第14話:恋人というよりも
向かい合う二人の影。
「教授との『交渉』は済みましたか?」
女性の声をした影がもう一方の影に尋ねる。淡々と、事務的に。街灯のあたらない暗闇の中にいるため、性別以外の正体は判然としない。
「ったく、そう急かすな。少しの辛抱だ」
もう一方の影、馬車のランプで陰影を濃くしている黒服の男は氷雷会幹部クルーガーだとわかる。あのいかにも尊大な顔つきは、大陸広しといえど二人とお目にかかれるものではない。彫りが深い面立ちと広い肩幅は、威嚇する猛犬を想起させる。
「てこずってるだけなんだよ。ちょっとばかりな」
舌打ち。
苛立ちと焦燥をあらわにしている。
氷雷会との思いがけぬ遭遇。
イクは二人のやりとりに釘付けになっている。
「クルーガー。来るべき『黄昏と暁』の時期は刻々と迫っているのです」
「うるせぇ! てめえに言われなくたってわかってる。あのジジイが強情なんだ。俺の手下がどんだけけしかけても涼しい顔してやがる。ムカつくぜ」
「首領もたいそうお待ちになられています」
先ほどまでの偉ぶった態度はどこへやら。クルーガーは『首領』の一言を耳にするなり、鬼すら逃げ出しかけない強面を情けなく崩してしまう。唇が震え、咥えていた葉巻を落としてしまった。このままでは泡を吹いて卒倒しかねない。
彼は言葉に窮してあえいでいる。
そして我慢の限界に達し、女性の肩を必死にゆする。
「しゅっ、首領には首尾よく進んでいると伝えてくれ。俺は、俺はこんなところで終わる男じゃないんだ。俺こそ『黄昏と暁』に加わるのに相応しい男なんだ」
「それを判断されるのは首領です」
相当切羽詰っているのが傍目にも明らか。下手になって情に訴えるクルーガーとは裏腹に、女性は冷淡とも取れる淡白な対応を維持している。彼が破滅しようが一向に構わないといったふうに。
「近頃の貴方の暴君ぶりは目に余ります。我々氷雷会、そしてエセル製薬の評判を著しく貶めています。これは挽回の機会なのです」
「わ、わかった。わかったから。とにかく首領にはよろしく頼む」
「底知れぬ奈落の淵を背にしてる自覚、忘れぬよう。ひとたび足を踏み外せば暁はおろか、一筋の光明も貴方には届かなくなるでしょう」
「あ、ああ……」
露骨な脅しに露骨な狼狽。
クルーガーの額からは病的なまでに多量の汗が噴き出ている。
立ちくらみに襲われたかのようによろめいたクルーガーは、後ずさりした際に馬車にぶつかってランプの灯を揺らめかせた。伸びる影も揺らめいた。
「間もなく会合の時間です。今夜はここまでですね。ところで、例の少年との接触には成功しましたか?」
「今はそれどころじゃねえよ」
「なるほど。わかりました」
姿と音を夜に溶け込ませた女性は、暗闇に消えた。
ディオン教授を正門前で待ち伏せしていたクルーガーも懐中時計を確認し、苛立たしげに舌打ちして馬車に乗り込んだ。大学の周辺をうろついていた手下たちも命令を受けて引き上げ、馬車は走り出した。
――こうなりゃ手段は選べねえ。そうだ、別に本人が生きてる必要はないんだ。どの道、首領は教授を始末されるおつもりなんだからな。
不穏な独り言をクルーガーは最後に残していった。
石畳を叩く蹄鉄の音が遠退くと、ディオン教授の御者がほうほうのていで草陰から這い出てきて、涙目でイクたちにすがりついてきた。
物陰から明るい場所に出たディオン教授が「何が『交渉』だ」と吐き捨てた。
「教授、氷雷会に強請られてるんですか?」
馬車での帰路、ミドが質問するとディオン教授は首肯した。
「古代文明に関係する文献一切をよこすよう、脅してきたのだ。無論、私は屈しなかったがな。暴力で人を好きにできると思ったら大間違いだ」
強固な意志を貫く、驕りに似た自信が感じられる。
ディオン教授自身は厳格さを装っているつもりでも、口振りと態度からは人間味のある得意さを隠しきれていなかった。シロコが「偉いです先生。悪い人には負けちゃいけないってお姉ちゃんも言ってました」と褒めるものだからなおさら。
「本当は護衛すら不本意なのだが、同僚や教え子たちがうるさくてな」
「懸命ですよ。氷雷会に因縁をつけられているのなら」
「イクなら先生を守ってくれるよ。銃もカタナも、イクは誰にも負けないから」
「イク君は呪いの副産物として魔法を使えるとか言っていたか。ふむ、君たちが言っていた白い魔法とやらも呪いの機能の一つなのかも知れぬ」
「教授でもはっきりとしないのですか」
「千年も昔の存在だ。我々とて手探りなのだよ」
科学と魔法で繁栄した古代文明。
滅亡の後の千年という星霜の果て、彼らの知識と技術はことごとく消失した。今は文明の抜け殻ともいえる遺跡が各地にあり、遺産と呼ばれるがらくたから当時の面影を読み取れるばかり。
馬車はエセル製薬本社(言い換えるなら氷雷会本拠地)を避け、王都外周を迂回する。狭い面積、背の高い集合住宅に代わって、次第に明かりの灯った裕福層の邸宅が風景に加わってくる。いずれも芝の整えられた庭を持つ、広々として立派な屋敷である。
「腑に落ちないなぁ。氷雷会が古代文明の文献をねぇ……彼らの副業は薬屋さんだし、無関係な感じなんだよね。教授を脅迫する必要性はどこにあるんだろう」
「意味などあるまい。しいて言うならば、卑怯な嫌がらせといったところだろう。氷雷会との関わりを断固拒否している私を、奴らは気に食わないのだ」
「『黄昏と暁』という合言葉が関係あるのでは?」
「マフィアの暗号など私が知るものか」
氷雷会の二人が口ずさんでいた『黄昏と暁』なる謎めいた合言葉。首領がイクをその一員に加えたがっていると、以前クルーガーは言っていた。
因縁と不吉を感じてならない。
胸騒ぎがイクの不安を掻き立てる。
ディオン教授を自宅に送り届け、宿に引き返す。
宿は裏路地にひっそりとたたずむ安価なものに泊まった。隣の酒場でイモだらけの大雑把なポトフで空腹を満たし、早々部屋に戻って明日の支度にかかった。
イクは呪いの抑制薬をこっそり手に取り、見つめる。
教授の護衛をするとなれば、必然的に氷雷会と敵対する。たった一度とはいえ、連中に手を貸してしまった事実は事実。気がかりでならない。
シロコが天井を仰ぎながら大きなあくびをする。つられてミドも。
「僕も眠くなってきたよ。そろそろ寝ようか。明日は王様との謁見だ、って教授言ってたからね。陛下の御前であくびなんかしたら即刻斬首かもよ」
ミドが手で首を斬るしぐさをしてみせて冗談めかす。
「お城、行けるんだよね。お城には王様と王女様、王子様と王女様がいて、毎日甘いケーキをいっぱい食べてるんだよね」
興奮気味なシロコに、イクは一抹の不安を禁じえなかった。
「処刑までいくかはともかくとして、城内で妙な真似をしたら、いらぬ疑いをかけられかねない。とりわけシロコはミュータントだから余計注目されるはずだ。キミは城での作法をわきまえていない。俺が合図を出すまでじっとして――」
「イク」
ふてくされた声が彼のしゃべりを遮る。
シロコのほっぺたが限界まで膨らんでいるのに彼は今更ながら気がついた。
「私、イクのこと好きだけど、イクの言いなりじゃないんだよ」
「言いなり、って。俺はそういうつもりじゃなくて」
「そういうふうに聞こえるよ!」
イクの情けない言い訳をシロコは癇癪をもって遮る。
「あれもダメ、これもダメ。イクはダメダメばかり。私はもっと知りたい。外の世界を、人間の住む世界を。それに遺跡の探索も、クリーチャーとの戦いかたも、みんなぜんぶ!」
投げやりにベッドに飛び込み、足を乱暴にばたつかせて義足を放り捨てる。へそを曲げた彼女はベッドにもぐりこみ、そっぽを向いてしまった。イクが慌てて謝ったところで時既に遅し。そのままシーツにくるまって、ふて寝を決め込んでしまった。
首を伸ばしてこっそり顔色を窺うと、シロコは依然として風船みたいに頬を膨らませている。イクは「しまったな」とバツが悪そうに頭を掻いた。
「恋人とか兄妹っていうか、親子だね――難しい年頃の娘を持つ。うんうん、我ながら言い得て妙だ」
ミドへの反論すら思い浮かばず、大人しく黙った。
深夜、イクを夢から引きずり出す者がいた。
「イク、寝ちゃった? それとも起きてる?」
彼の肩を揺すっている。
薄目の視界に入ったその正体は――シロコであった。
寝ぼけ眼に映るぼやけた彼女の姿は、青白い月明かりを背に浴びて輪郭がおぼろ。逆光で表情が黒く塗りつぶされている。猫みたいに光る眼で、不安げな面持ちをしているのがかろうじて分かった。
「さっきはゴメンね。私、言いすぎたよ」
ぺたんと床に膝をついたシロコは、ベッドに横たわるイクと目線を合わせる。
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
寝そべったままイクが頭をなでる。シロコはくすぐったそうに目を細めた。
「謝るのは俺のほうさ」
ベッドから這い出て、二人で宿の外に出る。
眠りについた大都会。
昼間の喧騒はどこへ消えたのやら。満月のかかる王都グリアの夜はひっそりと静まり返っている。営みを示す家屋の明かりはまばら。都市の中央に座するグリア城のみが昼も夜もなく明かりを灯していた。
「シロコを守るという誓い。それに固執するあまり、キミを所有物のように扱ってしまっていた……いつからか、無意識のうちに」
――私、イクのこと好きだけど、イクの言いなりじゃないんだよ。
その訴えでイクは自覚したのであった。少女を守り抜こうという決意の本質が、いつしか献身から保身へと変質していたことに。
自分の手元で大事にしておきたいという願いは、相手ではなく自身のための身勝手な愛情に過ぎない。
悔恨するイクとは真逆に、シロコは彼に寄り添い、満天の星と満月が飾られた神秘的な夜空を堪能している。
「イクのそばにいるの、嫌だと感じたなんて一度もないよ。冷たい地面から私を抱き起こしてくれたのも、義足に慣れていない頃の私を支えてくれたのも、外の世界に戸惑う私を引っ張ってくれたのも、ぜんぶこの手だった」
シロコはイクの呪われし右手を愛しげに握った。
伝わってくる心地よい体温は、いかなる薬よりも呪いの疼きを癒してくれた。
翌日、王城前にて。
兵士に先導されて短い跳ね橋を渡る間、シロコは水の張った外堀を興味深げに眺めていた。外堀の水面には天空の丸い太陽が映って揺らめいている。それに飽きると先ほどまでと同じく、眼前にそびえる真白なる王城を見上げてはしゃいだ。
「落ち着かぬ娘だ。弁えぬ好奇心は不易しかもたらさぬぞ」
たしなめたのは、イクでもミドでも兵士でもなく、ディオン教授であった。登城する際はフードを脱ぐようにと指示したのもこの老紳士であった。
「我々はこれから陛下と謁見するのだ。粗相のないように」
シロコは叱られた子犬みたいに耳を萎れさせた。
険しい荒野の只中に緑豊かな王都。さらにその中心に存在する華麗なるグリア城。力強さも当然のことながら、純白のそれは優雅さが勝っている。大陸を平定し、王位も二世代、三世代と移行していくうちに、要塞としてよりも権威の象徴としての機能が強まっていったのだ。
「兵士さんいっぱいいるし、お城もきれいだね。ふふっ」
微熱をはらんだシロコの声がイクの耳をくすぐる。
張り詰めた空気が漂う城内。
豪奢なカーペット、大理石の彫像、きらびやかな照明……孤児院の幼子たちが大事にしていた絵本にも描かれてあった、およそ普遍的な『お城』の内装である。
廊下を歩く間、兵士や文官たちの奇異のまなざしが幾度もシロコをつつく。ときおり「ミュータントか」とささやき声がする。彼女は居心地悪そうに猫背になり、イクの背に頭を隠していた。
長い廊下を幾重もくねり、階段を上り、長い時間をかけて謁見の間に到着する。
数段高い最奥の玉座。
臣下を脇に従え、若きグリア十二世が座していた。