第1話 あなたは、敵だった
戦場の端で、ヒルダは自分の鼓動が遠ざかっていくのを感じていた。
胸の奥で何かが潰れたまま戻らない。
左腕は感覚がなく、右脚は骨が露出していた。
魔族の回復魔法では、ここまでの損傷はどうにもならない。
(……死ぬのか、私)
そう思った瞬間、
彼女は地面に倒れ込んだ。
土の匂いと、血の鉄臭さ。
耳の奥で、遠くの爆音がまだ響いている。
意識が途切れる直前、
ヒルダはただ一つの願いを抱いた。
(せめて……村の近くまで……)
家族でも恋人でもない。
ただ、知らない誰かの手でもいい。
死体を拾って、土に埋めてほしかった。
魔族の死体は、人間にとっては“素材”だ。
魔石、角、爪、皮膚。
生きている時より、死んだ後の方が価値がある。
そんな死に方だけは嫌だった。
気がつくと、ヒルダは誰かに抱えられていた。
視界が揺れる。
村の門が見える。
魔族の子どもたちが泣きながら走ってくる。
「誰か! 誰か来てくれ!」
叫び声が遠くで響く。
ヒルダは薄く目を開けた。
その瞬間、
彼女の視界に“ありえないもの”が映った。
白いローブ。
人間の紋章。
淡い光を放つ治癒魔法。
(……人間……?)
魔族の村の中心で、
人間の白魔導士が、
魔族の子どもに治癒魔法をかけていた。
その光は、
ヒルダが知るどんな魔法よりも優しかった。
「……なんで……人間が……」
ヒルダはかすれた声で呟いた。
白魔導士は振り向いた。
中年の男。
光を失った目。
しかしその手は、驚くほど静かだった。
「動くな。出血がひどい」
「近づくな……殺す……」
ヒルダは震える腕で剣を抜こうとした。
だが、力が入らない。
白魔導士は淡々と言った。
「自ら命を粗末にするなら、治療はいらないな」
挑発でも皮肉でもない。
ただの事実として言っている。
ヒルダは歯を食いしばった。
「……なんで……ここに……」
代わりに答えたのは、村の老人だった。
「この方は……わしらを治してくれたんじゃ。
人間じゃが、悪い人ではない」
「治す……? 魔族を……?」
ヒルダは信じられなかった。
人間は魔族を殺す。
魔族は人間を殺す。
それが戦争だ。
治すなんて、ありえない。
白魔導士はヒルダの傷を見て、短く息を吐いた。
「放っておけば死ぬ。治すぞ」
「……変なことをすれば……お前の家族を殺す……」
その言葉に、白魔導士は手を止めた。
そして、静かに言った。
「……もう妻も息子も、お前たちに殺されたよ」
ヒルダは息を呑んだ。
その声には怒りも憎しみもなかった。
ただ、諦めだけがあった。
白魔導士――サミエルは、
再び手を動かし始めた。
「だからもう、失うものはない。
治すことだけが、俺に残った最後の証だ」
ヒルダは何も言えなかった。
サミエルの魔法が光り、
彼女の裂けた肉がゆっくりと閉じていく。
魔族の魔法ではありえない再生速度。
痛みが引き、温かさが広がる。
ヒルダは震えた。
(……こんな魔法……知らない……)
サミエルは淡々と治療を続ける。
「動くな。まだ終わっていない」
ヒルダは目を閉じた。
敵に治されている。
それなのに、
その手は誰よりも優しかった。
治療が終わる頃、
ヒルダは涙を流していた。
自分でも理由が分からなかった。
サミエルは立ち上がり、
血のついた手を布で拭きながら言った。
「次の村に行く。どこに行っても怪我人だらけだ」
ヒルダは思わず手を伸ばした。
「待て……!
ここは魔族領だ……お前はいずれ殺されるぞ……!」
サミエルは振り返らない。
「構わない。
俺はただ……怪我人を治したいだけだ」
その背中は、
戦場のどんな兵士よりも孤独だった。
ヒルダは立ち上がった。
「……私も共に行く。
お前を……殺させない」
サミエルは少しだけ振り返り、
ほんのわずかに、目を細めた。
「好きにしろ」
二人の旅が始まった。
魔族と人間。
敵同士。
しかし、
“治す”という一点だけで繋がった旅だった。




