第8話 剣道とネコ
アパートに帰り、押し入れの奥から久しぶりに防具を引きずり出した。
剣道部の話を聞いてから、頭の片隅にずっと引っかかっていた。
布袋の口を開いた瞬間、懐かしい匂いが鼻を突く。汗と革と、少しの金属の匂い。
この匂いを嗅ぐと、自然と身体が当時の感覚を思い出す。
面を手に取る。布団の上に置いたそれは、初心者用ではなく競技に特化した軽量タイプ。
面金は歪みがなく、細かく調整した跡が残っている。
衝撃を受ける前提で作られた、実戦用の防具だ。
勝つことを前提に選んだ道具だった。
愛猫のファシアが「何してるのー?」という顔で近づいてきた。
床に広げた防具の匂いを嗅いだ瞬間、嫌そうな鳴き声をあげて逃げ去っていく。
失礼な。
まぁ、剣道の防具はどれだけケアしていても、どうしても匂いが残る。
猫の嗅覚は人よりもかなり鋭い。嫌がるのも当然だろう。
一度つけてみる。
紐は劣化してカサカサだ。全交換しないといけないな。
面をつけてみる。懐かしい。
確かに、少し嫌な匂いがする。
高校を卒業してから三年。
時間は、想像以上に正直だった。防具は少し小さくなっている。
これは新しいのを買った方がいいな。面はフィット感が命だ。
防具一式も、たぶん買い替えになるだろう。
俺が使っていた防具は、長く使うためのものではない。
高校時代は結構なガチ勢だったので、競技用の超軽量モデルを使っていた。
普通の剣道用防具と違って、これはほとんど仕立て直す余地がない。
だから長く使い回すものではない。
そのくせ、二十万くらいする高級品なんだけど。
少し迷ったが、今すぐ買い替えるわけにもいかない。
注文してすぐ届くものでもないし、少し窮屈だが、これでしばらくは練習しよう。
用具をバッグに詰め終え、区切りがついたところで、ベッドに寝転んだ。
スマホを眺めていると、仕事部屋に避難していたファシアが戻ってくる。
スマホと俺の間に割り込んできて、俺の顔の匂いを熱心に嗅いでいる。
どうやら及第点をもらえたようだ。
何が楽しいのか、俺の顔を間近で眺めている。
スマホが見れなくて非常に邪魔だ。
横にどかすが、すぐに戻ってきて強制睨めっこ状態になる。
全く何が面白いんだか。
猫というのは、飼い主の作業を邪魔するのが生きがいだったりするんだろうか。
そのうち、根負けしたのか、俺の横でコテンと仰向けになり、
マッサージ待ちの姿勢になり始めた。
「あら、マッサージして欲しいの。モミモミしてあげようねー」
「ニャ♪」
体の隅々まで眺める。
今日は特に異常はないようだ。
これは健康チェックでもある。
猫はどうしても内臓に異常が出やすい。
毎日のマッサージのときに、異常がないか確認している。
特にリンパのむくみは重要だ。
リンパが運ぶ排泄物、それを処理する腎臓。
このあたりは猫が一番持病を抱えやすい場所だからな。
脊柱の横だけを軽くグリグリする。
ネコのマッサージは、強く押すのは厳禁だ。
この子はかなり短毛で触り心地が良い。
毛もほとんど落ちないし、あまり鳴かないので非常に飼いやすい。
「……」
見ると、ファシアは俺のベッドで爆睡していた。
起こさないように足音を消し、アパートの隣の部屋、仕事場へ行く。
今日は珍しく、仕事の予約が入っている。
事務机に向かい、作業を始める。
実はこの鍼灸院を開いてから一ヶ月、
労働のほとんどは行政関係の手続きと税務処理だったりする。
特に税金は難しい。
クラウドツールで帳簿を作っているが、
税理士に頼んだ方がいいかもしれない。
高校でも専門学校でも、こういったことは教えてもらえなかった。
お世話になっている整骨院の院長に手伝ってもらえなければ、開業なんて夢のまた夢だっただろう。
医学部の六年間、
鍼灸師としてのキャリアを無駄にはしたくなかった。
そんな願いに応えてくれた院長には、感謝している。
キーボードの音で起きたのか、
ファシアが壁の穴から寝ぼけ顔を出した。
「ファシアちゃん、起こしちゃったね。あとでご飯あげるね」
「ニャン……」
ノソノソと机の上に乗ってくる。
彼女を片手で撫でながら、次のお客さんの事前調査を進める。
今日は記念すべき、
ちゃんとした一人目の客が予約してくれている。
常連の莉子さんが、スポーツ選手の知り合いを紹介してくれたのだ。
何度かアプローチしてくれていたらしいが、開業したての新人ではさすがに……と断られていたという。
ただ、「心筋梗塞を見抜く神業鍼師」という肩書きのおかげで、ようやく首を縦に振ったらしい。
あまりテニスには詳しくないので調べてみた。
チャレンジャーという階級で世界に挑戦していたプロだという。
三十二歳。
今はテニスだけでは食べていけず、国内大会に出ながら、コーチ業を兼業しているようだ。
仕事場奥の作業室で、ファシアと戯れながらそのあたりを調べる。
モニターの前は、いつの間にかファシアの定位置になっていた。
クソ邪魔な位置に陣取って、たまに背伸びしては、俺の作業を正確に邪魔してくる。
「こら、ファシアちゃん。キーボードの上には乗らないで!」
「ニャッ!」
その拍子に、電子カルテの名前が
「山本 直rrrrrrrrrrrr nnnnnn登」
というとんでもない表記になってしまった。
どうやって修正するんだろう。
俺はあまりパソコンに詳しくないので困ってしまう。
……まぁ、俺以外は見ないし、直さなくてもいいか。
悪さをする愛猫を捕まえて、膝の上に置く。
簡易マッサージをすると、ファシアはフニャフニャになってしばらく動かなくなる。
それにしても、テニスで世界に挑戦するってすごい。
世界ランキング最高三百位。
膨大な人数が競技している中で三百位。
この人は、俺の想像を遥かに超える実力者なんだろう。
主訴は慢性的な肩の痛み。
そのあたりの障害を復習していると、予約の時間になったらしい。
入り口のチャイムが鳴った。
「ニャン!」
ファシアが興奮して、俺の膝から飛び降りる。
施術室のドアを引っ掻きながら、「開けてー」とでも言いたげな目でこちらを見る。
施術室へ続くドアは、基本的に閉めている。
動物が苦手なお客さんもいるからだ。
ファシアを持ち上げ、壁の穴の向こうへ追い出す。
穴の前に物を置いて塞ぐと、向こうから不満そうな唸り声が聞こえた。
気持ちを切り替え、施術室へ向かう。
ここは普通のアパートの一室だ。
チャイムが鳴るたびに鍵を開けに行く仕組みで、
表札は出しているが、決して入りやすい店ではない。
だからこそ、口コミは何より大事だ。
お客さん一人一人を大切にしないといけない。
笑顔を顔に貼り付け、俺は一つ息を吸って、ドアを開けた。




