『掌の雫』
「あのおじいさん、またいる……」
今僕らが歩いている並木道の、ほんの少し先にある横断歩道の向こう側。此処から対岸まではそう遠くない。登校と下校の際、必ず通る道。
僕は不思議に思っていた。朝の、それも八時三十分頃に毎日出没するあのおじいさん。彼の意図が読めない。ただ佇んでいるだけで、とかく何かをしているというわけじゃない。そのような人間に限って気になるものなんだ。青山は「ボケてるだけだぜ」って言っていたけど、僕はそう思わない。
「桑原、あんなの別にどうだっていいだろ?早くしないと遅刻するぜ?」
「憐れな青山は気にしないで生きればいいよ。僕は彼が気になるんだ。どうしても正体を突き止めなければならない。それにさ、あのおじいさんに限ったことじゃない。この街を誰よりも愛するこの僕が、街に関することで知らないことがあってはだめなんだ」
青山は桑原がまだ小学生だった時に、地方からやって来た転校生だ。何と言ったら良いのだろうか?地域愛?そういったものが理解できないのも無理はなかった。
「第169問、この街で、最も烏龍茶が安いスーパーは?」
「またそれか。遅刻するって」
「新参者はこれだから嫌だ」
「そこまで言うほどお前も生きてないだろ?13の癖して」
「仕方ない。下校までに考えておくように、以上」
気付けば、横断歩道を通り過ぎていた。あのおじいさんが小さく見える。
おじいさんも含め、格別変わったことはなかった。昨日も一昨日もそこにあった景色。
呆れた顔を此方に向ける青山を尻目に桑原は駆け出していた。
「おい、またかよ。卑怯者」
抜け駆けはお手のものだった。昔から足だけは早い。これくらい取り柄があって当たり前だと思っている。この世には何でもできる奴だっているんだから。
それに、青山に頭で勝てるはずはなかった。せいぜい遅刻でもして怒られればいいんだ。
途端に笑いが込み上げてきた。今頃、青ざめているに違いない。優等生のあいつにとって2日連続遅刻は、プライドが許さないはずだ。
後ろを振り返る。懸命に走る青山の姿があった。でもあれでは間に合わない。
「終わったな、青山」
そう言うと再び、桑原は前を向いた。
さて、そろそろ本気を出しますか。僕まで遅刻しかねない。とは言っても、実際、遅刻数なんて裕に20は数えているし、今更痛くも痒くもないんだけど。
突き放していく。青山は小さくなり、やがてすっかり見えなくなった。
一週間なんてあっという間だった。半透明の視界の片隅、あいつの机。菊の花は青山には不似合いだった。 誰かが言った。
「事故か。あっけないよね、人の命ってさ」
置き去りにした寂しげな魂はもう還って来ない。あの瞬間、あいつの脳裏に過ぎったものは何?
「裏切られた」
容易に想像がつく。道連れさえも無くした絶望。
追いかけ、いずれたどり着くという限りなく百に近いパーセンテージ。僕は数字を確信していた。
先生、数少ない友達。みんな上辺だけの同情をくれた。そんなもの誰が欲しいと言った?余計なことはしないでもらいたかった。とりあえず僕のことを思うなら視界から消えてくれ、邪魔だ。
危うい霧の中に映し出す机とその先にある霞みがかったあいつの笑顔。ドラマなんて全て虚構。僕に潜在する絶対神話が崩れた。
「ざまあみろ」
あいつに投げかけたかった言葉。喉の奥に詰まっていた言葉。もう共有なんかできない。自分のものだった。自分に向けて反復するしかなかった。
クラスの奴。哀れな、と言わんばかりだった。眼でわかる。
僕はクラスを抜け出すことにした。
「先生、お腹痛いです。保健室行ってきます」
「今日は先生、いないよ」
先生はそっけなく答える。
「いますよ」
先生も、あの眼に変わった。はっきり読み取れる。
「あの日は確かにいらっしゃいました」
桑原の気持ちは何故か晴れやかだった。
保健室が見る間に遠ざかる。当たり前だ、逆の方向、向かうは校門なのだから。
下校ルートを一目散。途中ぶつかったおばさんにもうるさいから「邪魔」で一蹴。流石に後で考えてみると、「悪いことをしたかも」とは思った。確か武内さんだったかな?うん、間違いない。
「君は何処へ行くつもりなんだね?」
「あ……」
あのおじいさんに他ならなかった。気付けば、横断歩道まで来てしまっていた。
「あの」
「なんだね?」
見れば、いかにも優しげな白髪の老人。骨が浮き出るほどの華奢な身体。土に還りたがっている、そう言っているようにも思えた。ただの悲鳴かも知れない。背筋は異様な程、伸びている。歳は60前半といったところだろうか。
「何かご用でも?」
「探し物かね?今の今まで必死な形相だったよ、君は。でも本来の顔に戻ったようだ。落ち着いたかい?」
「あ……はい」
このおじいさんは不思議な魔力を持っていた。ありふれた光景、しかし代えが効かない大事なピースを無くした光景。その中でずっと変わらない唯一のピース。
「で、見つかりそうかね?私も探してあげようか?」
「違います。探し物では……ありません」
心底、申し訳ないと思った。それは事実だ。
「いいや、探し物だ。君は彼を探しに来たのだろう?」
返す言葉がなかった。おじいさんは全て知っている。僕ですらわからない僕の行動の意図を、目的を。
「何、恥ずかしがることはない。実は、私も探し物をしていてね……もう何年になるかな?これがなかなか見つからないんだ。困ったものだよ」
憚りを知らなかったわけじゃない。でも、話して良い気がした。
「はい、貴方のおっしゃるように、やっぱり探し物でした。でも、当分見つかりそうにありません。どうしたらいいのか」
「それは奇遇だね。つまり、君と私とは同じ人種ということか」
おじいさんとはそれからも何度か会い、他愛の無い話をした。狭い、極端にローカルな話。それでも楽しかった。
でも互いに名乗ることはなかった。
ずっと君と貴方は変わらなかった。
「貴方は何を探していらっしゃるのですか?」
「私は私を探しに来たんだ」
柔らかな笑顔を向ける彼からは哀愁が滲み出ていた。
僕は当然、意味がさっぱりわからない。たまらず尋ねることにした。
「貴方なら此処にいますが」
「私は死人としての私を訪ねに来るんだよ、毎朝。私じゃないんだ。そして、トメにも会いに来る」
おじいさんは他人の話をしているようだった。眼が虚ろだった。つかの間、輝きを失ったその眼を僕は見逃さなかった。
「トメ……さん?」
「妻だ。少し遠くへ行ってしまったがね」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。僕自身、傷のなめ合いは性に合わないとわかっていたし、おじいさんにもその気はなさそうだった。
「君の探し物とは、あの事故のことだね。そうだろう?当日も此処にいたからわかるよ」
「はい」
君と貴方の関係の中では、それだけで事足りた。奇妙な信頼関係が構築されていたように思う。しばらくの沈黙の後、おじいさん自らその静寂を破った。
「人と人との絆はおおよそ掌に掬った水と同じだと私は思う。いとも容易く掬い上げられた水の大半は、数秒も経てば指の合間を縫って滴り落ちる。大切なものは存外、簡単に生まれ、そして消えて行く。それは儚い夢のようでもある」
「でも僅かには残るじゃないですか、その大切なものが」
置いていかれたような気持ち、裏切られたという行き場のない感情が僕を襲っていた。懸命におじいさんに抵抗する。
「確かに雫というべきものは存在する。だからもうすぐ、その雫を頼りに旅立とうかと思っているんだ」
僕はおじいさんの前に成す術も無かった。振り絞ってようやく出てきた言葉が「それでも僕にはわかりません」だった。情けなさで一杯だった。
「最近トメがうるさくてね。早く来いというんだ。いい気なものだよ。こっちは行きたくても行けなかったというのに……」
「貴方はまだ死ぬような人ではありません」
嘘だった。初めて会った日から思っていた。強がっただけだ。
「死ぬ?それは、違うね。これから、身体も向こうに行く。ただそれだけだよ。君は私を何歳だと思うかね?」
おじいさんの眼は異様な光を放っていた。弱弱しい体からは想像もつかないほどの力強さを持っていた。
「六十は超えていらっしゃると思います」
おじいさんの眼が大きく見開かれた。その驚き様は、僕があたかもその場に突如出現した怪獣であるかのようだった。
「そうかね……やはりか。実は私は36なのだよ。あの時、私はトメと一緒に死んだ」
「聞いて欲しくありませんよね?」
何を指したものかまで、おじいさんに言う必要なんてなかった。
「ああ。君は知っているね?失った後に、それが二度と戻ってこないもの、失ってはいけないものだった、と気づくものがこの世には何と多いことか。だが、無くし物とは得てしてそういうものだ。そうだろう?」
僕は「わかりません」としか言えないロボットのようだった。単調に「わかりません」を繰り返す。
「いずれわかる。きっと、年月が君を成長させるだろう。見届けられないのが残念だが、まあ、それも運命に違いない。また君には会える、そう『わし』は信じている」
はっきり『わし』と聞き取れた。それが意味するところは僕だけが知る。
差し出された皺だらけの手を呆然と見つめる。握手を求められたとわかったのは、おじいさんが手を引いた後だった。
おじいさんが向きを変えた。おじいさんの「立ち去る」ことそのものが、僕には背信行為にさえ思えた。
僕は信じることにした。おじいさんや青山との再会を。雫の存在を。(完)
処女作です。お読みいただければ幸いです。