第45話 お医者さんごっこ
モーションキャプチャー利用の予算の承認が下りたのは、見学から二週間後のことだった。
正直、もっと早く動けると思っていた。だが、プロ野球球団といえど、所詮は普通の株式会社だ。
上期・下期ごとに経営計画が組まれているため、突発的な支出はどうしても後回しになる。
書類で苦労したからこそ――
今日ここに来られたことが、特別な意味を持っているように感じられる。
俺はようやく、早川選手を連れてフォーム解析を行う施設へやってきた。
大阪市内にある、大学発のベンチャー企業だ。
以前、見学だけには来たが、実際に計測するとなるとさすがに緊張する。
今回の訪問には、球団スタッフが一人同行している。
綾辻先輩は今日は来ていない。
あの人はもうすぐ医学部五年生で、少し早めに臨床実習が始まっている。
こちらの都合に合わせて動ける状況ではなかった。
頼りになる助手はいないが、代わりにスタッフが来てくれているので何とかなるだろう。
室内に入ると、明らかに高価そうな装置がいくつも並んでいた。
何十台ものカメラが天井や壁に設置され、中央の測定スペースを取り囲んでいる。
――これ、機材だけで軽く数千万円は超えているな。
被写体に取り付けたマーカーを多方向から撮影し、三次元的に動作を解析するモーションキャプチャーだ。
これを自力で揃える資金力は、球団にも俺にもない。
スタッフとエンジニアが、手際よく準備を進める。
早川選手の体に、次々とマーカーが取り付けられていく。
「では、まずはゆっくりシャドウピッチングからお願いします」
言われた通り、早川選手は構え、動き始めた。
エンジニアの声が飛ぶ。
「いい感じです。
このまま何回か測定して、誤差も見ていきますね」
エンジニアの目が、妙に輝いている。
聞けば、彼は早川選手と同じ大学の出身らしい。
大学野球を追っていた人間が、目の前に当時のスターを見れば、こうなるのも無理はなかった。
「ご相談していた肩甲骨の動き、測定できそうですか?」
俺が確認すると、エンジニアは即答した。
「皮膚のズレは出ますが、近似できるようなプログラムを組みました。
完全ではありませんが、傾向は追えます」
――60万円の依頼で、そこまでやってくれるのか。
明らかに赤字だろう。
それでも対応してくれたのは、球団案件だからだ。
取引先としてうちの球団を実績にできるため、かなり割り引いてくれている。
測定が進むにつれ、周囲は少しずつ盛り上がっていく。
だが、早川選手だけは違った。
測定中も、結果を待つ間も、表情は変わらない。
必要以上に期待もせず、拒否する様子もない。
――まだ、信頼されているわけではない。
彼から見れば、俺は「たまに現れる謎の鍼灸師」だ。
コーチに言われたから来ているだけなのだろう。
その距離感が、はっきりと滲んでいる。
それでも。
彼は測定そのものには、手を抜かない。
言われた通りに動き、姿勢を崩さず、最後まで淡々とこなしていく。
だからこそ、俺は思った。
この人は、信頼に足る。
一緒に治療していけると。
「早川選手、負担になると思いますが、あと二回お願いします」
「はい。コーチからの指示ですので」
短い返事。
だが、そこに不満は感じられなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
初めてのモーションキャプチャーをしてから二週間後。
「ただいまー」
大学での部活を終えて家に入ると、返事はなかった。
この時間なら、綾辻先輩はもう帰っているはずなのに。
代わりに、リビングから声が聞こえてくる。
「はーい、お腹出してくださいね〜」
「ニャ!」
何をしているんだろう。ドアを少しだけ開けて覗いてみる。
ソファの上。
ファシアが仰向けにされ、胸に聴診器を当てられていた。
「これはDKAですね!
重症なので重炭酸で中和してからインスリンを投与しましょう」
「ニャン♪」
どうやらお医者さんごっこらしい。
ファシアもなぜかノリノリだ。
俺がいない時にいつもやっているんだろうか。
そういえばこの人は、もうすぐ医学部五年生になる。
今は内科の臨床実習に行っていると言っていた。
今日習った症例を復習しているんだろうか。
……でも。俺は心の中で突っ込んだ。
その病気、聴診器では分からないだろう。
というか、お医者さんごっこの設定にしてはウチの猫が重症すぎる。
DKA(糖尿病性ケトアシドーシス)で血液を中和するレベルって、いつ心停止してもおかしくない最重度じゃないか。
普段クールな俺の恋人の痴態を見てしまい、俺は一瞬だけ悩んだ。
ここでリビングに突っ込めば、普段お姉さんぶっている先輩のメンツが、間違いなく潰れる。
考えた挙句、俺は何も見なかったことにする。
一度玄関に戻り、ドアを開け直して大きな声を出した。
「ただいま!」
リビングから、慌てた音がする。
「あっ、お疲れ。
今日の晩ごはん、ヒノくんの好きな餃子だよ」
「ありがとうございます。楽しみです」
部屋に戻ろうとすると、ファシアがズボンに絡みついてきた。
どうやらお医者さんごっこに飽きたらしい。
「ニャン……」
抱き上げて、ノートパソコンを開く。
ちょうど、メールが届いていた。
「……ようやく来たか」
三日に分けて行ったモーションキャプチャーの解析結果だ。
非常に分かりやすいレポートが送られてきていた。
フォームのズレが、誰にでも分かる形で並べられている。
――これは、強い。
六十万円でここまでやってくれるとは正直思っていなかった。
データを取るより、整理して分かりやすい形にする方が、よほど金がかかっているだろう。
すぐに、関係者向けのLINEグループに共有して、会議日程を調整する。
返事は早かった。
今週土曜、舞洲の二軍球場。
……行きづらい場所だな。
この前買ったバイクで行くか。
パソコンの横で、ファシアが置物みたいに座っている。
今日は仕事の邪魔をする気はないらしい。
「ファシアちゃん、今日はお利口さんだね」
「ニャッ」
――さて。
ここからが正念場だ。
俺は、モーションキャプチャーの結果を見ながら、治療方針に関する提案書を書き始めた。




