第29話:相対する白と黒
「厳密に申しますと、イクさんの右腕の刻印は『呪い』とは性質の異なるものです」
古代文明の塔は地下に眠る魔力を吸い上げて結界を張り巡らせ、クリーチャーから秘境を守っている。また、高度な技術で建造されたそれは食料や資材の長期保存にうってつけで、住人たちの生活と密接に関わっていた。
「黒き刻印は、本来はミュータントやクリーチャーに施術される魔力発現のしるし。生命力を魔力に変換する作用があるのです」
「生命力の弱い純血の人間には、結果として致死量の命を吸い取る呪いとして機能しているわけだな」
コンクリートの足元に描かれた魔法円はやわらかい線を重ねた紋様で、やさしい音楽の旋律を想起させる。
魔法円の内側にはイクとミソギ。
シロコ、ミド、イザベルは円の外で二人を見守っている。ひなびた秘境と濃霧漂う広大なタカマガ湖、近代的な建築物が並ぶ西方都市タカマガの三つを一望できる絶景になど見向きもしていない。
風が髪を躍らせる。
ちぎられた雲たちが揃って西の彼方に流れていく。
「そういった理屈ゆえに『呪いを解く』ということはできません。わたくしができるのは直接魔力を注入し、生命力変換の必要を抑える対処療法。さあ、イクさん。右腕を」
右腕に巻かれた布をイクはほどく。
黒ずんだ腕に皆、絶句した。
彼の右腕の症状が最終段階まで進行しているのは傍目にもわかった。何せ、黒いあざが指先から腕の付け根まで及び、おびただしく広がり、もはや肌色の面積はほとんど追いやられていたのだから。
イザベルは気遣いと憤りの両方を込め、眉をひそめている。シロコは深刻そうにしながらも黙りこくっていた。さっきのやりとりの直後だから口を利きづらいのだろう。イクと目が合いそうになったら露骨に顔を伏せてしまった。
ミソギが魔法円の中心を杖で突く。それを鍵に発生した光を吸収していく。
「魔力注入の儀式を行います」
告げるや否や、やおらイクの正面にぴったり身体を重ねてくる。挙句、斜めに傾けた顔を急接近させて唇まで重ねようとした。とっさにイクが彼女を押しかえさなければその行為は成し遂げられていただろう。
拒まれた無垢な聖女は「あらっ?」と首をかしげている。
円の外にいるシロコはミドの手で目隠しされており、イザベルは両腕を組んだ仁王立ちで大笑いしていた。今度ばかりはイクもメガネの彼に感謝を重ねた。
「選り好みして悪い。ええっと、他の方法で頼む。多少効率が悪くても……さ」
「殿方との交流が少ないゆえ粗相を働いてしまったようですね。失礼いたしました」
可視化した魔力の光はミソギの杖先端に収束していく。
杖が振り下ろされる。凝縮された魔力の光がイクの体内に流入していく。霊的な力の源が蓄積されていき、活力が増していく。呪いの印は茨模様のあざに戻り、イクの右腕もだいぶ人間らしさを取り戻した。
「ありがとうミソギ。至宝の存在があやふやな現状、延命措置で楽観するには早いが」
「いえ、わたくしが無知なばかりに……」
無力感にミソギは打ちひしがれ、うなだれる。
「ミソギちゃん、ホントに至宝を知らないのかい? 葉っぱの巻かれた黄金の剣でさ、なんでも願いを叶えられて『地の底に眠る怪物』を倒しちゃう力まで持ってるんだよ」
「そもそも『怪物』を滅ぼしたのは天空都市に備わっていた魔法兵器です。黄金の剣で倒したなどという記述はいずれの文献にもございません。万能たる至宝……そのような眉唾な代物があるだなんて」
千年前、古代人が魔法兵器で地上をことごとく焼き払った結果『地の底に眠る怪物』と古代人の文明は破滅に至った――現代世界の歴史ではそう綴られている。
聖女ミソギが至宝の在処を知っている――とディオン教授が言っていたにもかかわらず、ミソギは至宝の存在を関知していなかった。
二つの齟齬は何が原因なのか。
「天空都市エセルならば刻印を除去する設備があります。ですので呪いを解くにはやはり天空都市を目指すべきでしょう」
「天空都市とやらは名前のごとく空に浮かんでいるのだろう? 荒野に線路を引いて喜んでいる私たち現代人に空を飛べとでも?」
「移動手段は近いうちわたくしがご用意いたします。イクさん。貴方の体は依然として不安定な状態にあります。黒の刻印が放つ白の魔法、くれぐれも使用は控えてください」
ミソギは杖で再度床を突き、魔法円をかき消した。
巻き上げられるワイヤーの音。空が遠退き、地上に近づいていく。
昇降機で塔を下降しているさなか、ふとミドが疑問を口にした。
「もしもイクの右腕を切り落としたらさ、呪いから解放されるのかな」
昇降機内に居合わせる一同は、ぎょっと彼のほうに向き直った。
ミドは頭がもげんばかりに首を左右に振る。
「ちょっ、いやいやいや、もしもだってば。僕は単に可能性の話をしてるだけだよ。そんな怖い顔しないでってみんなぁ」
「右腕を切り落とした場合はどうなるか……わたくしにも不明です。ただ、恐ろしく分の悪い賭けであるのは確実でしょう」
「でもさ、天空都市エセルに至宝がなくて、おまけに呪いを解く設備も使えなかったとしたら、僕らは最終的にそういう決断を下さなくちゃいけないんだよ」
その最終選択はある意味、冒険者には死より重い。
「ねえ、あそこ……船みたいなのがあるよ」
左脚のふとももをさすっていたシロコが窓の外を指差した。
霧深きタカマガ湖の水面に小型軍用船が浮かんでおり、煙突から黒煙を吐いて景観を汚しながら水面を滑っていた。
軍用船から長いタラップが陸に伸びている。
規律正しく整列する黒服の男たち十数人。いずれも屈強な体つきで、有事の戦闘員に間違いなかった。
先頭に立つのは、片目を髪で隠した妙齢の女性。彼女も黒服とネクタイを正しく着こなしている。痩せた妖艶な肉体も相まって、危険ななまめかしさを匂わせていた。
「エセル製薬の秘書ベラドンナと申します。突然のご訪問、ご容赦ください。本日は聖女ミソギさんと面談いたしたく参じました」
感情がこもっていない、人形じみたあいさつをベラドンナは淡々としてきた。物腰も丁寧というよりも、からくりの動きと言ったほうが適当であった。
ベラドンナはミドに意味深な一瞥をくれる。彼は終始顔をしかめていた。
エセル製薬……いや、氷雷会。ついに追い詰めにきたか。
互いに目配せしたイクたちは、ベラドンナの一挙手一投足を慎重に窺う。
警戒を強めるミソギは、歩み寄ろうとしたベラドンナを手で制する。
「立ち去りなさい異邦の者よ。貴女からは邪悪な魔力を感じます」
「社長も参上しております」
整列していた黒服の男たちが左右に列を割った。
割れた列の間を若い男が歩いてくる。
靴底が鉄のタラップを叩く硬い足音。
一歩一歩、近づいてくる――戦慄が。
霧に紛れたおぼろな姿が明瞭となる。
髪をオールバックに固め、羽織っているのは長いトレンチコート。
その若い男は自信と奸謀に満ちた強者の笑みを口元にたたえている。
切れ長の目は研ぎ澄まされた刀剣を髣髴とさせる。
隙が皆無。目を逸らした瞬間、その刃に切り伏せられる恐怖を与えてくる。近づいてくるごとに増す悪しき冷気と威圧感にイクたちは圧倒された。
イクは呼吸を荒らげ、左胸を強く押さえる。
高鳴る心臓は危機を告げているのか。
動悸が狂う。
ミドとシロコも居すくみ、イザベルも緊張の冷や汗をしたたらせていた。
初対面であろうと、この戦慄でありありと思い知らされる。
奴こそが――
「ヒラサカ。やはりヒラサカとは貴方でしたか」
意外にも、最初に男の名を口に出したのはミソギであった。
「私ごときをご存知とは光栄の至りです、聖女よ」
名を呼ばれたトレンチコートの男ヒラサカは恭しくお辞儀する。その仕草は聖女への敬意よりも慇懃無礼の意味合いが勝っていた。
「はじめまして。私は『エセル製薬』の代表を任されておりますヒラサカと申します。以後、お見知りおきを」
親交の証らしい。ヒラサカは握手を求めてくる。
驚き、戸惑い、敵意。
険しく細めるミソギの両眼に負の感情のうねりがめまぐるしく渦巻いている。
お尋ね者であるはずのイクたちをヒラサカはあえて無視している。裏の顔ではなく、あくまで表の顔でミソギと立ち会う心積もりか。イクたちは訝った。
「表は民間企業の総帥、裏はマフィアの首領……貴方は千年後のこの世界で何を企んでいるのですか」
「はて、失礼ですが以前もお会いしたことが?」
「旧人類が滅びたと同時に、わたくしたちも表舞台から消え去るべきだったのです」
「その詩的な言い回しはここでの通過儀礼的なものでしょうか」
困ったふうに苦笑するヒラサカ。小ばかにしているようにも映る。いずれにせよ真意は欺瞞に満ちた声色の奥に隠されている。
「昨今、人間社会は目覚しい発展を遂げています。グリア大陸に鉄道が網羅されてからはとりわけその速度が増し、文明全体が黄昏から暁の時を迎えました。エセル製薬はその成長における医療の分野を担っています。聖女ミソギ、あなたにも文明発展の一助となっていただきたいのです。共に世の暁をもたらしましょう」
ミソギはにべなく首を横に振った。
「貴方の詐術に陥るほどわたくしは愚かではありません」
杖を構える。先端の宝石が発光する。
「悠久に等しき千年の因縁。終止符を打ちます」
秘書ベラドンナと黒服たちが懐に手を伸ばすがしかし、首領に片手をちょいと上げられてすぐさま戦闘態勢を解いた。
「穏やかにいきましょう、聖女よ」
「白々しい!」
「滅びの宿命は、あなた独りが迎えるのだと決定付けられているのですから」
「ッ!?」
ヒラサカがほくそ笑む。
ぞくり、イクの背に怖気が走った。
遠くから大規模な爆発音がし、飛び立つ小鳥たちで木立がにわかに揺れた。
空が赫々とゆらめく。木々の炎上を映しているのだ。
「おや、あの爆発と煙は村の方ではありませんか。さあさあ聖女たちよ、何を呆けているのです。村の一大事かもしれませんよ」
芝居がかったわざとらしい台詞回しであった。