第34話:ベラドンナの刃
秘書ベラドンナが銃を抜いた。
「醜き汚泥の魔物よ。首領へのご恩、その身をもって返しなさい」
泥をこねて山にし、人面を据えたかのような不定形の魔物――汚泥フェルナンデスが腐肉混じりの泥を吐く。吐しゃされた腐肉の一片がイクの防塵マントに降りかかり、溶かして穴を空けた。
イザベルが細剣で汚泥フェルナンデスを突く。剣はずぶりと汚泥にめり込んでまったく通用しない。挙句、刃がみるみる腐食してがらくたとなってしまった。
汚泥フェルナンデスは苦悶の叫びを上げながら腐肉をむやみやたら撒き散らしている。敵も味方ももはや判別できないそれは、生と死の境目の苦痛にもだえるばかり。ヨモツヒラサカの呪縛を受けた彼は自我と人間のかたち、両方を喪失していた。
迂闊に近寄ったら腐肉に溶かされる。
動き自体は単調かつ鈍重なため、飛散する腐肉の回避は容易い。もちろん、ベラドンナの射撃さえなければの話である。
吐き散らされる腐肉に気をとられる隙をつき、ベラドンナは中距離から拳銃を撃ってくる。浄化の魔法を扱えるミソギを集中して狙い、動きを封じてくる。
汚泥フェルナンデスの図体や柱を盾にしつつ、イクとミドは銃で応戦する。
玉座の間を銃弾が飛び交う。流れ弾を喰らった彫像の耳がもげ、シャンデリアが危うげに揺れてガラス片が降り注ぐ。主のいない玉座の背にも弾丸がめり込んでいた。
窓から見下ろせる中庭ではグリア軍とフェルナンデス軍が白兵戦を繰り広げていた。銃剣を構えて突撃するグリア軍の歩兵が、フェルナンデスの私兵と黒服の男たちを数で圧倒している。
「メガネくんはあの片目女の知人なのだろう。説得してみせろ」
「そうしたいのは山々なんだよね。ちょっと難しい注文だよ」
ミドの銃弾がベラドンナの頬をかすめる。
赤い一本線が引かれ、鮮血が薄く垂れて肌を汚す。
ベラドンナは血を拭った右腕の手袋を脱ぎ捨て、黒い茨のあざが浮かぶ手の甲を晒す。魔力を蓄積させた拳を振り下ろし、エーテルエッジを周囲に放った。柱や彫像など障害物を蹴散らしながら拡散する魔力の波紋は、ミソギが張った魔法の障壁までも一撃で砕いた。
亀裂が走って沈む大理石の床。
落下して盛大な音を立てて破片を飛び散らすシャンデリア。
巻き込まれてはじけ飛ぶ汚泥フェルナンデス。
エーテルエッジの衝撃波は肉を伝わり骨をも軋ませる。脳が激しく揺さぶられ、鼓膜が異様に震えて今にも破れかねない。溶鉄を流し込まれたかのような喉の高熱、激痛。イクたちは歯を食いしばり、足を踏ん張って耐えた。
「わたくしの全魔力を用いた障壁でも……くっ!」
「目が霞む……はっ、ハンパじゃないよ、この威力」
四人とも直立するのもおぼつかなく、支柱に体重を預けて息を切らしていた。
床や壁に散らかった汚泥が一箇所に寄り集まり、一固体に戻る。
ベラドンナは間髪いれず再び拳を掲げる。
魔力が拳に宿る。自らの魔法で負った火傷が瞬間的に治っていく。
「ベラ! キミもフェルナンデスみたいに呪いに喰われてクリーチャーになるぞ。ヒラサカにいいように使われているんだよ」
「竜の紋章を授かった時点より、私たちは幸福になるのを禁じられたのです。数多の返り血を浴び、穢れた身なのです。首領が目指す理想の礎として殉じられるのなら本望」
淡々と述べるベラドンナに呆れたミドはかぶりを振った。
「変なところで生真面目なんだから。昔っから変わらない」
「あなたは許容される範疇を逸した卑怯者でした。道化役を演じるその実、利己的で逃避的で刹那主義で、居心地の良さばかり求めて他者を省みず」
「的外れな評価だね。僕はありのままの自分と折り合いをつけてるだけだよ。僕は生きるために生きていて、キミは死ぬために生きている。そりゃあウマも合わないさ」
「死を司るヒラサカ首領こそ私の安息」
「なるほどね。納得だ」
汚泥フェルナンデスが撒き散らす腐肉をかいくぐり、ミドはベラドンナに接近する。拳銃、ナイフ、火薬針。ありったけの飛び道具を使いこなしてエーテルエッジ解放の時間を奪う。ベラドンナも俊敏に距離を取りながら銃撃で対抗する。ミドの耳元で風切る音が幾度も鳴った。
「ラベンダー畑」
その合言葉で彼女は怯む。
身体をこわばらせた、まばたき一拍。暗殺者が標的の肌に刃を当てるのに充分な一瞬。ミドはついに彼女へと至り、右手首を固く握って密着するまで引き寄せた。
「ベラは昔、ラベンダーの花畑に囲まれた家に住みたいって言ってたよね。あったかいお日様の下でさ。ミツバチが飛んでるむらさきいろのきれいな花畑、憧れてたんでしょ」
「無知な子供の時分に描いた夢です。血塗られた手で描いてはならぬ夢だったのです」
「キミの言い草で今気づいたよ。僕がイクと旅するのを決意した本当の理由。キミたちってばびっくりするほどそっくりだったんだ」
捕まえられた右腕を暴れさせるベラドンナ。ミドは決して掴んだ腕を離さない。
「いいんだよ。僕らは花畑の家を願ってもいいんだよ」
「私たちの堕ちる果ては黄泉。死してヨモツヒラサカの腕に抱かれる宿命」
感情のわずかな発露に呼応し、呪いのあざが発光する。
魔力の衝撃で弾き飛ばされるミド。
ベラドンナを中心に白い魔力の暴風が立ち昇り、玉座の間をかき混ぜた。
立ち昇る暴風は天井を穿ち、足場を木っ端微塵に砕いた。
崩落する床に巻き込まれ、一同は階下へと転落していく……。
粉塵が晴れてしばらくし、イクたちは身体を起こした。
身体の節々が軋むように痛み、四人ともよろめきながら起き上がる。
「使われたのですね。貴方も。白い魔法を」
「あいつがエーエテルエッジ同士をぶつけて相殺させていたのを思い出したんだ。すまない。せっかく魔力を分けてくれたのに」
「暴走したアレを直でくらったら、ひとたまりもなかったろうさ。あーあ、メガネのつるが歪んじゃったよ」
「イクさん。次はありませんよ。どうかご自分の命も大事になさって……」
彼を気遣うゆえ、ミソギは厳しく言い咎める。
黒いあざに冒された右腕にイクは布を巻きつけた。
仰げば青空。
周囲は廃墟の様相。
ベラドンナのエーテルエッジは天井と二階の床を垂直にぶち抜いてしまったらしい。イクたちが転落した二階の直下は埃っぽい空気に満たされ、崩れ落ちた瓦礫まみれであった。装飾の剥げた玉座が瓦礫に紛れて付近に埋もれていた。
これだけ破壊しつくされたにもかかわらず全員軽傷であった。魔力の嵐が周囲を吹き飛ばしたのが幸いし、崩落に巻き込まれるのを逃れられたのだ。
部屋の片隅で汚泥の物体が這いずっている。
理性と知性の両方を喪失している汚泥フェルナンデスは、周辺を延々と徘徊している。何を求めているわけでもなく彷徨しており、壁にぶつかっては方向転換している。
生ける屍。
腐敗した肉体にこびりつくわずかな本能で汚泥は蠢いている。
「妄念に憑かれ、黄泉の主にまやかされ、生にも死にも至れぬ魂に安らぎを」
ミソギの手のひらから浮遊した光球が汚泥フェルナンデスの上空で制止し、聖なる光で浄化する。汚泥の身体は次第にしぼんでいき、最終的に消滅した。
「俺の呪いもいつかは……いや、こんな結末だけはゴメンだ」
床に点々と血が垂れている。
血の跡は地下の階段へと彼らを導いていた。
「血痕が続いている。あの片目女も生きているみたいだな」
「ベラドンナって言ったか、片目を髪で隠した女。俺がシロコの村を滅ぼしたとき、確かあいつが居合わせていた」
「奇妙な縁もあるもんだ」
やれやれ、と帽子越しに頭を掻くミド。
「あいつはミドの――」
「心配ご無用」
イクの言葉をミドは遮る。空元気としか取れない陽気な声色で。
「ベラは手練れの暗殺者だ。手加減して勝てる手合いじゃないよ。なりふり構わず白い魔法を使ってくるんだからなおさらね」
「ミド!」
「ベラが選んだのとは違う道を見つけてもらいたいな。イクには」
疲れきっていたミドへの追及をイクは止めてしまった。
使命だとか宿命だとか、みんな勝手な思い込みなんだよ。
吐息に混じったかすかなつぶやきが、イクの耳に長く残っていた。
血痕の続く階段を下り、長い地下通路を進むと扉があった。
青白い光を放つ紋章が描かれている。
たじろぐイクとミドを尻目に、ミソギが扉に手をかざす。甲高い機械音声が「認証に成功」と告げ、扉はせり上がった。二人は安堵した。
王家は『基地』の存在を認識していたのですね。
先頭に立つミソギのひそやかな独り言を、真後ろにいたイクは偶然聞いてしまった。
そこから向こう、趣が一変する。
カビ臭く湿気のひどかった石造りの壁はコンクリートに。火の消えたたいまつは電気照明に様変わりしていた。王城の地下通路から古代遺跡に足を踏み入れていたのだ。
通路の終点は広く、天井の高い、夜の屋外と見紛うばかりの大空洞。
大空洞には船が停泊していた。グリア軍が所有する最大規模の軍用船と同等の超大型船が地下空洞で眠っていた。黒々とした鋼鉄の大船舶は、外見からして現代文明では到底及ばない技術で建造されているのがわかる。これと比べればイクたち人間などどれほどちっぽけな存在か。
ここは古代文明の船渠であったのか。
「ようこそ、闘技場へ」
ヒラサカとベラドンナが船の甲板上からイクたちを出迎えた。見上げるほど高く遠い位置に立っているはずなのに、ヒラサカの気取った声は大空洞にくまなく反響した。
「ふむ、マイクの調子はいいようだな」
「首領。出立……ク……ター……天……セル……きました」
「わかった。準備を続けさせたまえ」
ヒラサカの声に混じるベラドンナの声はだいぶ遠い。
「さあ、剣闘士たちよ。闘いの時間だ」
鋼鉄の船が鎮座する『闘技場』の付近に不気味な番いの人影。
目を凝らす。
それらは人の輪郭に似て人ならざる、かの黒い化け物であるのが判明した。
影人形ブラックマターが二体、沈黙して控えていた。