第33話:黄泉の呪縛
イクの視界に映る景色は、コンクリートの灰色から空の青と草原の緑に様変わりしていた。まばたきのうちに起きた様変わりであった。
唐突な下方向への重力と慣性。
中空に浮いていた身体が落下する。
幸いにも転移した先は人間の跳躍分程度の高さで、尻をしたたかに打っただけで済んだ。
仲間たちも一拍置いて中空に出現した。ミドとイザベルは上手い具合に受身を取って着地した。イクの真上に転移されたミソギは彼に抱きとめられた。
軽やかで柔らかい肉感。
清潔感のする黒髪の匂い。
大翼の羽が肌をくすぐる。
「うふふ。お姫さま抱っこです」
「……なあ、降ろしていいか?」
「あっ、どうぞお気遣いなく」
緑の大地に立ったミソギはうんと背伸びする。
「無事転移に成功しましたね。以前は首から下しか転移されなかったり、魂が転移経路の超高次元領域に抜け落ちたりした事故があったので少々心配だったのです」
もしもあのときミソギの説明を最後まで聞いていたら、馬と列車で帰る道を選んでいただろう。タカマガの秘境という狭い世界で生きてきたせいで培われてしまった彼女の風変わりな部分が、今更にして彼らを震え上がらせた。
天然娘だね。彼女。確信したよ。
この珍妙な術。もはや二度と頼るまい。
帰りは列車だな……。
ひらけた世界の風景にミソギが魅了されているかたわら、三人はこそこそ耳打ちしあっていた。
聖女の黒髪が微風にさらさら流される。
「風が心地よいです。のどかな風景ですね」
直線の街道の脇、四角に区切られた穀倉地帯。
若い麦が風に揺れて緑がまぶしい。
遠くに立つ古めかしい館はエスパーダ家の邸宅だ。
王都近郊だけあって、没落貴族のささやかな領地でありながら大地が肥えている。
「久方ぶりの我が家だが、さっそく馬を走らせる羽目になりそうだ」
視界の遠くで地平線を隠して居座るのは堂々たる王都グリア。
城壁の内側から煙が上がっている。凶兆を暗示する濃い黒煙だ。
麦畑に一陣の強風をもたらされる。
装甲で強化された軍用列車が大地を力強く駆け抜けていった。
隊列が大通りを歩く、規律正しい靴音。
銃声。そして火砲の爆音が断続的に空に響き渡る。
戦闘が盛んなのはもっぱら王都中心部の王城周辺。外周の住宅区は戦闘の残骸がむなしく転がっているのみ。市民は皆、家の扉と窓を硬く閉ざして息を潜めている。
「宰相フェルナンデスが王城を乗っ取って謀反を起こしたなんて。しかも氷雷会と結託して。ヒラサカの仕業か」
「でもなんかもう大詰めって感じじゃない?」
エスパーダ家の馬車で駆けつけてきたばかりの彼らでも、戦いの行方は雰囲気で察しがついてしまった。
ひとけの失せた繁華街を占拠しているのはグリア正規軍と、召集された諸侯の兵士たちであった。鎧で身を固めた古式ゆかしき重装兵や銃剣装備の近代化された歩兵が整列し、隊長の指揮を待っている。猟銃を担いだ私服姿の民兵もまばらにいる。騎兵に付き添われて野戦砲も次々南門から運ばれてきていた。
住宅区で散見された死体の多くは黒服。王家と異なる紋章を縫った軍服の死体はフェルナンデスの私兵だと推察できる。同様の格好をした捕虜も多数いた。
奪取された王城はグリア軍に包囲されている。
謀反は鎮圧の間際であるのが傍目にも明白であった。
「首領さん、勇み足で墓穴掘っちゃったのかね?」
「ヒラサカはそんな愚かな男ではありません。謀反の失敗も思惑の内なのでしょう」
「この局面も奴にとっては『興』とやらか。癪に障る」
「王城へ急ぎましょう。胸騒ぎがします」
うって変わって、城門前では激しい銃撃の応酬が続いていた。
グリア軍の構える銃剣が火を噴くたび、フェルナンデス・氷雷会の徒党は一人、また一人と倒れていく。最終的にグリア軍がフェルナンデス軍を圧倒した。
敵からの銃撃が止み、射程圏内まで運ばれてきた野戦砲がここぞとばかりに吠える。撃ち込まれた砲弾はフェルナンデス軍の兵士を多数巻き込んで炸裂し、城壁を破壊した。
巻き添えで鎖を破壊された跳ね橋が倒れる。
好機に乗じたグリア軍が銃剣の切っ先を前に構え、倒れた跳ね橋を渡り、怒涛の勢いで城内になだれ込んだ。
果敢に突撃するグリア軍。
瓦解、潰走するフェルナンデス軍。
銃剣の餌食になる者、跳ね橋から堀に落ちる者、やぶれかぶれの射撃にやられる者……阿鼻叫喚の死屍累々。双方の雄叫びが入り混じって城門前は大混乱に陥っていた。
民兵のフリをしたイクたちもどさくさに紛れて跳ね橋を渡った。
中庭での混戦を潜り抜け、城内部へ。
城内での戦闘を想定された造りのグリア城は複雑に入り組んでおり迷路の様相。しかも玉座への直通路はそこかしこ強固な門扉で封鎖されている。ディオン教授と共に招かれたときの道筋は使えない。ヒラサカとフェルナンデスがいるとおぼしき玉座の間へはひどい回り道を強いられた。当然、フェルナンデスの私兵や氷雷会構成員との戦闘も。
通路の角に隠れながら銃の撃ち合い。敵がシリンダー内の弾薬を使い果たしたところ狙ってイザベルが疾風のごとく詰めて細剣で蹴散らす。
戦闘を重ねていくにつれ、イクとミドの銃撃戦が終わるのを我慢できなくなっていったようである。四戦目ともなると、とうとう双方の弾が飛び交う廊下を低姿勢で突っ走って敵陣に切り込む無茶をやらかした。
肝を冷やす三人を尻目に、彼女は背筋を大いに反らして勝ち誇る。
「お前たちがそんな玩具でもたもた遊んでいるのが悪いんだ」
「弾の節約にはなったよ」
「それはいくらなんでも好意的過ぎるだろ」
無茶な、と言いかけてイクは口をつぐんだ。その言葉は彼女からすれば賛辞なのだ。
「かすり傷程度ならわたくしが治しますので。さっ、さすがに死んでしまわれたら手の施しようがないです」
「……不満なのか、お前たち」
拍手喝采を期待していたらしいイザベルは憮然としていた。
迷路状の通路をくねり、くねり、上り、下り、迷い、迷い、戦い、戦いの果て、ついにきらびやかな扉の前に到着した。
宝石で装飾された豪奢な扉は半開きになっている。
隙間から二人の男のやりとりが聞こえてくる。
「ヒラサカ。はっ、話が違うではないか」
顔面蒼白で泡を吹くのは中年の大臣。
「違う、とは?」
涼しげにうそぶくのはトレンチコートを羽織る三十代半ばの青年。
「もったいぶっていないで我々の切り札を、ブラックマターを起動させろ! こっ、このままではワシは……ああ、もう終わりだ……」
「ブラックマター? はて、聞き慣れぬ言葉ですな」
フェルナンデスとヒラサカ。やはりいたか。
息を潜めたまま、指先は拳銃に弾薬を込める作業を、両目は二人の成り行きを凝視する。
「暗愚な王をこのまま裏で操っていれば、早まらずも実権はワシら一族が握れたものを……どうして謀反など……ワシはこんな詐欺師の口車に」
宰相フェルナンデスはもはや卒倒寸前であった。
「詐欺師とはフェルナンデス殿もお人が悪い」
「謀りおったな!」
宰相フェルナンデスが懐に忍ばせていた拳銃をヒラサカに向けて撃つ。火薬を爆発させ、殺傷の威力を持った速度で銃口から射出されたそれは、ヒラサカの前に出現した空間の歪みに絡め取られた。絶望の淵に落ちた宰相はついにへたり込んだ。
「富を貪るだけでは飽き足らず、卑しくも後世の列伝に名を残さんと我を出したのはフェルナンデス殿、あなたでしょうに。もっとも、私が背を押した事実は否定しませんがね」
ヒラサカは玉座裏の隠し扉を開く。
フェルナンデスが這いつくばって彼の足にしがみつく。
「ワシを見捨てないでくれ。ワシが貴様にどれほど財と兵をくれてやったと」
「ですから、見返りとして回春の秘法を授けたではありませんか。随分と若々しくなられまして」
「いくら若返ろうと、ここで終わっては無意味なのだ」
「マフィアと手を組み、私服を肥やし、主君を操り人形として国家を腐敗させた挙句、謀反を企てて処刑された愚かな大臣――そんな一文を添えられてあなたはグリア国史に未来永劫、記録されつづけるでしょう。おめでとうございます。絞首、ギロチン、火刑。宰相はいずれがお好みで?」
己の悲惨な末期がよぎったのだろう。フェルナンデスの眼球が病的に回る。顔面はもはや断頭台に登らされる前から死人めいており、精神状態は発狂の瀬戸際まで追い詰められていた。
「死にたくない。死にたくないのだ。金も名声ももはやいらぬから……死にたくないのだ」
命乞いを連呼するフェルナンデスを蹴飛ばし、ヒラサカはトレンチコートを翻す。
「所用があるためお先に失礼します。後処理は秘書のベラドンナに任せますので」
片目を髪で隠した妙齢の女性ベラドンナが無愛想に頭を下げる。
耳をそばだてていたイク、ミド、イザベル、ミソギは扉の陰から躍り出た。
隠し通路から脱出しようとしていたヒラサカが四人のほうを振り返る。
「ヒラサカ。逃がしはしません」
「よもやしぶとく現世にしがみついているとはなミソギ。『逃げた』とは心外だ。命拾いした者ならば、もっと謙虚な台詞を言うべきだ」
「陛下に対する狼藉の報い、受けてもらう」
「この期に及んであの愚物を気にかけているのか。見上げた騎士道だ。没落貴族の鑑だぞ、エスパーダ家の跡取り娘よ」
崩れ伏した宰相フェルナンデスの頭上にヒラサカは手をかざす。
途端、フェルナンデスの皮膚全体に黒い茨のあざが浮かび上がった。
邪悪なる祝福を垂らされてもがき苦しみだすフェルナンデス。苦悶の唸りを上げながらのた打ち回るうちに精力的な四十歳代の外見が枯れていき、八十、九十の皺まみれな老人へと変貌してしまった。
苦しみにあえぐおぞましき声で恨みつらみを並べ立てる。
恨み言を吐かれたヒラサカ本人はといえば、無様な姿と成り果てた老人を「滑稽だな」と嘲っていた。
枯れた皮膚はしまいに腐敗し、骨から削げ落ちる。四足で這うのもままならなくなったフェルナンデスはついに人の形すら保てなくなった末、溶けきって黒い液体となった。悪臭を伴う汚泥が床に溜まった。
どす黒い汚泥がひとりでに動き出して山の形に盛り上がる。盛り上がった山に奇怪な顔が浮かび上がった。苦痛に叫ぶ醜悪な顔面であった。ヒラサカは再びあざ笑った。
「俗世に溺れ、生に執着した欲深き老人の末路。哀れみを禁じえん」
「これがヨモツヒラサカの呪縛……」
「ほう、我が真なる名を知るとは。ミソギに認められたかイク君」
ヒラサカの興味がミソギからイクへと移る。
「君とは奇妙な縁を感じる。二度訊こう。共に世の暁をもたらさないかね?」
「断る!」
イクは怒りに任せて抜刀した。
「粗末な熱情は己が身を焼くばかり。君も所詮、有象無象に埋もれる小石の一つだというのか。嘆かわしい」
ヒサラカは困ったふうに肩をすくめた。
「貴方は人の世に混乱を招き、何を望むのですか」
「摂理」
ミソギに目もくれぬまま一言、ヒラサカは返す。
「原初の理だ」
「言葉遊びも大概になさい」
「我が行為は世界の始まりより許されし権利。連綿と続く約定なのだよ」
さらばだ。
ヒラサカが隠し通路を通過した後、玉座裏の扉は重々しく落ちた。
残されたのは汚泥の魔物と化したフェルナンデス。
かたわらにたたずむのは秘書ベラドンナ。
「首領のご命令により、あなたがたの力を試させてもらいます」
彼女の呪われし右腕は魔力の光を帯びている。
「命を賭して」