第30話:ささやかな余興
厚い灰の雲が空にふたをし、さながら闇夜。
燃えさかる炎に支配された地は赤色。星の代理人による禍々しき地上の明かり。
逃げ遅れて倒れた村人がそこかしこに。燃えてる者、いない者、いずれもちらほらと。
古い木造家屋が次々と焼け落ちていく。むなしく崩れてぺしゃんこになる。
放心状態のミソギも膝から崩れ落ちる。
「村が燃えてる。ぜんぶ燃えちゃってる。ぜんぶ……」
業火に呑まれる村を蹂躙する黒い化け物が一体。
薄暮の影法師が実体を得たかのような黒い人型。薄っぺらく痩せているにもかかわらず背丈と手足は異様に長く、前にだらんと垂れている。昆虫的な複眼が顔面に据えられ、他の器官は見当たらない。
黒い化け物が腕を振る。
ぶんっ、と長い腕はしなりながら伸長し、倒れていた村人の一人を串刺しに捕獲して引き寄せる。そして底なし沼に引きずり込むかのように胴体に吸収してしまった。
ミュータントらを片端から捕食していくうち、複眼がついにミソギの姿を捉えた。
万華鏡を思わす眼に魔力の光が宿る。
照射。
ほとばしった熱光線が直線上の家屋を焼き払った。とっさにイクがかばって伏せていなければ、焼かれていたのはミソギであった。
ミソギに興味をなくした黒い化け物は進路を変える。
進路の先には灰色の塔。
「あの黒い化け物はヒラサカがけしかけたのか。塔の結界が破られたのか」
「……みんなを、村のみんなを助けないと」
ふらふらと起き上がったミソギはイクを振り払い、うわごとをつぶやきつつ危うげな足取りで黒い化け物を追っていく。正気をなくした彼女を助けるためミドとイザベルも後に続いた。
「大変な事態になってしまいましたね」
残されたイクとシロコのそばにヒラサカが近寄る。
言葉とは裏腹に、燃え上がる村を呑気に見渡している。
「ふむ、タカマガの秘境で暮らすミュータントたち。彼らが凶悪な化け物を飼っているという情報は本当でしたか」
聞き覚えのある台詞がイクの忌まわしき記憶を呼び覚ます。
「私はフェルナンデス宰相から特命を受けていたのですよ『タカマガのミュータントたちが人間を襲ってくる前に、化け物を始末せよ』と」
散らばっていた記憶のかけらがぴたりと当てはまって、かたちが完成する。
記憶が濁流の勢いで遡り、始まりの地点へと帰り着く。
――白い虎の一族が荒野を渡る隊商を襲撃する前に、クリーチャーを始末せよ。
腰のベルトから拳銃を抜き、ヒラサカの額を狙って引き金を引くまでの動作は、憎悪と憤怒が理性を上回ってもたらされたものであった。
発砲音は確かに鳴り、硝煙も銃口から立ち昇った。
ところが発射された銃弾はヒラサカの前に出現していた『空間の歪み』に阻まれ、中空で静止してしまっていた。
「どうだねイク君。私のささやかな余興は。愉快だろう」
がらりと変わった口調。こちらが本性なのだろう。氷雷会首領としての。
「お前がすべての元凶だったのか!」
二発、三発、四発……シリンダー内の弾薬が尽きるまで銃を撃ち続ける。いずれもヒラサカを守る空間の歪みに捕らわれ、彼を撃ち抜くには至らなかった。イクが怒り狂う有様を彼は楽しげに見物していた。
「お前がすべてを狂わせたのか!」
ぱちんっ。
ヒラサカが指を鳴らすと空間の歪みが消え、銃弾は地面に落下した。
「元凶? 狂わせた? 私が? まさか冗談を!」
大仰に肩をすくめたヒラサカが人さし指を伸ばすと、空間が正面めがけて波打った。太刀を振りかざしていたイクは波打つ歪みをくらって真後ろに跳ね返されてしまった。
銃も太刀も捨てたイクは呪われし右腕を灰の空に掲げた。
「ダメだよイク!」
シロコの呼びかけすらもはや届いていなかった。
膨大な魔力を白き魔法エーテルエッジに変換して解き放つ。とてつもない威力の光が波紋のかたちとなり拡散した。
光の白が闇の黒を払拭する。
破壊の嵐が巻き起こる――寸前に放たれたもう一つの白い波紋。
二つの波紋は重なりあい、打ち消しあった。
恐ろしくも、エーテルエッジすらヒラサカに傷を負わせるのはかなわなかった。秘書ベラドンナの魔法がエーテルエッジを霊的に相殺してしまったのだ。
ベラドンナの手の甲に浮かび上がるのは呪いを象徴する黒い茨の印。
光が消滅し、闇が舞い戻る。
「逆恨みはよしたまえ。はっきりと思い出したまえ。成人の儀式で使うはずだったサソリ型クリーチャーを暴走させたのは誰か」
イクの鼓動が早まる。
「クリーチャー暴走の弾薬を撃ち込んだのは誰だ?」
「……」
「沈黙はよしたまえ。君は憶えているはずだ。己が欲求のため、マフィアに魂を売った悪しき若者の名を」
早鐘を打つ心臓が彼を責め立てる。
灰の舞う黒い空に熱光線が幾度も飛び、灰の雲を穿っている。ミドたちと黒い化け物が交戦しているのだろう。乱射される熱光線の一発が灰色の塔に命中したものの、塔を防護する魔法障壁によって直撃は免れた。
「違う」
否定する。
「何が違う?」
「違う!」
吠える。
「逃避したところで事実は覆るまい」
「違う……」
嘆く。
「さあ、告白したまえ。懺悔したまえ。白い虎の一族を滅ぼしたのは誰だ?」
「イク、イクってば!」
足腰の力をなくしてヒラサカの前にひざまずくイクにシロコが抱きつく。
激痛に襲われる頭を抱えながら、震える口で彼は紡いだ。
「俺が」
「イク?」
「俺が殺したんだ」
シロコの時が止まった。
勝利を確信したヒラサカが邪悪に、満足げに笑んだ。他者が絶望の淵に堕ちる様を愉悦していた。
「そのとおり。白き娘、君の故郷を滅ぼしたのは他でもない。そこの彼なのだよ。君の大事な大事なパートナーが、君の大事な大事な父を、母を、姉たちを、同胞を」
殺したのだよ。
最後の言葉は鉛のごとく重く、凍てついていた。たとえるなら心臓を貫く銃弾。情を持つ人間が、およそ笑みを浮かべながら放てる台詞ではなかった。
飛び退くシロコ。
嘘。そんなの嘘だよ……。
自己暗示のつぶやきと共に後じさりしていく。
「いいや、真実。痛ましき真実だ。哀れなる白き娘よ」
ヒラサカが最後の追い打ちをかけた。
シロコはうずくまる。失意と絶望に打ちひしがれ。
「おっと忘れていた。私はイク君を迎えにきたのだよ。無能なクルーガーに代わって『黄昏と暁』に招待しようとね」
「……」
「何も言えぬか」
「……」
「戯れにも飽きたな。ベラドンナ」
「はっ」
「聖女ミソギを始末した後『ブラックマター』の攻撃命令を解除、回収し、撤収する。稼動実験データは充分に取れたはずだ」
「戦闘班と傭兵の展開は済んでおります。呪われし少年らと裏切り者イザベルにも死を下しましょう」
「路傍の小石を逐一除けていては覇道は歩めんよ」
「仰せのままに」
「手早く済ませるぞ。フェルナンデスもさぞかし待ち焦がれているだろうからな」
イクとシロコを捨て置いて踵を返すヒラサカとベラドンナ。
青い稲光。
大地を揺るがす雷鳴。
強烈な落雷が背後で起こり、二人は歩みを止めて振り返った。
振り返ったそこに『哀れなる白き娘』はいなかった。
代わりに虎がいた。
いかづちをまとわせた白い虎『瑞獣ビャッコ』が。
「私に挑むか。白き娘」
白き巨獣は牙を剥き、地獄の底からもたらされるうなり声を上げている。
「獣の側面に理性を喰われたか」
ヒラサカはトレンチコートのポケットに手を突っ込んだ格好で余裕を主張している。
咆哮。
猛り狂う雷。
ヒラサカは軽く腕を払って、電撃をいとも容易くかき消す。
「瑞獣ビャッコの力、試すのも一興」
巨躯を翻す瑞獣ビャッコ。ヒラサカを守る空間の歪みに絡め取られるも、爪と雷で力任せに歪みをこじ開け、防護を突破する。
巨腕の爪が憎き敵を引き裂く最後の一歩、ビャッコは急激な重力に襲われて地面に叩きつけられた。張り付けにされている地面には禍々しき呪詛を思わす魔法の紋様が浮かび上がっていた。
「力ずくでは我が呪縛は破れんよ」
紋様から生えた黒い茨が四肢を絞める。
苦痛と怒りに捕らわれて理性を欠いた獣の咆哮が灰の舞う空に響く。雷が乱舞し、周囲を無差別に破壊していく。ヒラサカとベラドンナが立ち去っても白き巨獣は咆哮と雷鳴を響き渡らせていた。
そばを掠めた熱光線が紋様の一部を融かし、呪縛が解かれる。
そちらに注意が逸れたビャッコは勇ましき四肢で地を蹴り、燃えさかる村を突っ切り、灰色の塔めがけて疾駆した。稲妻を含んだ後塵が舞い、青い軌跡を引いた。
かろうじて再起したイクは、ぼやける思考をどうにか働かせて歩を進める。ミソギと同様、夢遊病者の足取りであった。