第35話:翻弄するヒラサカ
大船舶の眠る地下空洞をヒラサカは闘技場と気取って呼んだ。
「人払いにしては少々大げさであったかな? まあ、ようやく我々一派も『船』たどり着けたのだ。よしとしよう」
ここが闘技場で、イク、ミド、イザベル、ミソギの四人が剣闘士だとすれば、立ちはだかる影人形ブラックマター二体は闘いの相手となる猛獣の役目であろう。剣闘に熱狂する観客は甲板から見下ろすヒラサカとベラドンナ、そして背後に控える氷雷会の幹部と精鋭たちであった。
「切り札はしかるべき舞台で披露するものだと思わんかね。フェルナンデスには興を愉しむ心意気がいささか欠けていた」
「ヒラサカ!」
「荒らげるな。聞こえるともイク君」
ヒラサカはむずかる幼子をあやす態度でコケにしてくる。
「お前は私利私欲で俺を騙し、白い虎の一族を殺め、住処を奪い取った。俺やシロコたちの運命を狂わせた。魔王だとか世界の支配だとかの企みを抜きにしても、俺はお前の所業を許せない」
「君に許しを乞うた覚えなどないよ」
憤りを鼻で笑われ、更に激昂するイク。拳銃の轟きは空洞に幾度も反響したが、肝心の銃弾はヒラサカとはまるで見当違いのところへ飛び、鉄の船体に弾かれた。
「彼らを滅ぼしたのはイク君自身だろう。そう告白したのを私は以前、耳にしたが?」
予測していた詭弁でありながらもイクは動揺し、口ごもってしまう。
「シロコなる少女を殺めたのも君だったはずだ」
「ふっ、ふざけるな! シロコは死んでなんかいない」
「白い虎の一族が暮らす集落を攻め落とした際、白い虎の少女がかろうじて生き延びていた。君は彼女に太刀を振りかざし、柔肌を削ぎ、細い首を嬉々として斬り落としたではないか」
イクの記憶と違う出来事を、ヒラサカはさも事実であるかような口振りで語りだす。
「俺はそんな……いや、していない!」
「さすがの私やベラドンナも君の残虐さには震え上がったよ」
「でたらめを言うな!」
「確か君は今、瑞獣ビャッコを狩らんと大陸を巡っているのだったかな? その執念深さ、我ら氷雷会に相応しい」
狼狽して立ちくらむイクの頭に、過去の記憶が五感を伴って鮮明によみがえる。
おびただしい数の屍が村のいたる場所に。
立ち込める毒の霧と煙。
鼻を刺激する毒素の臭いをかぎながらイクは太刀を高く掲げ、振り下ろす。鋼の質量と落下の加速で少女の首は――。
「正気を取り戻せ!」
イザベルの呼びかけが、まやかしの回想を打ち破った。
「貴様は右腕の呪いを解くために、白い娘の家族をさがすために旅をしていたのだ。あの娘とのふれあいを思い出せ。それとも貴様らの絆はヒラサカの偽りに負かされる程度の安っぽい代物だったのか」
肩を揺さぶられる。
紅い彼女の双眸が彼のかすんだ瞳の霧を晴らす。
薄れかけていた魂がもとの実体を得た。
白昼夢から醒めたイクの額を伝う汗。
汗ばむ肌とは正反対に喉は異様に渇き、息切れに苦しむ。
身体を震わせているのは、未だ消えぬ悪寒と恐怖のせい。寝覚めは最悪であった。
彼は初めてヒラサカに恐怖した。
嘘の芽を彼の心に寄生させ、水をやって発芽させたヒラサカは、シロコとの旅路を容易く否定させてしまった。ヨモツヒラサカの因子と彼自身の話術が合わさって悪夢をもたらしたのだ。
「立ち直ったか。それにしてもヒトの心とはかくも脆いものか」
「口達者は千年前から変わりませんね」
「稀代の詐欺師だよ。首領さん」
船内から出てきた黒服がベラドンナに耳打ちする。報告を耳にした彼女もかたわらのヒラサカに何かを伝える。彼は満足げに首肯した。
「黄泉に堕つ君たちへの手向けだ。とっておきをお披露目しよう」
地鳴り。
地震が起きたのかと慌てふためく四人。
異変が起きたのは足元ではなく頭上であった。
機械仕掛けの天井が重々しく左右に開きだす。長細い陽光が祝福のごとくヒラサカを照らした。天井が開放されるとグリア大陸の青空がすっかり見渡せ、陽光は大船舶全体を照らすまでに至った。
「君たちの死にゆくさまを見届けられないのは至極心残りだよ。せいぜいブラックマターの餌食になってくれたまえ」
「海もないのに船旅にでも出るつもりか」
「海? ああ、なるほど。君たちの認識ならば、船といえば海原だな」
ヒラサカがわざとらしく合点するせいで、皮肉ったイザベルが逆に不愉快がった。
「私が至るのは海の上。天空だ」
ヒラサカは青空の開けた頭上を指差した。
「首領。ブラックマターの起動命令を」
「余興もここまでだな。ブラックマター起動せよ。起動より300秒後、戦闘行為の開始。標的は識別信号を発信しない生体すべてとする」
朗々と命じられ、ブラックマター二体の複眼に光が宿った。猫背になっていた身体が持ち上がって直立した。
「お前はどうして人の支配を!」
「愚問だな」
イクの問いかけをヒラサカが鼻で笑う。
「強き者が頂点に君臨する――原初から続くその掟に私は従っているまで。我が行為は本来、生きとし生けるものに許されているのだよ。愚かにもヒトが築いた文明は、その摂理を覆い隠す偽りの帳となってしまった」
ヒラサカは最後に告げる。挑戦的に、挑発的に。
「手始めに大国グリアを掌握。やがては世界そのものを我が掌中に収める。氷雷会の組織力と影人形ブラックマターがそれを可能とする」
トレンチコートを翻す。
「止められるものなら止めてみたまえ」
そして不敵にほくそ笑む。
「君の白きエーテルエッジがヨモツヒラサカの心臓に及ぶのであればな」
せり上がる船舶のマスト。大小無数に伸びたそれらには帆が無い代わり、平たい鉄の羽が風車のように四枚一組みで水平に備わっている。
奇妙なマストにイクたちが怪訝がっていると、風車が高速で回転を始めた。金属のやかましい回転音が耳を襲い、強風が空洞内で吹き荒れた。
船底が床から離れ、垂直に上昇していく。
海を泳ぐはずの船が今、空を浮遊している。
目を細めて風に抗いながら天井を仰ぐ。
滞空している船の甲板からヒラサカが身を乗り出し、愉快そうに四人と二体を見下ろしていた。
風車の回転力で大船舶は際限なく上昇していき、開放された天井を抜け、大空に飛び立ってしまった。鋼鉄の塊は雲をかき分けて北の空を目指していった。
もぬけの殻となった空間に静寂が訪れる。
「船が空を飛んじゃった。んなバカな」
「船は海を泳ぐものだろう。つくづく奇怪な」
「失われた古代文明の航空技術。まさかヒラサカはこれを手に入れるためだけに、フェルナンデスをそそのかして謀反を。なんて奴だ!」
「この地に古代文明の飛行船基地があるならばはやはり、ヒラサカの行方は……」
仰天している暇はそう長く与えられていなかった。
ブラックマターがついに稼動を始めたのだ。
ゆらりと動きだした二つの影人形。丸い複眼に熱の光が宿る。
四人はとっさに散開する。
複眼から照射された光線が二筋、彼らの居た場所を通過して奥の壁を溶かした。
「あのブラックマターとかいう影人形、二体に増えてるね。タカマガの秘境で戦ったときはビャッ……シロコちゃんが助けてくれたけど、今度はそうもいかないよ」
「イク、メガネくん、私に武器を貸せ。剣だ」
ミソギが天井に放った光球から光の雨が敵に降り注ぐ。攻撃の予備動作中であったブラックマター二体は魔法の広範囲攻撃を浴びて多大な隙を晒した。投てきされた短刀がそれぞれの複眼に命中し、続いてイクの太刀が一体の首をはね、イザベルの短刀がもう一体の左胸を突いた。
首なしになったほうのブラックマターは仰向けに倒れて機能停止する。
残りの一体が腕を伸長させて捕縛攻撃を試みてくる。手負いの単調な攻撃などイクたちにあたるわけもなく、伸ばした腕を縮ませて引き戻すのろまな動作をしている間に懐にもぐられ、上下まっぷたつにされた。
先制攻撃が功を奏してヒラサカの置き土産を片付けた。
イクの胸に残る違和感は今もなお不安を煽っている。
「みなさん、油断なさらないで!」
床に転がっていたブラックマターの上半身と下半身がにわかにうごめきだす。
そして、驚異的な速度で自己修復を始めた。
地に眠っていた種子が萌芽するかのごとく、切断面から急速に胴体が生えてきて、欠損した箇所を補完してしまった。
上半身からは下半身が生える。
下半身からは上半身が生える。
本来一つであった二つは、それぞれ完全な別固体となってしまった。
首をなくしたほうのブラックマターも同様に頭部を生やして復活した。頭部だけになったほうも首から下を生やして再生している真っ最中である。
もはやそれは再生を超えていた。
ブラックマターは二体から四体に『分裂』したのだ。