第17話:昂ぶる血
「何事かね」
右往左往する車掌をディオン教授が呼び止める。
「少々揺れますので、座席でお待ちください」
おざなりな早口で愛想笑いを浮かべた車掌は、そそくさと隣の車両に行ってしまった。気に入らない答え方をされた教授は眉間に皺を寄せていた。
列車は依然として耳障りな金切り声を上げながら減速を続けている。
「列車には故障がつきものさ」
「それにしたって車掌たちの様子がおかしくないか?」
動力機関の不調や線路の破損は日常茶飯事であるにもかかわらず、車掌たちの慌てふてめきようは異常である。
嫌な予感をミュータントの動物的本能で感じたのだろう。シロコが「何か起こってるのかも」としきりにイクの肩を揺すっている。
肘掛けにつかまって大人しくしているうちに列車は完全に停車した。震動がおさまって、神経質になっていた乗客たちは次第に落ち着きを取り戻していった。
他の乗客たちに倣ってイクも重い窓枠を押し上げ、外に身を乗り出す。
小雨をまとった風が顔面に降りかかる。
目を細め、曇り空と雨で霞む線路の先を凝視する。
ごつごつとした丸みを帯びた影。
細い線路のずっと向こうで、巨岩が列車の通行を阻んでいた。
「落石か。線路上を大岩が塞いで――」
台詞の半ばでイクは絶句した。
線路上に落ちていた巨岩がひとりでに動き出したのだ。挙句、岩だと錯覚してたその胴体から四本の脚がまず生え、次に猛牛に似たツノを生やす頭がむくりと起き上がった。
「クリーチャーなのか!」
猛牛型クリーチャは車両の先頭をねめつけている。
「クリーチャー、怒ってるかも?」
「寝起きが悪いのかなぁ、あの子。ははは……」
口元を引きつらせつつ冗談めかすミドから冷や汗が。
猛牛型クリーチャーは頭を低くしてツノを正面に向けている。
戦闘姿勢を維持した状態でにじり寄ってくる。
そしていよいよ、列車にめがけて突進を仕掛けてきた。
のろまだった動作は最初だけで、二度三度と地面を蹴るうちにクリーチャーの速度に勢いがつきだす。
すさまじい質量を感じさせる重々しい地鳴りが列車まで届く。シロコとミドが顔面蒼白になって、吐き出すように叫んだ。
「こっちくるよ!」
「やばいよありゃ!」
小さかった影が雨粒を弾きながら次第に大きくなっていく。
うって変わって客室内は大惨事。
泣き叫んだり車掌に詰め寄ったりして取り乱す乗客たち。手引き書どおりの対応に終始する車掌は「車内が安全ですから」と連呼しながら頑として扉のレバーを守っている。実際にクリーチャーと激突してこの場が崩壊しない限り、もはや恐慌が収まることはないだろう。
「うろたえるでない。あの距離とあの動きならば衝突まで時間がかかる」
教授の言うとおり、我を忘れた猛牛型クリーチャーは身近に転がる岩石に見境なく体当たりをかましている。自分と似た大きさの物体を敵だと認識してしまっているように見受けられた。
「車掌に代わって乗客を落ち着かせ、避難を指示するのだ。シロコ君は女性と子供たちを、メガネ君は車掌の説得だ。イク君は私に続きなさい」
ディオン教授は冷静かつ的確に指示を出す。彼は手の中でもてあそんでいたペン型の銀色の物体を懐にしまった。
「間に合うのか……」
「イク君。今は最善を尽くしたまえ。怖れるでない。克己するのだ」
そうだ。俺が怖がっていたら、誰がみんなを救えるんだ。
イクは布で覆われた右腕を左手で握り締める。
……これが、俺に尽くせる『最善』か。
その腕を掴む、もう一つの誰かの手。
その手は白くてか細い少女のもの。
彼女の潤んだ瞳ふたつが、上目遣いでイクに訴えかけてくる。
「シロコ、離してくれ」
「や、やだ」
怖がりながらシロコがかぶりを振る。
「白い魔法使ったら、イクが死んじゃう」
「このまま指をくわえて待っていたら俺はおろかシロコ、ミド、ディオン教授だって無事では済まない。迫りくるあいつを阻止できるのは俺のエーテルエッジだけだ。呪われし右腕が誰かを救う力になれるのなら、たとえ命を代償としてでも振るいたい」
それは償いの気持ちよりも奥深くに根ざす、彼の本質的な正義。
「以前、シロコが慣れない『変身』をして列車強盗から俺を助けてくれただろ? あのときの強い意志を俺も抱いているんだ」
「好きな人を助けたい、っていう気持ち?」
「そうさ。人間だってミュータントだって、誰だって持っている想いだ。自分と他者を繋ぐ大切な想いだ」
ミドは暗殺術と薬の調合でイクとシロコを助けた。ディオン教授は己に残された最後の権限を用い、国王にミュータントの救済を乞うた。次は自分の番だと、イクの胸に強固な意志が生まれていた。
強張っていたシロコの全身が柔らかくなっていく。決して離すまいと彼の腕を握り締めていた指先の力が緩まる。
「うん、わかったよ」
イクの肩に手を置き、互いの呼吸がかかる位置まで身を寄せる。
「その代わりイク、絶対帰ってきてね」
「約束する」
イクはシロコの小指に自分の小指を絡め、誓いを交わした。
混乱状態の車内を避け、線路を伝って先頭車両まで急ぐ。
雨粒を運ぶ風が正面から吹きすさぶ。
途中、人影らしきものが線路沿いの丘の上にちらついたが、今のイクに正体を確かめる余裕はなかった。当面の危機は刻々と迫ってきているのだ。
「――くっ!」
発作的な右腕の激痛にイクは足をもつれさせ、ぬかるみに膝をつく。
右腕の呪いが疼く。呪いの抑制薬を飲んでから日が浅いにもかかわらず。
ひどい喉の渇き。呼吸をするのにも小針でつつく痛みが伴う。
乱れた息づかいを整えている間に発作は収まった。
驚くべきことに、たどり着いた先頭車両の正面には先客がいた。
男装の令嬢イザベルが王子様さながら、白馬にまたがって線路上に立っていた。堂々と、誇らしげに。打ち付けてくる雨風にびくともせず。
「その馬、貨物庫に乗せてきたのか」
「私の愛馬だ。それよりもあの猛牛型クリーチャー、すごいぞ。雨粒を弾いて泥水を跳ね上げて突進してくる。二本のツノにかかればこの列車なんてひとたまりもないな。大物だ!」
彼女の躍った口振りは、上等な獲物に興奮する狩人のそれであった。
「こいつをお前に預ける。牛は赤い色を好むからな。上手く陽動しろよ」
馬上のイザベルは首元に巻いていた紅色のスカーフをほどき、イクによこしてくる。彼女が何を企んでいるのか察した途端、彼の額から血の気が引いた。
「ふざけるのはよせ」
「私は大真面目だぞ」
「これはお前たち貴族が遊んでいるような狩猟じゃない。人間に明確な敵意を抱くクリーチャーとの戦闘なんだ」
「ああ。だからこそ血が昂ぶる」
不敵に笑むイザベル。
こいつ、本気なのか……。
地響きがだいぶ近くなってきた。四の五の言っていられない。腹をくくったイクは白馬に飛び乗り、イザベルの背中に抱きついた。
彼女が掛け声と手綱で合図を送る。
白馬の蹄がぬかるむ地を蹴った。
ぐんっ、と前方からの重力がイクを圧した。
強烈な風圧と雨。
白馬は果敢に線路上を疾走する。
イクはイザベルの胴に片腕をまわしながら、もう片方の腕を高らかに掲げる。その手に握られた赤いスカーフが風雨で激しくはためき、自己の存在を主張する。灰色の雲にふたをされ、茶色の土ばかりが広がる荒野で、まぶしい赤色はとにかく目立った。
猛牛型クリーチャーと真正面から急接近する。
猛牛の狂ったまなこが真っ赤なスカーフを捉える。
「奴め、釣られたな。曲がるぞ!」
手綱の命令に従った白馬はクリーチャーとの衝突間際に真横に逸れる。クリーチャーも蹄で線路を蹴散らしつつ急停止し、白馬の走り去る方角に旋回した。
イザベルの目論は成功した。
猛牛型クリーチャーは赤いスカーフに夢中。蒸気機関車などそっちのけで、一途に白馬を追いかけてくる。
闘牛士の真似事かと呆れていたら、よもや本当に闘牛をするハメになるとは。
赤いスカーフを手で振りながらイクは妙に冷静な思考を働かせる。
白馬を駆るイザベルの横顔は生き生きとしていた。
本人の「血が昂ぶる」なる発言はまことであった。口の両端はつり上がっており、頬は熱を帯びて上気している。手綱を振るう腕や鞍にかけた脚の動作も躍動感溢れている。
「速度を落としてクリーチャーに近づいてみるか……なんて、冗談だよ!」
命がけの闘いをイザベルは心底楽しんでいた。
切り立った丘の絶壁目前まで白馬は接近する。
限界までクリーチャーを引きつけたイザベルは、絶壁にぶつかる直前に手綱を操り、白馬の軌道を直角に逸らした。小回りの利かない猛牛型クリーチャーは絶壁に激突した。
激突の衝撃で絶壁が崩落する。
白馬は一目散に崖下から退散する。
大小さまざまな岩石が絶壁から崩れ落ち、雨あられとクリーチャーに降り注ぐ。四肢の筋肉隆々とした化け物じみた猛牛であろうと、怒涛の崖崩れにはひとたまりもなく、苦悶の咆哮を上げながら崩落に呑み込まれてしまった。
勝利を確信したと思いきや、崩落して積み重なった岩石が吹き飛ぶ。
猛牛型クリーチャーが最期の力を発揮させて崖崩れから脱出し、イクとイザベルに突貫を仕掛けてきた。
「根性があるな」
腰の細剣を抜いたイザベルは、敵を真っ向から迎え撃つよう愛馬に命じた。
猛牛型クリーチャーとのすれ違いざま、イザベルは正面に突き出されたツノにつかまって馬から飛び降りた。ツノを軸に、腕の筋肉と遠心力を生かしてクリーチャーの背中に飛び乗ると、そいつの首に細剣を突き刺した。
鋭利な細剣は深々と首の根元に沈んでいく。
猛牛型クリーチャーは断末魔を上げて横倒しになる。
茶色の巨体が泥水を巻き上げながら地面を滑っていく。
慣性が止まったとき、猛牛型クリーチャーは既に絶命していた。
「ははははっ! やったぞ!」
猛牛に打ち勝った男勝りな女戦士は腕を振り上げる。
彼女は身体全体で歓喜を表現していた。
いつの間にか雨が上がっていた。
曇天が裂け、一条の光がイザベルの真上から差し込んでいた。
陽光が彼女の勝利を祝福していた。
死した猛牛の上で勝利の雄叫びを上げるイザベルを、イクは唖然と眺めていた。
「無茶苦茶だ。無茶にもほどがある」
「ではイク、お前はどうするつもりだったんだ?」
口ごもったイクは布の巻かれた右腕に視線を落とす。
涙に暮れるシロコの幻影が脳裏によぎる。
「……確かにお前のおかげだ。ありがとうイザベル」
「案外素直に褒めてくれるのだな。日ごろ私がクリーチャーを仕留めてくると、秘書や執事どもはお小言ばかり並べてくるから新鮮だぞ」
「そっ、それは当たり前の反応だろ!」
クリーチャーとの大立ち回りで線路は無残に踏み荒らされてしまっていた。幸いにも列車は無傷。クリーチャーが倒されたのと雨が上がったのもあって、車掌たちが外に出て車両の点検をしていたり、救援を要請しに馬を走らせたりしていた。
「イクの考えていた対応策を教えてくれ。よもや無策だったわけではあるまい。窮地の冒険者が閃く機知とやらを拝聴したい」
「居ても立ってもいられなくなっただけさ」
「ほう、なるほど。あくまでシラを切るつもりか」
言質を取ったとばかりにイザベルがにやりとする。
次に彼女は耳を疑う台詞を発した。
「力ずくで聞き出すか」
雨露と血に濡れた細剣。
切っ先をイクに向ける。
「おっ、おい。タチの悪い冗談は止めろ」
「さっきも言ったろう――私は常に大真面目だと!」
豪快な踏み込み。
刹那、繰り出される細剣の一閃。
闘牛士イザベルの疾風のごとき突きがイクをかすめた。
「いざ、決闘だ!」