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服の下を透視する能力を得たら、あなたは何をしますか?  作者: メモ帳パンダ
鉄人編

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36/68

第36話 引退

 試合は均衡を保ったまま続く。

 初回にプチ炎上したウチの若手投手は、人が変わったように良い球を投げ出した。

 アウトを一つ取るたびに、ドームの空気が少しずつ落ち着いていくのが分かる。

 一方で打線はチャンスを作りながらも、なかなかここぞというところで捉えられない。塁には出るのに、あと一本が遠い。


 チャンスのたびに立ち上がりかけては、ため息とともに座り直す観客が増えていく。

 点差以上に、じりじりとした時間が流れていた。


「なかなか、追いつけないね」


「チームの悪いところが出ちゃってますね。塁には出るんですけど、ここぞという長打がなかなか出ないんですよね」


 綾辻先輩は「なるほど」と小さく頷きながら、スマホに何かを書き込んでいる。

 最近、先輩が妙に野球に詳しくなってきたと思っていたが、こういう努力があったのかもしれない。


 画面いっぱいに並んだメモをちらりと見て、俺は心の中で呟く。

 そこまで真面目に勉強しなくていいですよ。


「先輩は、好きな選手とかできたんですか? 犬飼選手以外で」


「そうだねー、早川選手!」


 ……えぇ。

 今季、一軍に上がったことすらない投手だ。三年前のドラ一だが、怪我に泣かされ、手術を経てリハビリ中と聞いている。


「なんで好きなんですか?」


「選手名鑑見てたら、ヒノくんと身長が同じだったの!」


 理由としては、だいぶ弱い。

 あと、父親と同じ大学出身だから、父がファンらしい。


 先輩パパは東京の超名門私立大学出身なのか。

 最近、実家に誘われる回数が増えている。

 先輩のライフワークである外堀埋めの一環なんだろうけど……。

 先輩パパはやり手の経営者らしい。正直、会うのが怖い。


 気がつくと、試合は最終回になっていた。

 ここまで犬飼選手は一本のヒットと四球。

 九回は一番から始まる打順だ。

 犬飼選手に打席が回るには、誰か一人が出塁する必要がある。


 応援の熱が上がってきた。ドームの空気が張り詰めていく。


 そして、犬飼選手に回ってきた。

 ラジオでは実況が大興奮している。


『ここで、四番の犬飼! 長打が出れば逆転サヨナラの場面です』


 犬飼選手の第五打席。

 チームは二点ビハインド。

 ――そして、満塁。


 球場は過去最高の盛り上がりを見せ、隣にいる先輩とも会話ができないほどの歓声に包まれた。

 心拍が一気に上がる。

 相手投手は変化球を際どいところに投げ込む。

 犬飼選手は、振ることができない。


『犬飼選手、追い詰められました!』


 実況の悲鳴にも似た声を、解説が嗜める。


『犬飼君は、ここからの粘りが持ち味ですからね』


 そこから、犬飼選手は粘った。

 一球ごとに球場が沸く。

 フルカウントになってからも、ファールで粘り続ける。

 四番とは思えないほどの執念のような粘り打ちだ。

 これだ。これが犬飼選手だ。


 高校時代の俺が大好きだった、あの選手が完全復活したかのようで、胸が熱くなった。


 そして――

 少し甘く抜けたスライダー。


 犬飼選手のバットから、快音が響いた。

 外野の頭を越えた打球は、フェンスに直撃する。


 俺は立ち上がっていた。

 何か叫んだ気がするが、自分の声すら一切聞こえない。

 打球音の後、世界から音が消えた。


 ランナーが帰ってくる。

 一人。

 二人。

 そして三人。


 逆転サヨナラ勝ちだ。


 二塁ベースを回ったところで止まった犬飼選手に、チーム全員が駆け寄る。祝福の輪。割れんばかりの歓声。

 視界が滲み、何も見えなくなった。


 彼の最後の打席は、劇的なツーベースタイムリーだった。


「犬飼! 犬飼!」


 イヤホンから流れるラジオの音すら聞こえないほどの犬飼コール。

 もみくちゃにされながら、犬飼選手は大きく帽子を振ってファンに応えた。


 巨大スクリーンに、犬飼選手の軌跡が流れる。

 華々しいホームラン。初のタイトル。優勝時の笑顔。

 FA権を放棄した時の会見。二〇〇〇本安打達成。


 この映像だけを見れば、誰もが野球エリートだと思うだろう。

 だが、俺は知っている。


 甲子園優勝投手として鳴り物入りで入団し、泣かず飛ばず。

 野手転向を余儀なくされ、そこから長打力を開花させ、スターにまで上り詰めたこと。


 そして――

 あの肩の筋肉と腱。

 あれは数年でなるものじゃない。

 何年も、思い通りにならない体と付き合いながら、痛みを抱えてプレーし続けてきた証だ。


 俺の施術で活躍したなんて、自惚れるつもりはない。

 あと数年間プレーできたかもしれない肩の寿命を、俺は早めただけだ。

 もっといいやり方があったのかもしれない。


 犬飼選手の挨拶が始まる。


「今日はありがとう! このドームで、みんなの前で引退できるなんて、本当に嬉しいわ」


 大地が揺れていると錯覚するほどの歓声。

 数十秒かけて、ようやく静まり、犬飼選手は続けた。


「なんで引退するんや、と思う人もおるやろ。

 肩の怪我が限界なんや。もう、ボールも投げられへん」


 完全な静寂。

 誰もが、その言葉を待っていた。


「支えてくれたファンのみんな、家族、仲間、医療スタッフのみんな、ありがとう。

 最後に力を振り絞れて、二〇〇〇本安打を達成できたのは、みんなのおかげや」


 拍手喝采。

 チームメイトが駆け寄り、始まる胴上げ。


 胴上げをするなんて……聞いてないぞ。

 空中で揺れる肩を見て、反射的に力のかかり方を計算してしまう自分がいた。

 チームドクターは、たぶん怒っている。

 でも、犬飼選手は心から嬉しそうだった。


 胴上げが終わり、犬飼選手の子供たちが花束を渡す。

 その光景は、野球が次の世代へ受け渡されていく瞬間そのものだった。


「先輩、僕は……本当に治療して良かったんですかね」


 結果的にうまくいったとはいえ、非常にリスクの高い治療だった。

 腱が切れなかったのは、たまたまにすぎない。


「それは、医術者の永遠の悩みだよね」


 ……でも、と先輩は一拍置いて言った。


「患者さんに、あんなに幸せそうに笑ってもらえるなんて、なかなかできることじゃないんじゃない?」


 巨大スクリーンに映る犬飼選手。

 子供たちと並んで笑うその姿は、この地球上の誰よりも幸せそうに見えた。

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― 新着の感想 ―
犬飼選手、自分の美学に沿った終わり方ができましたね。
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