第7話 通学
生暖かい感触で目を覚ますと、飼い猫のファシアが俺の顔をぺろぺろと舐めていた。
夢から覚めたはずなのに、胸の奥がざわついている。心臓の鼓動が、ほんの少しだけ早い。
現実に戻ったと頭では理解していても、身体のどこかがまだ、あの日に引き戻されている気がした。
中学の頃の夢を見ていたらしい。あの記憶は、油断すると簡単に蘇る。
ファシアは、うなされている俺を起こしてくれたのだろう。
本当に、優しい猫だ。
「ありがとう、ファシアちゃん」
「……」
礼を言うと、彼女はなぜか慌ててキャットタワーに駆け上がり、そっぽを向いたままこちらをチラチラと窺っている。
このツンデレ猫の思考回路はいまだによく分からない。
この部屋にいる間だけは、世界は静かだ。
誰の筋肉も、誰の内臓も、意識しなくていい。
能力の制御には、ようやく慣れてきた。
それでも、筋肉だらけの視界は精神的に決して優しくない。
だからこそ、外に出る前のこの時間が必要なのだと思う。
「ファシアちゃん、降りておいで」
「ニャ……」
朝ごはんはいらないのだろうか。
呼びかけても、尻尾を揺らすだけで動かない。
悪戯心から、ファシアの朝食を用意せず、俺だけ食パンにジャムを塗って食べ始める。
すると案の定、慌ててキャットタワーから降りてきて、足に体を擦りつけながら甘えた声を出した。
……可愛い。
結局、皿を用意して朝ごはんを出してやる。
例の心筋梗塞の患者さんからお礼として貰った、高級キャットフードだ。沼津という町の漁港で水揚げされた天然鯛を原料にした贅沢なウェットフードらしい。
このキャットフードは高いだけあって食いつきは抜群だった。
食後に軽くマッサージをしてやり、俺は小さなリュックを背負って家を出た。
平日は通学がある。どうしても長時間、留守番をさせてしまう。
外に出ると、空気が一変する。
道沿いに並ぶのは、居酒屋、居酒屋、居酒屋。
最寄り駅の十三は、関西有数の飲屋街だ。
梅田に近く、東京で言えば赤羽のような立ち位置だろう。
もともとは、鍼灸の専門学校に通うために選んだ街だった。
だがいつの間にか、顔見知りの店が増え、挨拶を交わす人もできた。
今ではこの雑多な空気が、妙に落ち着く。
俺の通う大学は、そこから京都方面へ二十分ほど電車に乗った高槻市駅から徒歩数分の場所にある。
駅を出ると、まず目に入るのは立派な附属病院。
これが北摂医科大学だ。
もっとも、一年生の俺が用事があるのは、その奥の講義棟だけだけど。
◇◇◇◇◇◇◇◇
入学から一か月。
念願の医学の勉強をしているかといえば、正直そこまででもない。
低学年は教養科目が中心だ。
第二外国語、生物学、物理学。一般の大学と大差ない。
本格的に医学らしくなるのは、三回生以降だろう。
三年間、必死に勉強してなんとか入った医学部だ。俺は決して頭がいい方じゃない。
授業についていくだけで精一杯だ。
同級生の地頭の良さに、日々感心している。
頭を使う毎日は嫌いじゃない。
ただ、身体を動かさない生活が続くと、どこか調子が狂う。
そんなとき、掲示板のチラシが目に入った。
「剣道部部員大募集!! 初心者大歓迎
入部希望者は毎週火・木曜日 17時〜 第四七講義室まで!」
高校時代、かなり本気で打ち込んでいた剣道。
三年のブランクはあるが、再開するのも悪くないかもしれない。
医学部一年は意外と暇だ。同級生の殆どはバイトをしてたりする。
平日開業の鍼灸院も、客はほとんど来ない。
常連の莉子さん専用サービスになっているのが実情だ。
完全自費診療では、整骨院との価格競争には勝てない。
だから俺は、比較的暇だ。
暇だから、剣道部に入ってみることにした。
――いずれ、自分ももっと忙しくなる。
今はまだ想像でしかないが、その未来は確実に近づいている。
それまで体を鈍らせないように。
そう自分に言い聞かせながら、俺は教室の扉を開けた。
教室の中は、思っていたよりも静かだった。
前列の机に、男子学生が一人だけ座っている。
いや、正確には――座っているというより、突っ伏している。完全に寝ていた。
他には誰もいない。
剣道部の部室というより、空き教室に近い雰囲気だ。
……足の筋肉が、やけに張っている。
無意識に、そんなことを考えてしまう。
太腿からふくらはぎにかけての張り方が尋常じゃない。走り回った後だろうか。
――いかんいかん。
誰彼構わず筋肉を診察してしまうのは、俺の悪い癖だ。
せっかく最近は、人の顔も自然に見られるようになったんだから。
黒髪で、どこか疲れた雰囲気の横顔。
年上なのは一目で分かるが、医学生特有の堅さはあまり感じない。
スマホを取り出し、十分ほど時間を潰す。
それでも起きる気配はない。
仕方なく、俺はそっと肩を叩いた。
先輩は、しばらく虚空を見つめたあと、はっとしたように顔を上げる。
「……あ、ごめん!」
少し遅れて、状況を把握したらしい。
「剣道部の入部希望?
今日はミーティングなくて、一人当番なんだけど……寝ちゃっててさ」
苦笑しながら頭を掻く。
その動きで、脚の張りがますます目立った。
「いえ、大丈夫です」
そう答えると、先輩はほっとしたように息を吐いた。
「助かるよ。実は今日、昼過ぎまで病院実習でさ。
ずっと病棟走り回ってたんだ」
なるほど。
通りで、あれだけ脚が張っているわけだ。
医学部の上級生は、想像以上に忙しい。話には聞いていたが、実際に目の前にすると実感が湧く。
「僕は日下部。五年生。よろしくね」
「日野です。よろしくお願いします」
軽く頭を下げる。
高校で剣道をやっていたこと、三年ほどブランクがあることを簡単に伝えると、日下部先輩は少し目を見開いた。
「へぇ、それなら即戦力じゃん。
医学部の剣道部、経験者少ないから助かるよ」
即戦力、という言葉に、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「道具はどれくらい持ってる?」
「一通りあります。竹刀と、面紐と胴紐を買い直せば大丈夫です」
「十分十分」
先輩はうなずいてから、少し間を置いて続けた。
「ちょうど今週の日曜、他大学と合同練習があるんだ。
いきなりだけど、参加してみない?」
他大学。
少し意外だったが、嫌な感じはしなかった。
「場所は阪大の豊中キャンパス」
一瞬、言葉に詰まる。
――阪大、俺の第一志望だった大学だ。
受験のことを思い出さないわけじゃない。
でも、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「道具の関係で、ここに集合して車で行くけど」
「……ぜひ、参加させてください」
そう答えると、日下部先輩は嬉しそうに笑った。
「よし。じゃあ決まりだね」
教室を出ると、外はもう夕方の空気だった。
白衣姿の学生や、昼勤の看護師の人たちが行き交っている。
早く帰って愛猫に餌をあげなければ。俺は帰路を急ぐのであった。




