第54話 日本最強の男
俺は体育館の真ん中で蹲踞の体勢のまま、相手と相対していた。足先に体重を乗せて、息を整える。面金の内側に、汗が一筋落ちた。
竹刀を構える。
関西学生剣道選手権大会の個人戦、四回戦。
俺は去年の雪辱を果たす。
全国に行けずに終わった去年の大会、お世話になった先輩たちのためにも、俺は全国に行きたかった。
それだけを目標に、忙しい中でも剣道の稽古時間を捻出してきた。
阪大の練習にも混ぜてもらった。ジムで筋肉を徹底的に鍛えた。去年なぜ負けたのかを高校時代の恩師に分析してもらった。
今年の俺は能力に頼り切った去年とは違う。
体育館の空気が一段と張り詰める。
「はじめ!」
審判の声が落ちた瞬間、相手の眼が正面から刺さる。俺は膝のばねを解放して立ち上がり、構えた。
俺より少し背の高い相手と睨み合う。竹刀の先が触れない距離のまま、時間だけが進む。
俺は大学に入学するまで三年間は、専門学校にいた。
だから、高校で戦った好敵手たちは基本的に今年の春で大学を卒業している。
この大会でも、ここまで戦ってきたのはすべて高校で戦ったことがない相手だ。
ここまで戦った三人は俺のことをまったく知らなかったようで、あっという間に勝ち上がれた。
俺の戦術は極端な『先の先』だ。この能力を使って相手の動きに0.1秒早く対応できる。
動き出しを不意打ちする。
前知識がない相手はカモにすぎない。
だが、この選手は俺の対策を知っているようだ。
一足一刀の外側、半歩だけ遠いところで止まり、自分からは仕掛けてこない。
間合いよりほんの少しだけ外に立つ。
そもそも間合いの外にいると、俺が仕掛けられない。
だが、その対策には致命的な弱点がある。単なる時間稼ぎにしかならない。
俺は竹刀の先で小さく圧をかけ、面をちらつかせる。適当に打ち込み、反撃を誘うが、相手は乗ってこない。
この一連の動作は審判へのアピールだ。
俺に『攻撃する姿勢』があることを見せている。
それに対して、相手は間合いの外に逃げている。
このままだと相手は『消極的試合態度』で反則を取られるぞ。
相手もそれは分かっているんだろう。足運びの擦れる音が一瞬止んだ。
袴の下、下半身と体幹の筋肉が大きく収縮した。右足の踵がわずかに浮いた。
アレがくるな。
「ヤァァッ!」
鋭い威圧的な叫び声と同時に、視界が一気に詰まる。面金の格子の向こうが近づいてくる。
アウトレンジからの体当たり。
俺への明確な対策だ。これへの対処はなかなか難しい。
分かっていても対策できない。
接近戦に持ち込まれると俺の目が生きない。
去年の敗因だ。高校時代に俺が負けるパターンもだいたい体当たりからの接近戦だった。
そして、俺が今回最も対策してきた戦術である。半歩、身体を逃がす余地がない。
相手の胸が触れる寸前、俺は竹刀を縦に滑らせた。
「ツキあり!一本!」
突き、高校で解禁される危険な技だ。
三人の審判のうち旗を上げていたのは二人。やはり突きは有効判定が厳しいな。
面金の内側で、息を一度だけ吐く。
そう、「突き」。
俺が生み出した体当たりへの対処法。
高校時代は有効判定の厳しさから使ったことはない。
あの頃の俺を知っているだけでは対処できないぞ。
この大会は三本勝負の二本先取。これで相手は追い込まれたわけだ。
次の勝負は「突き」を恐れて体当たりができない相手を一方的に攻撃する。
「勝者、赤」
旗が上がるのを見届けて、俺は竹刀を下ろした。
「互いに礼!」
これで俺の全国大会への出場はほぼ確定だ。今回は256人トーナメント。4回勝てば推薦枠に入れる。
俺は防具をつけたまま、小走りで体育館のコートを抜け、待機場所に戻る。
付き添いをしてくれた教授は面を覗き込むようにして目を丸くし、驚いた表情のまま全国大会出場を祝ってくれた。
「日野くん、おめでとう。全国出場なんて開学以来の快挙だよ」
「ありがとうございます、教授」
ちなみに、ついてきてくれた教授は剣道経験者の外科教授。
一応は剣道部の顧問という肩書きだが、当然医師で、診療にも出ているので部活の練習には顔を出したことはない。
忙しい中でも大会に来てくれて本当にありがたい。
ウチの大学は超弱小だ。
関関同立といった私学、大阪体育大学、阪大といった古豪が数十人規模の選手団を送り込んでいる。
北摂医科大の待機場所にある椅子は俺と顧問の二人分だけだった。
俺しか出場者がいないわけだな。
参加者が一人しかいない大学が全国に行くなんて前代未聞だろう。
去年は日下部先輩も出場していたんだが、彼は六年なので忙しすぎて最近部活に顔を出していない。
しかし、俺と戦ったことがない相手でも対策してくるのか。
俺の高校時代を知る誰かから入れ知恵されたんだろうな。
だが、去年の焼き回しのような対策は、重点的にやってきた俺には通用しないな。
――実際、その後も、一度も負けることはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
優勝トロフィーと賞状をもらい、賞状を抱え直して出口へ向かう。靴の音を響かせて出口の方へ歩いていると、横から声をかけられた。
「おぉ、日野くん。ウチの後輩いじめちゃって」
背中に声が刺さり、俺は足を止めた。教授と一緒に振り向く。
教授の手が空中で止まったまま、震えた。
「キ、キミは……」
教授は医師とはいえ剣道関係者。その世界で、声をかけてきた男の名前を知らない者などいない。
彼は俺の顔をじっと眺めてくる。俺はため息を吐き、久しぶりに見る友人に挨拶をした。
「丹下くん。久しぶり」
スーツを着たガタイのいい男。俺は胸元の小さなピンバッジに目を落とす。桜のマーク。今日は『警察官』としてこの大会に来ているんだなと察する。
休日なのにご苦労なことだ。彼らに休日という概念はないのかもしれないが。
彼は高校時代、インターハイで競い合った中だ。俺が勝てなかった男。
そして、去年の全日本剣道選手権の優勝者でもあり、現役の警察官でもある。
俺は教授に小声で頭を下げ、「すみません、少しだけ」と告げる。
断った後に、彼と近くの喫茶店で話すことにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
湯気の立つコーヒーが運ばれてきた。
警察と剣道、それは切っては切り離せない関係だ。高校の剣道の大会で良い成績を残した場合、各都道府県警察から熱烈なスカウトを受けることになる。
警察は教導の一環として剣道を重視していて、剣道が強い学生を喉から手が出るほど欲しがっているからだ。
ちなみに俺はなぜかスカウトが来なかった。
カップを回しながら、ふと思い出す。
会話は日本剣道界最強の男のジョークから始まる。
「おう、日野くん。要件はわかっとるな。自首するなら今のウチやで」
「俺は警察のお世話になることなんて何もしてないよ」
丹下は口角だけ上げて、俺を値踏みするように見た。
「ほんまかぁ?」
俺は中学の時以来、法律に違反したことなど一度もない。
ちゃんと施術する上で医師法も守ってるし、鍼灸に関連する各種の法律も守ってる。
道路交通法は……まあ、周りに合わせて柔軟に対応している。
というか、ここは大阪だ。京都府警に所属している彼にここで逮捕する権限はない。この男は会うたびにそんな冗談を飛ばしてくる。
逆に俺は彼の疑惑を追求した。
「そういや、俺の対策広めたのキミだよね。キミの出身校の奴ら、みんな接近戦に持ち込もうとしてきて困ったんだけど」
俺は肘をテーブルに置き、指で机を軽く叩く。
今日戦った相手は、高校時代の俺との対戦経験がないはずだ。それなのに、俺を警戒してたし、対策も取ってきていた。
「いや、去年日野くんが大学生になったのを知ったからな。
あのままやと、キミの変態戦術に可愛い後輩たちがいじめられると思ったから」
そう言った後、彼は降参するように手を挙げた。
「ボクの努力は無駄やったみたいやけどな」
全く、初見殺しが一番楽なのに彼のせいで台無しだ。悪びれる様子もなくヘラヘラしている日本最強の男を眺めながら、俺は肩を落とした。




