第1話:プロローグ
黒髪の青年イクは、あらかじめ見繕っておいた崖の上に身を潜めた。
「人間と虎を掛け合わせて生まれた半人半獣の亜人――」
見晴らしのよいここからなら集落の全容を見渡せる。
谷間の奥地に隠れて存在する、ひなびた村。
石造りの家や木組みの柵は、住人たちの文明が人間より数段遅れているのを物語っている。大陸に鉄道が敷かれて十数年、彼らはなおも原始的な生活送っている。
集落の中央広場には若い男女がこぞっている。
皆、一様に白い髪。
そして同様に、猫科の白い耳を頭部に生やしている。
「――白い虎の一族か」
イクは黒い防塵マントで肌色を隠し、背を屈めて慎重に村の様子を観察していた。
白い虎の一族の若者たちは皆、剣や槍、斧といった武器を手にしている。
族長らしき老人が号令を出して若者たちを整列させる。それから大人たちに指示し、木組みの檻を開放させた。
檻の奥から大きな影が現れる。
「祭礼の神輿……いや、違う」
影の正体は――両腕のハサミと反り返った尻尾の針が恐ろしげなサソリ。
最も恐ろしいのはその巨体である。
サソリは通常の何十倍も大きな、地上の生物にあるまじき全長を誇っている。平べったい胴体ですら隣の穀倉よりも大きい。反り返った尻尾の針にいたっては、周囲の者たちが空を仰ぎながら見ている始末。その針で突かれでもしたら、毒が回るまでもなく肉体に風穴が空いてしまうだろう。
鎖に繋がれ、針とハサミを縄で緊縛されたサソリ型の『クリーチャー』を、四人の屈強な大人が歯を食いしばって広場の中央まで引きずっていく。地面には深い引きずり跡ができていた。
「彼らがクリーチャーを連れて隊商を襲撃する情報は本当だったのか」
亜人たちは人間社会に馴染むのをかたくなに拒み、僻地で独自の文化を築いている。この白い虎の一族も例外ではない。不法に保有しているクリーチャーの引渡しに応じるよう、領主から再三の命令が下っても、彼らは聞く耳を持たなかった。
白い虎の一族が荒野を渡る隊商を襲撃する前に、クリーチャーを始末せよ。
それがイクの請け負った依頼であった。
「だが、彼らは人間を嫌っていても敵意までは無いはず」
訝っていたイクは、かぶりを振って余計な迷いを払い、詮索を中断する。
「今、大事なのは真実じゃない」
携えていたライフルのボルトハンドルを引いて薬室を開き、弾薬を詰める。依頼主から託された、クリーチャーに特効のある特殊な弾薬である。
「これは、俺が生き延びるためにやるべきこと。大事なのはその現実だけだ」
言い訳じみた独り言を言いながら、イクは布で巻かれた己の右腕を見つめていた。
ボルトハンドルを手前に押し、薬室を閉じる。
装填は完了した。
あとは狙って、撃つだけ。
イクは地面に寝そべり、両腕と肩を使ってライフルを固定する。
集落の広場にいるサソリ型クリーチャーの頭部に狙いを定める。
息を止めて集中した後、引き金を引いた。
静寂を破る刹那の発砲音。
肩から伝わる衝撃。
数拍の後、サソリ型クリーチャーが突如もだえ苦しみ出した。
白い虎の一族たちがどよめきだす。
もうしばらくしたら全身に薬物が浸透し、サソリ型クリーチャーは死ぬだろう。
イクは安堵して立ち上がった。
ところが次の瞬間、多数の悲鳴を耳にしてイクは異変に気づいた。
「クリーチャーが生きているだと!」
むしろ、銃弾を受ける前より凶暴化しており、ハサミと針の緊縛を破って白い虎の一族たちを襲っている。
両腕のハサミに身体をまっぷたつにされる女性、針に串刺しにされて放り捨てられる男性、巨体に踏み潰される族長の老人、逃げ惑う子供たち。集落は阿鼻叫喚の有様と化している。
勇敢な若者たちが各々の武器や電撃魔法で攻撃を加えても、サソリ型クリーチャーには傷ひとつ負わせられない。大人たちが頭や手足を獰猛な虎の形態に『変身』させて猛攻をしかけても平然としている
想定外の事態にイクは狼狽し、早鐘を打つ胸を強く押さえる。
白い虎の一族たちの攻撃を受けて防衛本能を刺激されたクリーチャーは、表面の気孔から紫色の毒素を噴霧する。毒素を吸引した周囲の者たちが喉を引っかきながら次々と倒れていく。
イクは震える指先で再度弾薬を装填し、暴走するクリーチャーを狙い撃つ――銃弾は硬質の胴体にはじき返された。ライフルで撃たれたことにすら気づかぬまま、クリーチャーは亜人たちを片端から虐殺している。
白い虎の一族は刻々と殺されていく。
崖の上まで悲鳴が届く。
防塵マントを激しくたなびかせ、イクは崖を駆け下りた。
イクが集落に駆けつけると、辺り一面におびただしい数の死体が転がっていた。
不気味な静寂が漂っている。
死体はいずれも苦悶の表情を浮かべた最期を遂げている。
ほとんどの者は殺され、生き延びた少数の者は村から逃げ出していた。
白い虎の一族。その集落は残酷なまでに壊滅していた。
石を砕いたり木をへし折る音が遠くから聞こえてくる。
サソリ型クリーチャーが死体を踏みつけながら家屋を破壊して回っている。
「薬物が浸透しなかったのか? だとしても、クリーチャーの戦闘能力まで強化されるのは不可解だ。どうなっている。どこで間違ったんだ」
イクは一縷の望みをかけて生き残りをさがす。
矢倉の下でもぞもぞと動く者を発見し、イクは駆け寄った。
十五歳前後だろうか。イクが抱きかかえているのは彼と同じ年頃くらいの少女。白い虎の一族の証として、白い髪に白い獣の耳を生やしている。
「おい、しっかりするんだ!」
いくら揺さぶっても少女は反応せず、目を閉ざして呼吸を荒らげている。
サソリ型クリーチャーが二人の存在を認識し、死体と瓦礫を蹴散らしながら猛然と迫りくる。少女を抱きかかえるイクは真横に飛び退いて、間一髪のところで突貫を回避した。今の俊敏な動作を目の当たりにして、逃げようという考えを頭の中から即座に消した。
腰の拳銃を抜いて、引き金を引く寸前で思いとどまる。
クリーチャーは外敵からの攻撃に反応して毒素を噴霧する。ヘタに攻撃したところで状況が悪化するだけなのは明らか。
クリーチャーを倒すには、一撃で仕留めなければならない。
イクは拳銃を捨て、右腕に巻かれた布をほどいた。
素肌を晒した右腕を真上に掲げる。
掲げられた右手の甲には、呪詛めいた邪悪な紋様が黒く浮かんでいた。
呪いの印から白い光が発せられる。
白い光として視認できるほどの膨大な魔力が荒々しき奔流となり、イクの身体から天空にほとばしる。奔流は強い風を巻き起こし、辺りの瓦礫を巻き上げていく。
おびただしい魔力の噴出に圧され、クリーチャーの動きが封じられる。
「呪いの印よ。俺の命を喰らうなら、対価としてその力を貸してくれ」
まばゆき光が視界を白に染める。
世界が白に包まれた瞬間、イクは光放つ右腕を斜めに振り下ろした。
振り下ろした腕の軌跡に沿って魔力の刃『エーテルエッジ』が生じ、疾走する。
サソリ型クリーチャーは一閃の下に両断され、毒素を噴霧する間もなく絶命した。
疾走したエーテルエッジは地面に一直線の傷跡を深く残していた。直線状に重なっていたクリーチャーは両断され、更に奥の家屋は木っ端微塵に吹き飛んでいた。
イクは右腕を押さえながらしゃがみこむ。
焼けるような右腕の痛みを、歯を食いしばってこらえる。
視界が霞む。
「俺の命は……あとどれだけ残っているんだ」
あえぎながら右手の甲に目をやる。
呪いの印を中心にして、腕全体に伸びていく黒い筋。
先ほどまで四本延びていたそれが、五本に増えている。
死の瞬間は刻々と迫っている。
イクの額から冷や汗が垂れた。
背後から無数の足音が聞こえる。振り返ったイクは驚愕した。
銃剣で武装した大勢の人間たちがこちらに迫ってきている。
少女を抱きしめながら身構えるイクに目もくれず、彼らは白い虎の一族の集落、その奥地になだれ込んでいった。
片目を髪で覆った妙齢の女性が、しゃがみこんで唖然とするイクを見下ろしている。
「白い虎の一族が占有している薬草の群生地、これで奪取できました」
彼の知る情報と彼女が告げるそれの齟齬に、イクは眉をひそめる。
「半人半獣の亜人『ミュータント』と正面切って戦えば、銃器を持つ我々といえど勝ち目はありません。あなたは凶暴化の薬品をクリーチャーに投与するばかりか、暴走した後の処分までこなしてくれました。報酬は上乗せします」
感情を消した声で淡々と、事務的に、その人間の女性は告げていく。
隊商を襲うなど、まったくのデタラメ。真の目的はここの土地そのもの。
まんまと騙され、いいように使われてしまった。
合点がいったイクは握り締めた拳で、怒りに任せて地面を殴る。
今回の作戦の報酬だろう。女性は手のひらほどの小箱をイクの前に放り投げる。
イクは殴りかかりたい衝動を抑え、小箱をひったくった。
「捕獲したミュータントは我々が引き受けます。この分も報酬は上乗せしましょう」
「断る。お前たちには渡さない」
即答し、腕の中の少女を強く抱きしめる。
片目の女性は冷たい表情のまま少女を一瞥してから「わかりました」と首肯した。
「呪いを抑制する薬、本物だろうな」
「実験済みです」
片目の女性が踵を返す。
「我ら『氷雷会』はあなたを高く評価しています。今後とも長い付き合いになるでしょう。上乗せ分の報酬は後ほど部下の者に手配します。次の任務も期待しています。薬がなければ呪いに蝕まれて死ぬ運命だということ、ゆめ忘れぬように」
脅しのつもりか、マフィアどもめ。
イクは歯軋りした。
片目の女性が去って静けさが舞い戻る。
イクはミュータントの少女を地面に横たえさせる。
左脚、膝から下が紫色に変色している。傷口から毒素が入ったのだろう。放っておけば毒素はやがて全身に及び、少女は周囲に転がる死体の一員に加わる。
腰に吊るした鞘から太刀を抜く。
すまない。
太刀を振り上げ、そう口ずさむ。
イクは少女の左脚に太刀を振り下ろした。