第36話 引退
試合は均衡を保ったまま続く。
初回にプチ炎上したウチの若手投手は、人が変わったように良い球を投げ出した。
アウトを一つ取るたびに、ドームの空気が少しずつ落ち着いていくのが分かる。
一方で打線はチャンスを作りながらも、なかなかここぞというところで捉えられない。塁には出るのに、あと一本が遠い。
チャンスのたびに立ち上がりかけては、ため息とともに座り直す観客が増えていく。
点差以上に、じりじりとした時間が流れていた。
「なかなか、追いつけないね」
「チームの悪いところが出ちゃってますね。塁には出るんですけど、ここぞという長打がなかなか出ないんですよね」
綾辻先輩は「なるほど」と小さく頷きながら、スマホに何かを書き込んでいる。
最近、先輩が妙に野球に詳しくなってきたと思っていたが、こういう努力があったのかもしれない。
画面いっぱいに並んだメモをちらりと見て、俺は心の中で呟く。
そこまで真面目に勉強しなくていいですよ。
「先輩は、好きな選手とかできたんですか? 犬飼選手以外で」
「そうだねー、早川選手!」
……えぇ。
今季、一軍に上がったことすらない投手だ。三年前のドラ一だが、怪我に泣かされ、手術を経てリハビリ中と聞いている。
「なんで好きなんですか?」
「選手名鑑見てたら、ヒノくんと身長が同じだったの!」
理由としては、だいぶ弱い。
あと、父親と同じ大学出身だから、父がファンらしい。
先輩パパは東京の超名門私立大学出身なのか。
最近、実家に誘われる回数が増えている。
先輩のライフワークである外堀埋めの一環なんだろうけど……。
先輩パパはやり手の経営者らしい。正直、会うのが怖い。
気がつくと、試合は最終回になっていた。
ここまで犬飼選手は一本のヒットと四球。
九回は一番から始まる打順だ。
犬飼選手に打席が回るには、誰か一人が出塁する必要がある。
応援の熱が上がってきた。ドームの空気が張り詰めていく。
そして、犬飼選手に回ってきた。
ラジオでは実況が大興奮している。
『ここで、四番の犬飼! 長打が出れば逆転サヨナラの場面です』
犬飼選手の第五打席。
チームは二点ビハインド。
――そして、満塁。
球場は過去最高の盛り上がりを見せ、隣にいる先輩とも会話ができないほどの歓声に包まれた。
心拍が一気に上がる。
相手投手は変化球を際どいところに投げ込む。
犬飼選手は、振ることができない。
『犬飼選手、追い詰められました!』
実況の悲鳴にも似た声を、解説が嗜める。
『犬飼君は、ここからの粘りが持ち味ですからね』
そこから、犬飼選手は粘った。
一球ごとに球場が沸く。
フルカウントになってからも、ファールで粘り続ける。
四番とは思えないほどの執念のような粘り打ちだ。
これだ。これが犬飼選手だ。
高校時代の俺が大好きだった、あの選手が完全復活したかのようで、胸が熱くなった。
そして――
少し甘く抜けたスライダー。
犬飼選手のバットから、快音が響いた。
外野の頭を越えた打球は、フェンスに直撃する。
俺は立ち上がっていた。
何か叫んだ気がするが、自分の声すら一切聞こえない。
打球音の後、世界から音が消えた。
ランナーが帰ってくる。
一人。
二人。
そして三人。
逆転サヨナラ勝ちだ。
二塁ベースを回ったところで止まった犬飼選手に、チーム全員が駆け寄る。祝福の輪。割れんばかりの歓声。
視界が滲み、何も見えなくなった。
彼の最後の打席は、劇的なツーベースタイムリーだった。
「犬飼! 犬飼!」
イヤホンから流れるラジオの音すら聞こえないほどの犬飼コール。
もみくちゃにされながら、犬飼選手は大きく帽子を振ってファンに応えた。
巨大スクリーンに、犬飼選手の軌跡が流れる。
華々しいホームラン。初のタイトル。優勝時の笑顔。
FA権を放棄した時の会見。二〇〇〇本安打達成。
この映像だけを見れば、誰もが野球エリートだと思うだろう。
だが、俺は知っている。
甲子園優勝投手として鳴り物入りで入団し、泣かず飛ばず。
野手転向を余儀なくされ、そこから長打力を開花させ、スターにまで上り詰めたこと。
そして――
あの肩の筋肉と腱。
あれは数年でなるものじゃない。
何年も、思い通りにならない体と付き合いながら、痛みを抱えてプレーし続けてきた証だ。
俺の施術で活躍したなんて、自惚れるつもりはない。
あと数年間プレーできたかもしれない肩の寿命を、俺は早めただけだ。
もっといいやり方があったのかもしれない。
犬飼選手の挨拶が始まる。
「今日はありがとう! このドームで、みんなの前で引退できるなんて、本当に嬉しいわ」
大地が揺れていると錯覚するほどの歓声。
数十秒かけて、ようやく静まり、犬飼選手は続けた。
「なんで引退するんや、と思う人もおるやろ。
肩の怪我が限界なんや。もう、ボールも投げられへん」
完全な静寂。
誰もが、その言葉を待っていた。
「支えてくれたファンのみんな、家族、仲間、医療スタッフのみんな、ありがとう。
最後に力を振り絞れて、二〇〇〇本安打を達成できたのは、みんなのおかげや」
拍手喝采。
チームメイトが駆け寄り、始まる胴上げ。
胴上げをするなんて……聞いてないぞ。
空中で揺れる肩を見て、反射的に力のかかり方を計算してしまう自分がいた。
チームドクターは、たぶん怒っている。
でも、犬飼選手は心から嬉しそうだった。
胴上げが終わり、犬飼選手の子供たちが花束を渡す。
その光景は、野球が次の世代へ受け渡されていく瞬間そのものだった。
「先輩、僕は……本当に治療して良かったんですかね」
結果的にうまくいったとはいえ、非常にリスクの高い治療だった。
腱が切れなかったのは、たまたまにすぎない。
「それは、医術者の永遠の悩みだよね」
……でも、と先輩は一拍置いて言った。
「患者さんに、あんなに幸せそうに笑ってもらえるなんて、なかなかできることじゃないんじゃない?」
巨大スクリーンに映る犬飼選手。
子供たちと並んで笑うその姿は、この地球上の誰よりも幸せそうに見えた。




