第36話:ブラックマター蹂躙
影人形ブラックマター四体による波状攻撃。一つを回避しても他の個体からの攻撃が立て続けに襲い掛かってきて防戦を強制してくる。固体同士戦術的に協力するまでの知性を有していない分、物量と攻撃力で圧倒してきていた。
伸長して攻撃してくる腕を紙一重でかわし、太刀で斬り落とす。切断された腕は陸に打ち上げられた魚のごとく地面をのたうち、次第に丸まって黒い塊となり、人型への形成を始めた。本体の欠損箇所はとうに修復していた。
「まさか無限に増殖を」
ついにブラックマターは五体に増え、イクたちの頭数を上回った。
「自我、個性、欲求、痛覚、喜怒哀楽――戦闘の足かせとなる要素を片端から排除した存在が影人形ブラックマター。決して明かしてはならないはずであった、古代文明の黒き遺産。ミュータントをも超える自己修復機能こそ有していますが、分裂して増殖する能力まではわたくしでも聞き及んでおりません……」
影人形どもはさながら歩く兵器。複眼からは熱光線を照射し、伸長する両腕で獲物を捕縛して吸収する。しかも攻撃を加えられた分だけ数を増やす。敵からすれば純粋に戦慄の対象。
こんな怪物が地上に現れたら、人類に為すすべはあるのか。
恐ろしき破滅の事態が容易に想像できてしまい、イクは退却の選択を頭の中から無理矢理消し去った。当たれば即死に等しい熱光線と捕縛の腕をいなしつつ、打開策を練らねばならなかった。
「もし、もしも仮に、ブラックマターの分裂能力がヨモツヒラサカの魔力の影響だとしたら、わたくしの聖なる魔法で封じられるかもしれません」
ミソギの意気は勝ち目の薄い博打に挑む場面でのそれであった。根拠のない可能性だろうと、すがって血路を開くしかなかった。
イクがミソギの前に立ちはだかって盾となる。
ミドとイザベルは左右に展開し、おとり役を買って出る。メガネの彼は暗殺の心得を生かして。紅の彼女は持ち前の無茶を発揮して。
知能が極端に低いらしいブラックマターは五体いずれも目論見どおり、最前列で目障りに立ち回る彼ら二人を優先して攻撃している。攻撃方法も単純に目標を狙うだけなので、回避は容易であった。熱光線はコンクリート壁を赤々と融解させ、伸びる腕は空を掴んでいた。
両手を握り合わせ、歌に似た呪文を唱えるミソギ。
聖女の清歌に呼応してブラックマターの足元に魔法円が出現する。柔らかい旋律を連想させる美しい紋様が描かれている。紋様は聖なる光を強め、ブラックマターの一体を拘束した。
好機。
敵の攻撃を避けながら肉薄するイク。
突出する敵を察知した残りの四体が一斉に彼を狙ってきた。
捕縛を試みて伸びてくる黒い腕が波打ち、服と皮膚の表面を裂く。かすり傷から血が跳ねる。超高温の熱光線が真横を通過する。耳元の髪が焦げて嫌なにおいがし、たなびく防塵マントの端が溶けた。至近距離での強烈な発光で、眼球が潰れそうだった。
光線が二発、三発、立て続け。黒い腕もそれに混じる。イクは上半身を反らせ、捻らせ、両脚で巧みにステップを踏み、紙一重の距離で死に物狂いに避けながら接近を続けた。光線が通り過ぎたときの高熱を肌で感じるたび、死も感じた。
猛攻をしのぎ、拘束されたブラックマターをついに太刀の間合いに捉えた。
聖なる光の帯に四肢を縛られたそれをねめつける。
歯を食いしばる。
鬱血するほど固く柄を握りしめ、ありったけの力で太刀を振り下ろした。
確かな手ごたえ。
金属の反響音。
ブラックマターの身体を袈裟斬りにしたイクは、勢い余って刀身で床を叩いてしまい、前のめりによろめいた。
狂ったような激しい動悸。加えて極度に上昇した体温。
脳へ供給される酸素が欠乏しており、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。許容量を超えた発熱は視界をも霞ませている。ふらつく膝はついに身体を支える力を失い、イクは四肢で這いつくばった。止めどなく汗が流れてコンクリートの床を黒くした。
首を傾け、視界の端に影人形の成れの果てを捉える。
まっぷたつに分断されたブラックマターはしばらくして――黒い霧となって消滅した。
残るは四体。
イク、ミド、イザベル、ミソギは残る力を振り絞って奮起した。
五体ものブラックマターとの死闘を勝利で終わらせた。
だが、地上に帰ってきた彼らを待ち受けていたのは絶望の光景であった。
「どうするのさ、コレ」
帽子を目深にかぶったミドが諦めを口にしたのも当然であった。
市民らがこぞって外壁の門を目指して逃げている。衛兵の誘導に従っている者もいるが、恐怖して逃げ惑う者が大半であった。
視界に映るだけでもブラックマターが三体、街中をうろついている。
グリア軍、フェルナンデス軍、氷雷会構成員、市民などの死体が転がっており、影人形たちはそれらを無差別に捕縛し、身体に取り込んでいた。兵士の発砲を受けながら黙々と前進する影人形は、有効射程に近づくや否や、腕を伸長させて兵士を貫き、引き寄せて胴体に吸収した。
熱光線を浴びたらしい商店があちこち火に包まれている。
野戦砲が天と地を重く震わせる。
砲弾の直撃と炸裂を直で受けたブラックマターは上半身を抉り取られた。歓喜するグリア軍を尻目に、イクたちは飛散した黒い断片の数を数えて戦慄していた。
黒い断片が地を這って寄り集まり、手ごろな大きさにまとまって、各々人型に再生しつつある……。
「ヒラサカが『蒔いた』のか」
シロコと巡った王都グリアの栄華は、黄泉の主の手に堕ちた。
ブラックマターに蹂躙され、国家としての統制が失われた後、この荒野の大陸にいかなる悲劇が訪れるか。想像しただけで震えた。そんな恐ろしき行いを平然とやってのけるヒラサカは、まさに混沌をもたらす者。魔王と呼ばれるに相応しかった。
無駄とも知らない兵士たちは謎の化け物相手に勇者さながら奮戦し、虫けら同然に殉じていく。軽傷の者は市民の保護に回っていた。
避難を促していた兵士がブラックマターの伸ばす黒い腕につかまれ、引きずられていく。抵抗むなしく彼は底なし沼に嵌るがごとく、丸ごと黒い身体に吸収されてしまった。あちこち空いていた銃剣の銃創と切り傷が瞬時に塞がった。驚異的な修復に慄いて立ちすくんでいた兵士たちを熱光線が薙ぎ、立ち昇る業火で火達磨にした。
人間を見境なく喰らっていったのだろう。市街を徘徊する影人形の中でもこの個体はひときわ膨張、肥大化している。
分裂能力以前に、現代人の兵器ではブラックマターの破壊すら困難であった。
あと何度、死闘を繰り返せばこいつらを根絶できるんだ。
地下で五体のブラックマターを浄化し、要のミソギは戦える力を使いきった。弱点をつけるイクたちですら、この数が相手では打つ手がなかった。晴天の訪れを予感させていた雲間は無情にも閉じ、再び暗雲が彼らの心を覆いつくしてしまった。
希望を打ち砕かれた四人は、虚ろなまなざしで悪夢の光景を眺めるばかり。
長方形の集合住宅の隣を三体のブラックマターが歩いていく。火炎の中を黙々と。道端に打ち捨てられた死体を喰らっていく。ミソギが「ヒラサカ」と口ずさむ。空虚だった瞳が悔し涙で潤んだ。
兵士たちの会話が耳に届く。
南門へ避難させろ。中央区はもうダメだ。
東にも目視だけで五体いた。何者なのだ奴らは。クリーチャーなのか。
フェルナンデス軍の秘密兵器だと聞き及んでいるが、あの影人形ども、フェルナンデスの私兵やマフィアどもも見境なく襲っている。
隊長らは大学生を誘導している。手を貸してくれ。
退却するぞ。陛下の護衛を最優先せよとのご命令だ。
ふと空を見上げる。
遠い雲居を黒い物体が泳いでいる。
幾重もの羽根を回して飛翔する飛行船。
飛行船の主は眼下の惨劇を優雅に眺望し、さぞ満足していることだろう。
「離せ」
イクは両肩に力を入れるも、羽交い絞めにするイザベルの腕力には敵わない。
「離したとして、貴様はどうするつもりだ」
「ブラックマターを倒す。片端から、全部」
「貴様にやれるのか」
「やるしかないんだ」
火炎に呑まれつつある王都。
逃げ遅れて死した者の中には女子供も大勢見受けられる。果敢に立ち向かって勇気を振り絞った末に果てた兵士たちとは違い、彼女らは細い身体を絶望に震わせながら最期を遂げたのだろう。彼女らの心境と、あざ笑うヒラサカの映像が交差し、イクの激情を煮えたぎらせていた。
「俺が、俺が守らないと。俺のエーテルエッジなら……」
「ならば無意味に闘い、無意味に散るといい」
イザベルが拘束を解く。
支えを失ったイクは弱々しく跪いた。
残された力で拳を握り、石畳の地面を殴る。黒い拳に赤い血がにじむ。
幾度も幾度も殴り、募る悔しさを痛みで殺した。
自我を消されて造られた影人形ブラックマターは、指揮官の命令に従って動いているという。指揮官がヒラサカであるのは明白。窮地を打破するにはヒラサカを追うべきだとミソギは主張した。
「どうやって追いかけようか。空の彼方に飛んでっちゃった首領さんをさ」
エスパーダ邸。
四人は応接室のソファに腰かけ、熱い紅茶を味わっている。アップルティーの甘い香りが、絶望の淵から生還した彼らを癒すひとときの清涼となっていた。パイのハチミツも疲労を和らげてくれた。
この場所とて王都近郊。ブラックマターの勢力にいずれは呑まれる。茶を楽しむ時間は長く与えられていない。早々に行動を起こす必要に迫られている。
「ヒラサカは天空都市エセルへ赴く算段でしょう」
「空に用事があるっていったら、そこしかないよね」
「現存する最後の古代文明を己がものとしてしまえば、野望を止められる存在は皆無となりますから」
「『至宝』を奴も狙っているとしたら、もたついてはいられない」
あらゆる願いをかなえるという古代文明の至宝。
黄泉の魔王ヨモツヒラサカの手に『至宝』が落ちれば、奇跡の光は破滅の闇に汚染されて地上に降り注ぐ。
「大国グリアが国家のていをなしているかすら怪しい現状、僕ら独自で行動するしかないのかね。こりゃ骨が折れるよ」
近辺の町で情報収集したこれまでの数日間、風の噂は多数舞い込んできた。
東方都市に退避したグリア王は、宰相フェルナンデス失脚以降も外面を保つお飾り。力のある武官が実権を握り、議会は大陸全土へ拡散しつつあるブラックマターの対策で紛糾しているとのこと。
首領と幹部、精鋭らが忽然と消えうせた氷雷会は総崩れになっていた。捨て置かれた下っ端たちはならず者に逆戻りし、市民に血祭りに上げられていた。
北の空を飛ぶ船を目にした者は多数いた。
地を駆ける白い虎の目撃情報もちらほら。人を襲っている目撃がなかったのが、イクにとって数少ない救いであった。
災厄の時計は針を刻々と進め、グリア大陸混沌期への秒読みを開始している。
「わたくしたちも天空都市エセルへ参りましょう。タカマガの秘境の地下に眠る『天駆ける舟』を目覚めさせて。希望の灯火は潰えていません」
天空都市エセル、シロコ、ヒラサカ。
イクを取り巻く運命の断片は導きあい、再び同じ場所へと集まろうとしている。
「鉄道が生きているうちに動くぞ。ヒラサカに先んじて至宝を見つけられれば、血路を開く逆転の切り札となり得る」
よしんば追いつけたとして、無限の軍勢とそれを指揮する魔王と競り合えるのか。
根本的なその問いだけは誰も口にしなかった。
口にした途端、かろうじて残っている希望の灯火が潰えるのを予感していたから。
旅立ちの前夜、イクは旅の支度に根を詰めていた。
携行用の小さい砥石をテーブルに置き、刃こぼれした太刀を研ぐ。
思えばこの剣でたくさんの敵と戦った。人間、ミュータント、クリーチャー、それにブラックマター。いつかはこの剣でシロコを斬る瞬間が訪れるのだろうか。獣の側面に支配された彼女が人間を襲ってしまったら、彼女を守るための剣で、今度は彼女を……。
太刀の次は拳銃。
シリンダーを開けたまま銃口を上に向けて振ると、煤がこぼれ落ちてテーブルに敷いた布を汚した。これを丹念に掃除するのも久しかった。
調達した弾薬を背嚢に詰める。
追い求めるものが同じシロコの姉とも必ずどこかでまみえるだろう。その時期が来るまでに、彼女にかける言葉を見つけ出せるのか。イザベルの言うとおり、行動で示すしかないのか。
ランプの明かりを消してベッドにもぐりこんだイクは、睡眠という手段で迷いを力ずくで振り切った。
その夜、夢を見た。
両手を広げるトレンチコートの男。
指先から垂れる糸で黒き操り人形は踊る。
躍る人形に翻弄されるのは獣の耳を持つ瓜二つの姉妹。