第44話 お仕事邪魔し猫
宮崎旅行から戻ってきた俺は、自室でじっと考え込んでいた。
スーツケースはまだ開けていない。
部屋の中央を陣取るスーツケースのせいで、普段とは違う雰囲気になっている。
移動で体はそこまで疲れていないはずなのに、頭だけが妙に重かった。
「ニャン!」
ファシアが俺の膝に乗ってきた。
放っておくと拗ねて猫パンチされるので、背中を撫でておく。
ゴロゴロと喉を鳴らしている。かわいい。
――早川選手の肘。
俺は宮崎にいる頃から、ずっとそれを考えていた。
俺の目には、はっきりと見えていた。
もう原因は分かっていると断言してもいい。
日によって微妙にずれる筋出力のバランス。
肩甲骨のズレ。
それに引きずられて変化する上腕の軌道。
彼は手術後、肩甲骨周囲の筋肉をうまく制御できなくなってしまっている。
本人はできているつもりだが、それは筋肉が硬くなっているだけだ。
だから、その日の筋肉のコンディションによってコントロールが左右される。
だが――
それを「見えている」だけでは、治療にはならない。
治療計画を立て、実施し、彼が復帰できるところまで導いてこそ治療だ。
そこまでが、医療者としての責任になる。
「ニャッ!」
思考の隙間に、鋭い声が割り込んできた。
ファシアが机の上に飛び乗り、堂々とした態度で俺の前に陣取る。
ノートパソコンのキーボードの上。
猫が居座りたがる場所の中でも、最悪のポジションだ。
俺の恋人はリビングでチキン南蛮を作っている。
モモ肉の唐揚げにタルタルソースをかけた本場宮崎風の本格的なチキン南蛮だ。
油を使っている以上、ファシアをそちらに出すわけにはいかない。
その結果、この子は部屋に閉じ込めている。
それが不満なのだろう。
「ファシアちゃん、そこにいられるのは困るなぁ」
「……」
撫でても、顎をかいても、反応は薄い。まったく退く気配がない。
構ってほしいというより、ただ純粋に俺の仕事を邪魔したい顔をしている。
仕方なくパソコンを諦め、タブレットを手に取った。
画面の中には、春季キャンプに三度通って集めた映像とメモ。
早川選手のコントロール不安定の原因が、肩甲骨とその周囲筋にあることは分かっている。
まず前提として、トミー・ジョン手術には非常に体系化されたリハビリ理論がある。
その理論の中心にあるのは、「フォームを一から作り直すこと」だ。
手術によって、身体はそれまでとは別物になる。
フォーム自体を一から組み直さなければならない。
肩、背中、体幹――すべてが噛み合って初めて、再現性のあるフォームになる。
だが――
早川選手は、肩甲骨の位置が日によってズレる。
それに引っ張られて腕の振りが変わり、リリースポイントが安定しない。
結果として、日替わりでコントロールが崩れてしまう。
例えるなら、ネジが少し緩んだ機械みたいなものだ。
動くことは動くが、同じ動きは二度と再現できない。
それでも、ある程度の投球ができているのは、早川選手のセンスの良さだろう。
「ニャ……」
ファシアが腕に登り、器用にタブレットへの視界を前足で遮ってくる。
再生している映像が見えない……。
その体温と重みを感じながらも、俺の意識は完全に思考の中に沈んでいた。
――答えは、見えている。
だが、それだけでは足りない。
この治療は、俺ひとりだけで完結させることはできない。
治療には、本人の納得、そして血の滲むような努力が必要だ。
さらに、リハビリの専門家の協力も欠かせない。
「俺がそう見たから」では、誰もついてこない。
フォームを評価し、説明する。
そして、数字として治療効果を示し、検証できるようにする。
検証できる形で治療しなければ、それは医療でもリハビリでもなく、ただの独善だ。
「ニャッ」
愛猫に顔の至近距離で鳴かれて、思わず苦笑する。
もはや、俺の視界はファシアの顔だけになっていた。
仕事の邪魔というレベルではない。何もできない。
間近で見るくりくりした目が、やたらとかわいい。
「ファシアちゃん! そんなに仕事の邪魔するならケージに閉じ込めちゃおうかな」
どかそうと手を伸ばした瞬間、ファシアは察したように机から飛び降り、さっと逃げていった。
まったく、逃げ足だけは一丁前だ。
「……悩むより、調べるか」
医学の世界で、個人の思いつきだけで新しい治療を考えることはほぼない。
医学書や論文には、すでに無数の試行錯誤が詰まっている。
エビデンスを伴わない医療は、善意であっても害になる。
本棚から、以前購入した分厚い洋書を引き抜く。
英語だらけのページをめくりながら、必要な箇所に付箋を貼っていく。
トミー・ジョン手術後の肩甲帯評価。
動作テストは大きく分けて二種類。
だが、どちらも主観的で、専門家でなければ判断できない。
選手やコーチが見て、理解できるものではない。
ページを追っていると、ある記述が目に留まった。
『モーションキャプチャによるフォーム測定』
数値化。
可視化。
第三者が理解できる視覚的なデータ。
俺が見ているものを、
他人にも部分的にとはいえ、「見せる」ための技術。
これなら――いけるかもしれない。
ファシアが、わざとらしく読んでいた本の上で丸くなっているのを横目に、俺は電話をかけ始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。
球団トレーナーをしております、日野です」
そう言って差し出した名刺には、球団ロゴと肩書きが印字されている。
大阪市内にある、大学発のベンチャー企業。
アスリートをデータ解析で支援する会社だ。
――名刺は、武器だ。
ここで「専門学校を出たばかりの鍼灸師です」と名乗っても、相手にされないだろう。
球団という看板があるからこそ、話を聞いてもらえる。
向こうの社長――いかにも学者然とした痩せた中年が、口を開いた。
「いやぁ、プロ野球の球団さんから声をかけていただけるとは」
社長自らが応対に出てきている理由も分かる。
球団との取引は、企業側にとって大きな宣伝材料になる。
資料を確認し、精度を問い、費用を聞く。
測定は三日に分けて行い、合計金額は六十万。
安くはない。
だが、なんとか犬飼ヘッドコーチの裁量で出せる額だ。
実測デモを見せてもらい、企業を後にする。
帰りの電車の中で、俺はもう一度だけ思った。
これは賭けだ。
だが、やる価値はある。
早川選手を、もう一度、同じ場所に立たせるために。




