第9話 プロのテニス選手
チャイムが鳴り、アパートのドアが開いた。
入ってきたのは、体格のいい、がっしりした男性だった。
テニス選手だとは聞いていた。
だが、実際に目の前にすると、なるほどと納得する。
太腿と臀部はよく鍛えられ、ふくらはぎは硬く締まっている。
地面を蹴るための筋肉が、無駄なく残されている感じだ。
肩や腕は過剰に太いわけではないが、動かすことを前提に作られたつき方をしている。
特に右の前腕だけがアンバランスに発達していて、ラケットを握り続けてきた時間が、そのまま形になって残っていた。
――プロになると、身体はここまで競技に最適化されるのか。
「どうも、初めまして! 日野です」
「山本です! 聞いてはいましたが……お若いんですね」
言葉遣いは丁寧だが、その視線にはどこか探るような色がある。
本当に、この若さで自分の身体を任せて大丈夫なのか。
そんな問いが、その態度の端々に滲んでいた。
整形外科に通い、注射も何度か受けたが良くならなかったらしい。
話を聞く限り、医者の説明も治療も一通りは受けてきたようだ。
それでも治らなかった――その経緯が、今の慎重さにつながっているのだろう。
俺は彼の右肩に軽く手を添えたまま、いくつか動作をしてもらう。
腕を上げる。捻る。止める。
同じ動きを何度か繰り返すたびに、ほんの一瞬、表情が歪む。
俺はそれを黙って見てから、小さく一つ頷いた。
「整形外科では、肩峰下インピンジメント症候群って言われませんでしたか?」
山本さんが驚いた顔でこちらを見る。
この人と、ここで初めてしっかり目が合った気がした。
「なんでそれを!?
整形外科でも何回も通って、検査して、ようやく告げられた症状名なのに」
――まぁ、見れば分かりますけど。
そう心の中で答えながら、俺は表向きには穏やかに説明を続ける。
「肩の骨の一部に、少し特徴があるんです。
肩峰っていう部分なんですが、形にいくつかタイプがあって」
専門書を開き、図を指さす。
「あなたはこのⅢ型、フック型ですね。
先端が少し下向きに曲がっていて、動かすたびに腱板とぶつかりやすい」
骨の形のせいで、腱や周囲の組織に慢性的な炎症が起きやすい。
それだけじゃない。
一時期、かなり強い石灰化も起きていたはずだ。
その影響で、腱が骨に挟まれる状態が慢性化している。
「サーブみたいに、頭の上で腕を振り抜く動作は、この症状を一番悪化させやすいんです」
皮肉なことに――
彼の肩は、最も愛してきたテニスという競技に、決して向いてはいなかった。
ちなみに、「あなたの病気は◯◯です」と断言するのは医行為だ。
医師や歯科医師にしか許されていない。
だから俺は、いつもは病名を口にしない。
だが、事前に医師の診断を受けている場合は、こういう聞き方で誤魔化すことができる。
とりあえず、対処療法として、座った彼の右肩に鍼を打つ。
ローテーターカフ――肩の回転軸を支える筋肉群のうち、棘上筋と棘下筋がターゲットだ。
ここを弛緩させて、肩峰周囲に少しでもスペースを作る。
鍼を刺した瞬間、山本さんがビクッと震えた。
「刺された瞬間、痛みと……すごい衝撃が来ました」
「かなり固まってましたからね」
いくつかの筋肉の萎縮を丁寧に緩める。
これで、対処療法としては十分だろう。
山本さんは立ち上がり、腕を大きく回し始めた。
「こんなに腕が回るの、いつ以来だろう。
肩を庇うフォームで、なんとか生き延びてきましたけど……若い頃みたいだ」
入ってきた時のクールな雰囲気はどこへやら、「ありがとう! 先生!」と、まるで別人のように喜んでいる。
「でもこれ、実は対症療法なんです。後はどこまで本気で治すか、ですね」
「……と、いいますと?」
「この治療では、根本原因は解決していません」
骨の形が原因なので、鍼では治せない。
また時間が経てば石灰化し、数ヶ月かけて落ち着く。
その間に肩周りの筋肉が萎縮し、可動域が下がる。
専門書の図を使いながら、三十分ほどかけて説明する。
話を聞き終えた山本さんは、感極まったように俺の手を握った。
「こんなに詳しく説明してもらえたの、初めてです」
「整形外科の先生も、分かってはいたと思います。ただ、保険診療の時間枠だと、どうしても説明しきれないんでしょうね」
「先生に、もっと若い頃に出会いたかったです……」
俺はこの後の予定もなく、時間だけはある。
なので、根本的に解決する方法についても説明した。
先天的な骨形状の問題なので、削るしかない。
ただし、それは簡単な話じゃない。
骨を削る手術は、身体全体のバランスを変える。
技術は進歩し、患者の負担は昔よりずっと減ったが、それでもダウンタイムは長い。
プロレベルの選手にとっては致命的になりかねない。
昔は皮膚を大きく切り、僧帽筋を切開してアクセスしていた。
今は生理食塩水で筋肉の下を膨らませ、小さな穴から内視鏡で行う。
内視鏡手術――これを考えた人は、本当に天才だと思う。
それらを踏まえた上で、俺は伝えた。
三十二歳という年齢を考えると、無理にリスクを取る必要はないのではないか、と。
「テニストレーナーとして続けるなら、今の状態を維持する方が現実的です」
こまめにエコーで石灰化をチェックし、都度対処する。
それが一番だろう。
「整形外科で診てもらってもいいですし、僕のところに来てもらっても構いません」
そう言うと、山本さんは何度も頭を下げて帰っていった。
お会計は一万二千円。
今月の赤字が、ほんの少しだけ減った。
良い患者さんを紹介してもらえた。
莉子さんには感謝しかない。
一生懸命にスポーツに打ち込んできた人を救えるのは、やはり嬉しい。
肩こりのような一般的な症状を治すことも大事だ。
だが――
この天からもらった能力は、こういう場所でこそ使いたい。
スポーツ障害には、決まった答えがない。
一人一人の身体に合わせた最適解を探す、その過程こそが面白い。
駅まで歩いて行く山本さんの背中が見えなくなっても、
俺はしばらく、道行く筋肉の塊を眺めながら、静かに感情に浸っていた。




