第47話 訓練
廊下を進む俺たちの一団に、二軍施設の狭い廊下の空気がざわめいた。
すれ違う選手たちが一瞬足を止め、目を見開く。すぐに壁際へ寄って道を空ける者、帽子を取り直す者、小声で何かを囁く者。
俺が二軍の首脳陣、そしてGMを引き連れて歩いているからだ。
緊張のせいだろうか、廊下がやけに長く感じた。
靴音がやけに強く響く。
前から歩いてきた若手が慌てて雑談を中断し、直立して頭を下げる。
……少しだけ、偉くなったような錯覚を覚える。
メディカルルームのドアを開けた。
消毒液とゴムが混ざった匂いが鼻につく。
照明のスイッチを探していると、同行していたチームのトレーナーが慣れた手つきで照明を入れる。
蛍光灯の白い光が一気に室内へ広がった。
この施設ではそこらじゅうで蛍光灯が使われている。
二軍施設には金がないのだ。
「上半身の服を脱いで、うつ伏せでお願いします」
早川選手にベッドへ横になってもらう。
間近で見ると、改めて分かる。無駄のない筋肉の付き方だ。鍛え上げられた投手の体をしている。
「犬飼コーチ、彼の腹横筋、かなり良いですね」
「お、おう……そうなんかな」
特に腹横筋の状態がいい。
この筋肉は腹部の脇にあるインナーマッスルの一つだ。投球動作の安定性に影響すると言われている。いわゆる体幹だ。
俺が見てきた中でも、最高レベルかもしれない。
肩が不安定なのにリリースポイントが一定になる理由、ある程度のコントロールを保てる理由。
ここが一つの鍵かもしれないな。
「じゃあ、始めます」
周囲を見回す。監督、コーチ、GM、スタッフ。全員が立ったまま見ている。
視線が集中してやりにくいが、今さら出ていってくれとも言えない。腹をくくる。
年季の入った部屋には不釣り合いな設備、高性能エコー装置を起動する。
早川選手の肩にプローブを当て、モニターに肩の内部構造を映す。
「ここが棘下筋で、このあたりが――」
説明するが、反応は薄い。
皆、とりあえず真剣な顔で頷いているが分かっていない。
エコーは慣れていないとノイズの塊にしか見えない。
鍼の効果はエコーなら可視化しやすい装置だ。
効果を見るには最高の装置なんだが、読み方が共有できないのが欠点だ。
プローブを置き、鍼に持ち替える。
肩周囲の筋をじっと観察していく。皮膚の下で、筋組織が固着している部分が指先に引っかかる。
トリガーポイント。同じ筋肉の中に何個もある。
年齢に見合わないほど硬い筋肉だ。
――ここだ。
俺の目には、位置も深さもはっきり見えている。
一つずつ、確実に潰していく。
「少し響きますよ」
呼吸が一瞬止まるのが分かったタイミングで、角度を合わせて刺入した。
髪の毛よりも細い鍼が皮膚を抜け、筋膜を越え、狙った一点へ。
手のひらに、ぷつりと弾ける感触が伝わる。
解放された筋が内部で跳ねている。
次の瞬間、早川選手の上半身が跳ねた。古びたベッドがギシギシと鳴る。
早川選手が驚いた顔で振り向いてきた。
「今、なにか触りましたか?」
「いえ。鍼を一本、刺しただけです」
固着していた筋を一気に解放すると、周囲の神経が震える。
脳が処理したことのない信号が一気に立ち上がる。
ここまで固着していれば、電気が走ったように感じるはずだ。
その後も一本一本丁寧に刺していく。
負担を肩代わりしていた周辺筋にも、順番に入れていく。深さ、方向、反応を見ながら微調整。左右のバランスも取る。
見ているだけのはずの首脳陣が、なぜか息を潜めているのが分かる。
最後の一本を抜く。
「起きてみてください」
早川選手がゆっくり上体を起こす。肩を回す。さっきまでと違う軌道で動く腕に、自分で戸惑っている顔だ。
「……軽い、というか、腕の位置が定まらない感じがします」
いい反応だ。肩甲骨周囲を固定していた筋肉が外れた証拠だ。
その動きを観察している俺に向けて一言。
「一度投げてみてもいいですか?」
肩の感覚を確かめたいらしい。
「どうぞ。多分、まともには投げられませんよ」
いったん外に出て、室内練習場へ移動する。
首脳陣を見てブルペンキャッチャーが慌てて出てきた。
早川選手は軽くストレッチをしてからキャッチボールに入る。低速では問題ない。
だが、キャッチボールの距離を伸ばして、肩に力を入れ始めると、何度も首を傾げている。
「なんか、コントロールに違和感がありますね」
まぁ、そうだろうな。
個人的には今の肩の状態で、キャッチボールとはいえ球を投げられていることに驚愕している。
全員が見守る中、早川選手はマウンドに立ち投球フォームを取った。
静かになった。誰も喋らない。キャッチャーがミットを叩く音だけが響く。
早川選手が振りかぶり、腕を振る。
彼の代名詞であるオーバースロー。
そこから投じられた球は――
抜けた。
ボールはミットではなく、猛スピードで天井に叩きつけられた。破裂音のような反響が室内を回る。
「えっ……」
誰かの声が漏れる。
二球目。さらに抜けた。これも天井へ。
プロ野球ファンは、こういう暴投を『宇宙開発』と呼ぶ。
早川選手は自分の手のひらを見つめている。何が起きたのか理解できない顔だ。
俺から見ると、肩甲帯は理想的に自由になっている。
今まで周囲の筋肉で固定されていたそれの制御が、まともに働いていない。
これから早川選手は、この自由になった肩甲帯を制御できるよう再訓練していく必要がある。
首脳陣は凍りついていた。
実は俺は普段、かなり加減して鍼を打っている。本気でやれば、日常生活すら難しくなるほど筋緊張を落とせる。
人間の動作には適度な張力が必要だ。今回は再訓練の障害にならないように、周囲の筋肉を徹底的に解放した。
二軍監督が小さく息を吐いた。
「……ここまでとはな。これでは試合では使えん」
俺に対して視線がチクチクと刺さる。
だから言っただろう、コントロールは崩れると。
でも肩の可動は格段に上がっている。いい崩れ方だ。
俺はトレーナーの方へ歩み寄った。彼もやや引き気味だ。
「ストレッチと再教育メニューの付き添いをお願いしますね」
俺は常時ここにいるわけにはいかない。
平日は毎日、大学に行かないといけないからな。
「分かりました……早川選手のコントロールは本当に戻りますよね?」
「確実に戻ります。仮にリハビリに失敗しても、少し前の状態には自然と戻りますよ」
肩の再訓練自体は、トミー・ジョン後の標準リハビリの範囲内だ。
難しくはない。ただ、やり切れるかどうかだけだ。
その後も打ち合わせを続けている間、後ろでは早川選手は宇宙開発を続けていた。
かつて精密機械と呼ばれた男が、派手に暴投を繰り返している。
だが、驚異的な適応力で少しずつコントロールが収束しつつある。
――悪くない。ここから作り直せる。
俺は何度も頷きながらバイクにまたがり、二軍球場を後にした。




