第37話 腰痛
大学終わり、俺は鍼灸院でウチの愛猫と一緒に過ごしていた。
この子は寂しがり屋で、職場に連れてこないと露骨に怒るから、当番制で家から連れてきている。
ファシアは机の上に置いてある犬飼選手のサインボールで遊ぼうとしたが、どうにも手が出せないらしい。
拗ねているファシアを見て、俺は内心ほくそ笑む。
ふふふ。3代目となるこのボールはケースに入れてある。俺は学習したのだ。
今は、マウスを握った手の上に乗り、的確に俺のパソコン操作を妨害している。かわいい。
予約まではまだ時間がある。早めに来て事務作業でも、と思ったけど……。
……することがない。
助手をしてくれている綾辻先輩は、仕事を溜め込むのが嫌いな性格らしく、すでに全ての事務作業を終わらせている。
俺がやることは、特に残っていなかった。
帳簿も、素人目に見てなんだかすごそうだ。よく分からないが、ほぼ書き直されているし、色々なものが経費扱いになっている。
経費なんて、多ければ多いほどいいですからね。
本当に何もないな。
久々にファシアにお灸でもするか。
棚から台座灸セットを取り出した瞬間、我が愛猫は目に見えて興奮した。
「ニャ! ニャッ!」
「はーい、ファシアちゃん。悪戯っ子にはお灸を据えないとね」
灸は、毎回やると地味にコストがかかるし、何より面倒だ。火を使うから、ずっと目を離せない。
正直、頻繁にはしてあげられない。
さっきまで暴れていたのが嘘のように、ファシアはタオルを敷いた施術台の上で大人しくうつ伏せになり、お尻をこちらに向けている。
台座灸を貼り、火をつける。
「ニャン……」
首を小さく振りながら悶えている。ついでにリンパマッサージもしてあげる。
どうやらファシアはお尻への刺激が大好きらしい。この熱さも、結構お気に入りのようだ。
とても気持ちよさそうにしている。
玄関の鍵が開く音がして、少し間を置いて綾辻先輩が作業部屋に入ってきた。
「あ、ファシアちゃんズルい! 前から私もお灸して欲しいって言ってるのに」
「ニャン♪」
大好きな先輩を見ても、ファシアは灸をつけているせいか、いつものように飛びついていかない。愛想良く鳴くだけだ。
本当に賢い。
「先輩は別にお灸する必要ないでしょ。これは施術に時間がかかるんですよ」
猫と人で準備の手間が変わるわけじゃないが、ファシアはお尻にお灸をすると心底喜ぶから仕方ない。
お尻ポンポン程度では満足しないほど、俺に懐いているんだよな。
話題を逸らすために、仕事の話を始める。
「今日は五十歳男性の腰痛かぁ。
正直、腰痛なら最初から整形外科に行ったほうがいいんですけどね」
「そんな元も子もないこと言わないの。ヒノくんなら整形外科顔負けの治療ができるでしょ」
腰の痛みは、整体や鍼灸院に行く前に、まず整形外科に行くべきだ。
ヘルニアなど、マッサージや鍼で治せない病気の可能性を排除するべきだからな。
今のヘルニア治療なんて本当にすごい。
内視鏡で、ほとんど身体に対する負担なしで治せる。
だからこそ、俺はスポーツ専門の鍼灸院としてここを開いている。
一般の人は、まず整形外科に行って欲しいからだ。
……とはいえ、今いる常連のスポーツ選手は数えるほどしかいないんだけど。
予約表を見ていた、先輩の方から声が出た。
「あれ、この人は莉子さんの紹介だね」
「苗字も同じだし……これ、お父さんじゃないですか?」
莉子さんは、ウチの鍼灸院で最初の常連だ。
ウチの鍼灸院の口コミを広めるのが生きがいみたいで、次々と客を送り込んでくる。
犬飼選手も、元を辿れば莉子さんの紹介だった。
考え込んでいると、愛猫がゆっくり振ってる尻尾が俺の手に当たった。
「ニャン……」
「ファシアちゃん、気持ちよさそう。私もお灸やって欲しいなぁ」
先輩がちらちらとこちらを見るが、気づかないふりをする。
「うぅ……ファシアちゃん、酷いよね。可愛い婚約者が頼み込んでるのに、お灸してくれないなんて」
「ニャ……」
なぜかファシアまで俺を非難するような目で見る。
いや、俺と先輩は婚約してないですからね。
綾辻先輩は、隙あらば既成事実を積み上げようとする。
「あぁ、もう、やりますよ」
「やった! あのね、YouTubeで見たんだけど、美容に効くツボがあってね」
ウキウキしながら施術ベッドに向かう先輩。
ファシアも動けないながら、ついて行きたそうにしている。
ファシアのお腹に両手を入れ、先輩の隣に並べてあげる。
ファシアは大好きな先輩の服を齧りながら、尻尾をフリフリしていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
莉子さんのお父さんは、ごく普通のサラリーマンといった雰囲気だった。
たぶん、会社帰りだろう。
「安静にしていると大丈夫なんですが、動くと痛くて。腰を押すと特に痛いです」
うーん……。
これは、典型的な腰痛だ。
整形外科で最も多い診断名と言っていい。
ちょっとカッコよくいうと筋/筋膜性腰痛。要は腰痛だ。
「じゃあ、鍼を打っていきますね」
この人のトリガーポイントはかなり表層にある。非常に簡単な症例だ。
狙ったポイントに、テンポよく鍼を打つ。
「痛っ!」
「あ、大丈夫ですか? 我慢できなかったら言ってくださいね」
今回は、痛みを感じるタイプだったらしい。
トリガーポイント部位近くの神経は、どうしても過敏になりがちだ。
一撃必殺……これでかなり楽になるはずだ。
ついでに、肩にも数発だけ打ち込む。
施術時間は、三分ほど。
「よし、施術完了です」
「……あれ? 全然痛くない。もう治ったんですか?」
混乱する莉子さんパパ。
「この鍼灸院、保険効かなくて高いんで、整形外科行ったほうがいいですよ。
あなたの場合はかなり表面の原因なんで、エコーですぐ見つかります」
これを見逃す整形外科医は、正直ヤブだと思う。
「肩も軽い……」
「整形外科でしてくれるトリガーポイント注射ですぐ治りますし、理学療法士さんがいるところだとストレッチも教われると思います」
簡単な症例だし、莉子さんの紹介でもある。
今回は割引でいいだろう。
作業室に戻ると、先輩はファシアのお尻をマッサージしていた。
一見、全く仕事をしていないように見えるが、書類は完璧に処理されている。
小人でも雇っているんじゃないかと思う。
「あれ、もう終わったの?」
「先輩、今回は楽な施術だったので請求は半額の四千円でお願いします」
「もう。ヒノくんは、どんぶり勘定なんだから」
そう言って、ファシアを俺に渡し、施術室へ向かう先輩。
今日も平和だなぁ。猫を撫でながらそんなことを思うのだった。




