第52話 バイトを辞める
俺はバイト先の整骨院で、特に世話になった二人に頭を下げていた。
今日が、この整骨院への最後の出勤日だ。
「今までお世話になりました」
専門学校に入ってすぐ働き始めた場所だ。
だが今年に入ってからは、どうしても出勤頻度がかなり落ちていた。
俺は大学の講義と球団の仕事、自分の鍼灸院の運営まで抱えている。
さらに、去年の雪辱を果たすための剣道の練習も続けていた。
「日野くんがいなくなると寂しくなるけど、また三人で飲みに行こうね」
柔道整復師の武部さんが、いつもの調子で言う。
流れるように矢野さんも巻き込もうとして、やんわりかわされていた。
「日野くんはこれからも十三に来るんでしょ? また、二人で飲みに行こっか!」
相変わらずブレない二人だ。
好青年の武部さんと美女の矢野さんはこう見えて仲がいい。
名コンビと言っても過言ではない。
この二人には特に世話になった。
今日は、最後の挨拶をしているところだ。
中途半端に籍を置いたままだと迷惑をかけると思い、院長には電話で事情を話して辞めさせてもらった。
院長は、医学部の入学金を出してくれたうえ、奨学金の連帯保証人にもなってくれた人だ。
十分すぎる恩がある。血のつながりは遠い親戚に過ぎないが、俺にとってはそれ以上に、親同然の存在だった。
俺は本当に、周りの人間に恵まれていると思う。
その流れで、矢野さんが小さく呟いた。
「院長も、今日くらいは顔を出せば良かったのに」
院長は相変わらず多忙で、今日も不在だ。
ここ一年ほど顔を合わせていない気がする。
根っこはすごくいい人なんだが、仕事にのめり込むと周りが見えなくなるところがある。
最近は東京に分院をいくつも出して、売り上げを大きく伸ばしているらしい。
やり手だと思うし、正直商才がうらやましい。
院長が俺の親ポジションなら、この二人は兄姉みたいなものだ。
「武部さんから教わったマッサージは、一生の宝物です」
俺の手技の土台は、武部さんに叩き込まれたと言っていい。鍼灸師として、やっていくうえで、マッサージの腕は大きな武器になっている。
「矢野さんには、患者さんへの対応について教えてもらえました」
一方で女性の矢野さんが修めているのは、力の弱い人向けのマッサージ技術。
系統が違うので、純粋な手技の師匠という位置づけではない。
だが、この人は非力というハンデを抱えながら指名ナンバーワンを取り続ける凄腕だ。
患者への気遣い、会話の組み立て方、ベッドに身を任せる人の不安を和らげる手順。
助手として横につきながら学んだことは、今でもそのまま活きている。
「今までありがとうございました」
そう言って、二人と抱擁を交わす。
矢野さんに抱きつこうとして、するりと避けられている武部さんを眺めながら、ふと思い出して口にした。
「院長が僕の代わりの鍼灸師を手配したって聞いたんですが、どんな調子ですか?」
「先週から来てもらってるんだけど、やっぱり難しいね」
副院長になったばかりの矢野さんが、少し困った顔をする。
「常連さんは、どうしても日野くんの腕前を基準にしちゃうから、ちょっとトラブルも出てるの」
鍼灸師はスキル差が激しい。資格を持っているだけでは実力の証明にならない。
自分で言うのもなんだが、俺はかなり腕がいい方だと思う。
俺の後任は大変だろう。
「教科書通りにやっても、効果は限定的ですからね」
昔から鍼灸師は、身体の構造が分からない中でも、経絡という考え方を軸に技術を伝承してきた。
まさに、経験則の集積だ。
だが現代では身体の構造が、科学の力によってほぼ完全に分かっている。
それだけではなく、体の中すら直接確認できる時代だ。
二人は鍼灸はあまり詳しくない。
言葉だけでは伝わりにくそうだったので、実演することにした。
実験台として武部さんをうつ伏せで寝かせる。
「例えば武部さんは、背が高いから施術姿勢の関係で腰に負担がかかっています」
腰の筋肉の間にぐっと指を入れると、武部さんが絶叫した。
「痛い痛い!やめて!恩人を実験台にするのはやめてくれるかな!」
武部さんの絶叫を無視して、考え込む矢野さん。
「そこが痛いってことは、仙腸か椎間関節あたりが怪しい感じ?」
矢野さんが口を開いた。さすがだ。
「はい、正解です。この症状なら、僕たちは命門、大杼、風門、志室あたりへ鍼を刺します」
そう説明しながら一本一本、武部さんの腰に鍼を打つ。
「痛っ!痛っ! わざとやってるでしょ!日野くん」
本数は明らかに多めだが、さっきのセクハラ未遂についてちょっと怒っている矢野さんが無言で続きを促している。
しかも俺が持ってる中で一番太い『八番』という鍼まで手渡してきた。
『八番』は筋肉を刺激する効果は強いが、痛すぎるので普段はほぼ使わないやつだ。
「経穴っていうのは、昔、体の中が見えなかった時代の経験則なんです。だけど今は――」
一度言葉を切る。
「ちょっとエコー借りますね。見たほうが早いです」
部屋の隅から機械を引っ張り出す。
あまり使われていない安物だが、確認には十分だ。
プローブを当てると、仙腸関節部の右側だけ、後仙腸靱帯が厚くなっているのがはっきり見える。
「これが武部さんの腰痛の根本原因です。ここに直接アプローチするのが、僕が得意としているエコー鍼灸です」
「へー、そんなに違うんだ」
「武部さん、もういいですよ。ありがとうございました」
「そこまで分かってるなら治療してよ!」
我儘だなぁ、武部さんは。
仕方ないので、今度は細めの鍼で本気の治療に入る。
こういう症状には靱帯は直接触らず、周囲の筋肉に干渉するのがコツだ。
エコー画面の中で、腰の筋肉が細かく震えるのが見える。
矢野さんが息を飲みながら画面を見つめている。
「鍼の効果って、こんなに見えるものなんだね。でも日野くん、普段あんまりエコーの機械を使ってないよね?」
「その辺は、慣れると何となく分かるようになるんですよ」
適当に誤魔化す。
能力で筋肉が見えるなんて言っても誰も信じてくれないからな。
鍼で血液が一気に腰に集まったせいか、武部さんは動けなくなっていた。
ベッドの上でカエルみたいに腕をバタバタしていて面白い。
そのまま玄関まで矢野さんに見送られて、四年ちょっと世話になった整骨院の扉を開けた。
「じゃあね!日野くん」
「お世話になりました」
大きく一礼して歩き出す。
矢野さんは俺の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれていた。




