガーにありったけの敵意を向けていた。彼が引き金を引くより先に、彼女の牙と爪が手首ごと銃をそぎ落とすだろう。
「こいつは私がやっつける。イクは下がってて」
「イクだと?」
クルーガーの眉間がぴくりと微動する。
「それが小僧の名前か」
イクの名を耳にするなり、妙なことにクルーガーは構えていた拳銃を下ろした。それどころか、あからさまに上機嫌になっている。彼の不可解な行動にイクは警戒を強めた。
ヒゲの生える顎をなでながら、ためつすがめつイクを観察する。不穏な空気はなおも立ち込めている。イクは油断せずクルーガーの視線を追っていた。
「イクとかいう小僧。てめえは先月の任務でなかなかいい働きをしたらしいな。首領も褒めていらっしゃったぞ」
イクの動悸が激しくなる。
頼むから白い虎の一族の件だけは口にしないでくれ。
内心そう祈る。
「首領が近々『黄昏と暁』を実行されるのは、てめえの耳にも及んでるはずだ」
黄昏と暁。何かの暗号か。
まったくの初耳であるものの、クルーガーに合わせて相づちを打つ。
「首領たっての希望でてめえをその一員に加えるために、俺はこんな田舎町くんだりまで来たんだ。もちろん薬はあるぜ。てめえも薬が必要なんだろ?」
黒塗りの高級馬車がクルーガーのそばに停まる。急ぎの用事があるのか、クルーガーはイクの返事を待たず馬車に乗り込んだ。部下たちもほうほうの体で彼に続いた。
革の座席に大股を開いてもたれたクルーガーは新しい葉巻をくわえる。部下が恭しい手つきでマッチの火を先端に当てた。
「気のいい返事を待ってるぜ。あんまり素っ気ない態度を取って俺の機嫌を損ねちゃあ、てめえのためにならない。ツレの獣臭い小娘にも教えとけ。王様だろうがミュータントだろうが、氷雷会にたてつく奴はただの命知らずだってな」
葉巻をくゆらせるクルーガーは、最後に不愉快な高笑いを決めた。
通行人などお構いなしに、猛烈な勢いで馬車が走りだす。
蹄鉄と車輪の音が遠くに消える。
イクたちの成り行きを遠巻きから見物していた少数の野次馬たちが、氷雷会への悪態を口々につきながら家の中に帰っていく。
イクはほっと胸をなでおろす。
シロコは変身を解いて人間の外見に戻っていた。地面にへたり込んで、溢れんばかりの涙の海を目じりに浮かべていた。
力強い汽笛の音が大気を轟かせる。
地平線の彼方にもくもくと立ち昇る蒸気が見えた。
楽しみにしていた蒸気機関車に乗ることができても、シロコは座席に座ったまま大人しくしていた。物憂げに窓枠に頬杖をついて車窓からの町並みを眺めていた。クルーガー率いる氷雷会との一件が相当堪えている様子であった。
プラットホームのベルがけたたましく鳴り響く。
車掌が各車両の扉を閉めて回る。
「イクはあの怖い人たちの仲間なの?」
「違うさ」
心細げに問われ、イクは否定した。
「俺はあんな連中の仲間なんかじゃない……決して」
自分自身に言い聞かせるように繰り返した。
がくんっ、と車両が大きく揺れる。
車窓の町並みがゆっくりと横に流れていく。
発車した蒸気機関車はみるみる加速していく。
プラットホームが遠退いていく。
一ヶ月以上も滞在していた荒野の町はあっという間に視界から消えてしまった。
赤茶色をした不毛なる荒野を列車は走る。石炭のくべられていく蒸気機関で膨大な力を生み、煙突から蒸気を立ち昇らせ、車輪を回し、線路に転がる小石を粉砕して。
シロコがしなだれかかってくる。
甘えてきたのかと勘違いしていたイクは、肌と肌が触れ合ったときの異様な熱に目を剥いた。
耳にかかる、熱を帯びた荒い呼吸。
列車の震動で姿勢を崩したシロコは、そのままイクの膝に力なく倒れた。