第38話 慢性痛
今日は肉離れのサッカー少年の再診だ。
玄関のドアが開き、少年が入ってくる。
歩き方は自然で、左右差もない。
着地のタイミング、重心移動、歩幅――どれも揃っている。
靴を脱ぐ動作も滑らかで、体重をかばう様子は見られなかった。
少なくとも、日常動作の範囲では問題なし。
完治している、と判断していい。
「うーん、どうしたものかなぁ」
治癒して歩けるようにはなっている。
だが、同じ箇所で二度繰り返した肉離れだ。念のため、じっくり見ていく。
視診。
左右差はほとんどない。
触診。
筋腹の張り、熱感、皮膚の滑走――どれも悪くない。
かなり予後は良いと思う。筋肉の再生が良いように感じる。
筋肉が再生するときに線維芽細胞やコラーゲンが過剰に入り込むと、『のびない筋肉』というアスリートにとって最悪な形で再生してしまうことがある。
一度、そうなった選手を知っている。
筋力は戻った。可動域も数値上は問題なかった。
だが、そこは肉離れが再び起きる可能性のある弱点だ。
彼は肉離れを再び起こし、それをきっかけに競技を辞めた。
だが――この少年には、その兆候は見えない。
唸っている俺にコーチが心配そうに聞いてきた。
「後遺症は残ってないんですよね」
「そうですね。それは問題ないんです」
筋肉の再生についてはいい感じですと付け加える。
俺が気になっているのはそこではない。
少年が訴えているハムストリングの慢性的な痛みだ。
彼は問診した時に不安そうに言っていた。
「怪我は治ったんですけど、ずっとズキズキ痛くて、再発しないか不安になるんです」
そう言いながら、少年は無意識にハムストリングの辺りを指で押さえた。
一瞬、眉が心配そうに歪む。
完治した後に慢性的な痛みが出ていたら、いくら俺が再発の可能性は少ないと断言しても不安になるよなぁ。
コーチの話を聞くと、リハビリ中に積んだ各部位のトレーニングのおかげで少年のパフォーマンスは怪我する前より良くなっているという事。
だが、相手選手との接触など、足に負担がかかるプレーを避ける様子があり気になっているようだ。
肉離れはやったことがある人しか分からない恐ろしさがある。
自分の体から何かがちぎれる音がする、急に力が入らなくなる。
俺も高校生の頃、一度だけ経験した。
治ったあとも、全力で踏み込むのがしばらく怖かった。
この少年はそれを二回も経験しているわけだ。
それを乗り越えながら必死でプレーしている。
どうにかしてあげたい。
「痛みの原因は肉離れの後遺症ではないんですよ。ただ、似たようなモノですが」
俺の目には原因がわかっていた。
筋肉は綺麗なのに、痛みの出る場所にだけ、特徴がある。
俺の目には肉離れが起きたところに新生血管ができているのが見えている。
いわゆるモヤモヤ血管という奴だ。
これは痛みの原因になりやすい。
細くて何の役にも立たないのに周囲の神経だけを発達させて痛みの原因になる。
炎症が起きると、体は修復のために血管を増やす。
本来は治癒が進めば役目を終えて減っていくはずだが、時々、その血管だけが残ってしまう。
しかも厄介なことに、そこには痛みを感じやすい神経が一緒に増えてしまう。
サッカー少年の場合は太ももの複数箇所で発生している。
実はこれは現在の医療なら治せる。治せるんだが…。
「この治療は健康保険が効かないんですよねぇ」
少年が一瞬、視線を落とした。
金額を想像しているんだろう。
詳しい説明は医者からするべきだろう。
あんまり詳しく言って診断行為になってしまうのもいけないし。
まぁ半分診断行為に足を踏み入れているようなもんだけど。
コーチは考え込んでいる。
「提案されたカテーテル治療で、この慢性的な痛みは良くなるもんなんですかね」
「原理的には良くなります。研究はかなり進んでいますが、良くなるという報告は多いです」
この治療、まだエビデンスが集まりきっていない。
それが健康保険の適用になる手術でない理由だったりする。
厚労省はエビデンスが少ない治療には健康保険を適用させない。
逆を言えば皆保険が成立している日本はかなりエビデンスベースの治療がなされている国なんだよなぁ。
少年とコーチは顔を見合わせ、少し黙った。
だが、少年の目はもう決まっていた。
コーチが電話で、少年の保護者と相談した結果、治療してみることにした。
俺は知り合いの整形外科医に電話をかける。
犬飼選手の治療にもよく関わっている球団のチームドクターだ。
非常勤でスポーツドクターとして働いているが、普段は親がやってるクリニックの雇われ医者だったりする。
事情を話すと快諾してくれた。
「カテーテル治療ね。ウチでやってるよ。自由診療なのは日野くんなら分かってるよね?」
電話を切って、少しだけ息を吐く。
自由診療というのは費用の負担が大きい。
患者さんには薦めにくい治療だ。
それなりの責任を感じる。
実は俺が薦めた手術はそこまでリスクが高くない。
術後の運動制限もそこまでないし。
治療効果のエビデンスが完全に確立していなくても、リスクがほとんどないので薦めていいだろう。
チームドクターに施術に興味があると言ったら見学できることになった。
まだ俺は医学科の一年生。なかなか臨床に立ち会うことはできないのだ。
現場を見るのが楽しみだなぁ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
チームドクターの診療室ではまずエコーで筋肉の状態を見ていく。
「おー、肉離れ回復直後とは思えないほどいい感じに治ってるね」
モニターに映る筋繊維は整っている。
少年とコーチが、食い入るようにモニターを見つめている。
多分、訓練を受けていない彼らには何も読み取れないだろう。
そこが俺の自慢ポイントだ。
鍼で変な張りが残らないようにしたし、後遺症が残らないようにリハビリも教えた。
特にアイソメトリックと呼ばれる、肉離れを起こしていても安全に行える運動の効果が出ているんじゃないだろうか。
適度な刺激は血流を良くし、再生を促進する。
ここまで綺麗に治っていると再発リスクはかなり低いはずだ。
我ながらいい作品だ。
これは俺の目の能力に頼っただけの治療ではなく、日々の勉強の成果と言えるだろう。
「確かに新生血管がひどいね。何でこんなことになってるんだろ」
画面に映る細かな影。
見えない痛みが、はっきりと可視化された瞬間だった。
これは手術の適用だね、と手早く準備を整えるチームドクター。
俺を信用して、準備してくれていたんだろう。
普通に考えたら鍼灸師がモヤモヤ血管を見つけるのは意味不明すぎると思うけど、とにかく俺の腕は信用してくれているらしい。
モヤモヤ血管を取る治療は非常に侵襲性の低い手術だ。
だから俺が気軽に薦めたというのはある。
「局所麻酔で、しかもこんなに穴が小さいんですね」
診察台の少年は拳を握りしめている。
痛みはほとんどないはずだ。
それでも、自分の体に何かが入っている感覚だけはボンヤリと感じているはず。
「この手術、僕もおすすめなんだよ。
もうちょっとエビデンスが固まったら大々的に広報しようと思ってるんだよね」
手術の原理は簡単。
足の付け根にある血管から非常に細いカテーテルを入れてモヤモヤ血管まで伸ばす。
そこで特殊な薬剤を入れると余計な血管が固まるのだ。
ドクターの手捌きは見事だ。非常に勉強になる。
うーん、先輩も連れて来ればよかったなぁ。
彼女が志望する心臓外科においてもカテーテル治療はとても重要だ。
分野が違うとはいえ、この見事な手捌きを見学するのはきっと今後のためになるだろう。
手術は二時間ほどで終わった。
手術が終わった少年はそっと脚を動かしている。
まだ、何も分からないだろうな。
効果が出るのはこれからだ。
数日かもしれないし、数週間、あるいは数ヶ月先かもしれない。
今はただ――
選択をした、という事実だけが、そこにあった。
これで少年の痛みがなくなるといいんだけど。




