第32話:拒絶の盾
「どうしてだ」
黒装束の傭兵は自問した。
「故郷を滅ぼした人間をさがし、殺すためにアタシは生き延びてきた」
怒りに任せた歯軋り。
「殺すべき仇が目の前にいる」
目じりには悔し涙。
「だのに、どうして!」
感情を爆発させて声を荒らげる。
「どうして……アタシの爪はお前に届かない」
彼女の鉤爪はイクの喉に触れる寸前で小刻みに震えていた。
「よすがを失い、ヒトの世界で生きていかざるを得なかったアタシは、復讐相手であるはずの氷雷会で傭兵をするしかなかった。耐え難い矛盾と屈辱だった」
だから彼女は隠したのだろう。白い虎の特徴が際立つ肌を。黒の装束で。
「あそこは行き場を失った者どもの終点だ。ならず者だろうがいわくつきだろうがミュータントだろうが受け入れていた。カネをくれた。ヒラサカの手駒になるのを条件として」
列車強盗のトカゲ男。差別的な罵倒を浴びせるクルーガー。片足をなくしたシロコから距離を置いてひそめく列車の乗客たち――過去の苦い記憶が次々よぎっていく。
「悪事に加担して血塗れ、良心は石臼にかけられるように粉微塵になっていった。そんなアタシにやさしさを思い出させてくれたお前が、故郷を滅ぼした張本人だった」
震える瞳からこぼれた涙のしずくが唇を滑り、潤す。
「お前はいい奴なのか、悪い奴なのか。アタシはお前を殺すべきなのか、そうじゃないのか。わからない。わからないんだ。アタシにとってのお前が」
悔しげに歯を食いしばる。
「お前が傷の手当てをしてくれた記憶がよみがえって、喉を貫く最後の一押しを邪魔するんだ。少しの、たった少しの、あんな些細な出会いだったのに」
イクの記憶もよみがえっていた。
崩落した暗がりの坑道。手当てをしようと右腕の布をほどいて近寄ったら、彼女は敵意と鉤爪を向けてきた。膝の怪我を指摘して辛抱強く話しかけて、やっと彼女は警戒を解いてくれたのだ。そこから先はしおらしかったのも印象に残っている。
「アタシが唯一わかっているのは……」
ためらいは長く、雲居に月が入る。
「妹がお前に懐いていたことだけ」
寄る辺を奪った者の打倒すら躊躇させる力を、その事実は宿していた。
「アタシはシロコを追う。獣の姿になろうが大事な家族だ」
だからお前も追え。
背中で言い残した彼女はイクから離れ、闇夜に姿を溶かした。
イクは孤独にたたずんでいた。
葉擦れの音が遠退く。
草陰で奏でられる昆虫たちの演奏がいやに耳につきだす。フクロウも陰気な歌も不快。聴力が過敏になるのは目が利かない闇夜のせいであり、負へと向かう思考を妨げる防衛本能でもあった。
イクの心は空洞。大樹のうろ穴。自然の音だけを無条件に受け入れる。
物陰から出てきたイザベルが呆れと安堵の息をついた。
「一触即発とやらだったな」
「言い訳すら言えなかった。俺は」
「ならば行動で意思を示してやれ。黒装束の傭兵もそれを望んでいた語り口だったぞ。物騒な得物をぶら下げているわりに可愛げがあるじゃないか」
抜き身の細剣を鞘に納める。
「白い娘が成長したら、ああいう面立ちになるのだろうな」
「……かもな」
「白い娘も苦難に直面したとき同じ顔をしていた。姉妹だからか」
「ああ。悔しさを隠そうともせず、あけすけに感情を顔に表して」
「嬉しかったり楽しかったりするときもか?」
「俺の名前を幾度も呼んで、手をしきりに引っ張ってさ。連れていこうとするんだよ。自分の行きたい場所に。そんな自由奔放で天真爛漫なところが魅力だったんだ」
「戦いぶりはなかなかに豪胆だった。小柄な娘にしては」
「親心ってやつかもしれん。俺は毎回肝を冷やしてる。慣れないな」
「フッ、やはり貴様は白い娘を語らせると元気になる」
イザベルの策に見事はまってしまったイクは「参ったな」とはにかんでごまかした。
「絶望と死を直結するには早すぎる。よしんばあいつの鉤爪が貴様に届く一撃だったとしても、その前に私の剣があいつの心臓を穿っていたさ」
「ありがとうイザベル。俺にはやらなくちゃならないことがあったんだよな」
「そのとおりだ。あんな猫っかわいがりしていた娘を迎えにいかなくてどうする」
彼女が冗談めかしてくれたおかげで心なし気持ちが楽になった。
「恋敵に塩を送るハメになってしまったな。まあ構わんか。恋愛だろうと決闘だろうと相手が猛者であれば私の闘争心は烈火のごとく燃えさかる。婿候補の貴様も強くあれよ。情けないツラは貴様に似合わん」
イザベルは勝気な笑みを見せ、白い歯を晒した。
「ときにイク。今の『参った』なる発言は撤回しろ。私が貴様を決闘で打ち負かしたときのためにとっておけ」
「わかったよ。お前ってばどこまで決闘好きなんだ」
赤きカポーテをまとう彼女は凛々しい。そして頼もしい。
彼女を伴侶に迎える未来があったとしたら、それはそれで別の幸福が待っているに違いない。
気がつけば、心の空洞に感情を取り戻していた。
村の復旧がひと段落したあくる日、イク、ミド、イザベルの三人はミソギに塔の地下へと連れていかれた。無事であった昇降機で今度は地中へと降りていったのだ。
壁も床もむき出しのコンクリートの殺風景な空間。寒く、広々としており、声がさびしげに反響する。天井には配管が張り巡らされており、電灯の頼りない光がおぼろに空間内を照らしていた。
部屋の中心でミソギが杖を突く。
地面を叩く硬い音が響き、魔法円が足元に広がった。
「転移の魔法を起動します。古代文明では禁呪指定されていた危険な代物ですが、致し方ありません。座標は王都近郊エスパーダ家の領地でよろしいですね」
「ああ。一旦我が家で氷雷会の動向を詳しくさぐり、態勢を整えるぞ。陛下にヒラサカの正体を奏したいところだが、ヒラサカは宰相フェルナンデスと懇意でもあるからな。迂闊に城に近づくのは危険だ」
「あいつの向かう先にシロコちゃんもいるだろうね」
灰色の塔は地下の魔力を吸い出す役目を担っている。魔法に疎い人間三人にも、ここが魔力の濃い場所であるのが肌でわかった。
「先の襲撃から二週間が経ちました。ヒラサカが行動を起こしてもおかしくない時期です。万全の準備で臨みましょう」
「村を放っておいていいのかい? 子供を亡くした親とかその反対もたくさんいたよ。正直、居たたまれなかったね」
「身内の情に流されていたら、ヒラサカは更に多くの悲劇をもたらすでしょう。それに、秘境の人々とて獣の因子を移植された者たちの末裔。苦境でたくましく生きる力を備えています」
話し合う三人から外れてイクは独り、悩みに暮れていた。
自分は何のためにシロコをさがしにいくのか。
仲直りのためか。
許しを請うためか。
もしくは断罪の雷を己が身に受けるためか。
あるいは……理性を失くした瑞獣ビャッコを討つためか。
破滅の時から十四の日を跨いでも、未だイクは迷いを晴らしていなかった。
壊滅した家屋の修復に奔走し、惨殺されたミュータントたちを荼毘に伏し、生き延びた者たちの手当てに明け暮れていたときも、心の中心にはいつもあの白い少女がいた。
けれどどうしてか、彼女の笑顔はいくら空想にふけっても思い描けなかった。
瑞獣ビャッコの巨躯は拒絶の盾。
小さな少女の体では到底受けきれない過酷な真実。それを退ける手段を求めた結果が聖獣の姿なのだろう。
「イクさん」
ミソギに呼びかけられ、意識が現実に引き戻される。
「天空都市エセルへ赴くのを後回しにして、本当によろしかったのですか」
「今日明日で俺の命はどうこうなるわけじゃないんだろ? だとしたら当面の問題を最初に片付けるべきだ」
「貴方はあくまで他者を優先されるお人なのですね」
禁忌である白の魔法、使ってしまったのをお忘れになったのですか。
小声で言ったミソギは心配そうに頬に手を添えた。
彼女は唐突に何か思い出したらしく「そういえばっ」とポンっと手を合わせる。
「転移の魔法を起動するにあたって注意事項がございました」
「へっ?」
「転移先座標の指定に誤りがあった場合、わたくしたちは意図しない場所に出現します」
失敗する可能性があるのか……。
雲行きが怪しくなって三人はにわかに動揺する。
「仮にz軸が高すぎたら、わたくしたちははるか空の彼方に転移され、そのまま地上に自由落下いたします」
いたします、と空恐ろしいことをあっさり言われて固唾を飲む。
「xy軸が著しくずれた場合も市井の無関係な建築物内に現れる恐れがあります」
「公衆浴場とか?」
「真っ先に風呂場が思い浮かぶのかメガネくんは」
「お風呂といえば、王城のお堀に転移するかもしれません。溺死にはくれぐれもご注意ください」
どう注意しろと……。
三人はいよいよ戦慄した。
「えっと、もう一つ」
「まだあるのか!?」
「肉体が転移先の物体とぴったり同座標に重なったら、わたくしたちか転移先の物体どちらか、あるいは両方が物理法則エラーの影響で肉片残らず爆裂し――」
「もういいから。いいから早く転移を開始してくれ……」
ミソギはタブレットを指先で操作しながら「あれ? えーっとどのページだっけ」「600年前はできたのに」「地面に埋もれないようz軸に余裕を……1000フィートって10センチくらいだっけ」と眉をひそめ、不安をかき立てる独り言をつぶやきながら、儀式をおぼつかない手つきで進めていく。三人は儀式の完了を戦々恐々と待っていた。
あの子、意外とドジっ娘っぽいねぇ。
不安げにミドが耳打ちしてきた。
魔法円の光が強まる。転移の準備ができたのだ。
ミソギを中心に四人は寄り集まる。
「イクさん、ミドさん、イザベルさん。わたくしの身勝手な願いを聞き届けてくださり、重ね重ね感謝いたします」
「顔見知りがあいつの秘書をやってたからねえ。事情の一つは聞きたいのよ」
「ヒラサカには個人的な借りがある。フフッ、我が剣で返してやれる絶好の機会だ」
――イクに私の想いは届いてるよ。あとはイクが気づいてくれるだけ。
シロコが伝えたかった想い。まずはそれを見つけ出そう。気づかなくてはならない。彼女が大事にしていた、見えざる証明の価値に。へこたれている時間などあるものか。復興に励む村人たちだってミソギを自分たちの旅に同行させてくれたのだ。
イクは奮起する。
「ミソギ、転移を頼む!」
「はいっ。シロコさんをお迎えにいきましょう」
ミソギの詠唱は高らかに。
杖で魔法円の中心を叩く。
四人は瞬時にして消えうせ、光の粒子が残滓として空間に舞った。