第35話 球場飯
犬飼選手が打席に入った後、タイムがかかった。
サインが合わないらしくキャッチャーと投手が打ち合わせをしている。
「ヒノくん、今日はなんで片耳にイヤホンしてるの?」
綾辻先輩がこちらを覗き込んできた。
「ラジオで実況を聞いてるんですよ」
そう言って、ポケットに入れていた携帯ラジオを軽く持ち上げて見せる。
この球場はドーム球場だが、なぜかラジオが普通に入る。
一般には知られていないが、ファンの間では比較的知られている話だ。
「えー、現地にいるのに?」
先輩は少し不思議そうな顔をしていた。
実際、現地観戦というのは思っている以上に情報量が少ない。
球種も球速も分からないし、配球の意図も見えない。
最低限のアナウンスはあるが、この歓声の中では、内容まではほとんど聞き取れない。
スコアボードを見上げる。
数字だけが静かに並び、試合の細かな流れまでは伝わってこない。
だからこそ、俺は現地ではラジオを聴いている。
家ならテレビを見ればいいが、球場ではラジオが一番だ。
先輩が、ふと思い出したように聞いてきた。
「四点差で負けてるって、結構厳しい感じだよね?」
一回表、若手投手が打ち込まれて、すでに四点ビハインド。
マウンドに立っていた投手の表情は硬く、ベンチも落ち着かない空気だった。
投手陣は怪我人続出で、こんな実績のない若手まで先発させている。
正直、かなり苦しいチーム事情だった。
「いや、野球はこれくらいの点差なら、ひっくり返せますよ」
口にした瞬間、自分でも強がりだと分かった。
四点を取るのは簡単じゃない。
特に、貧打と揶揄されがちなウチの打線では。
改めて、犬飼選手が打席に入った。
バッターボックスで微動だにせず、投手の投球を待っている。
投球は二球続けてボールになった。
犬飼選手は選球眼がいい。
少しでも外れた球には、決して手を出さない。
そして三球目。
代名詞とも言える鋭いフルスイング。
変化球を捉えた打球は、乾いた音を残してライト線を鋭く抜けていった。
当たりが良すぎたのか、犬飼選手は一塁で止まる。
だが、二塁ランナーは迷いなく本塁へ。
見事に生還していた。
歓声が、さらに一段階大きくなる。
走塁コーチの判断も素晴らしい。
もちろん、それ以上に走者本人の技術が光っている。
本塁突入の瞬間にも、危うさは一切感じなかった。
「これがウチの野球です。打てないこともありますけど、走塁は本当にいいんですよ」
「そうなんだね。今の走塁、確かにすごかった!」
先輩は感情のこもった相槌を打つ。
ただ、その目はどこか上の空だった。
最近は野球の知識も増えたが、根っこの部分では、そこまで興味がない。
そういう器用さを、この人は持っている。
歓声が落ち着いたのを感じて、俺は再びラジオに意識を戻す。
実況と解説が、同じ点に言及していた。
『それにしても、このスイングができるのに引退するなんて、もったいないですよね』
『怪我の詳細は公表以上のことは分かりませんが、それでも惜しいですよね』
一塁にいる犬飼選手の姿が、モニターに映る。
その肩の動きに、つい目がいってしまう。
犬飼選手の怪我の詳細は、OBにすら伝えられていない。
完全にトップシークレットとして扱われている。
ファンからすれば、納得できなくて当然だろう。
これだけのスイングができる。
DHなら、まだ十分に戦力になる。
しかも、現時点で首位打者だ。
実は俺自身も、不思議に思っている事がある。
ただし、ラジオの実況とは少し違う意味で。
なぜ、あの肩の状態で、これほど鋭いスイングができるのか。
なぜ、あれほどの打球を飛ばせるのか。
確かに、筋肉は緩めた。
だが犬飼選手は、痛み止めの注射を拒否している。
感覚が鈍るのが嫌なんだそうだ。
相当な痛みがあるはずだ。
常人なら、腕を動かすことすらできないだろう。
その痛みの中で彼は、腱が切れる恐怖を押し殺し、打席に立つことを選んでいる。
「本当に、犬飼選手ってすごい選手ですよ」
「そうだよね。あ、次のバッターもヒット打ったよ!」
ベテランの一打に引っ張られたのか、後続も続いた。
犬飼選手は二塁へ。
この回で、点差は二点まで縮まった。
イニングが進み、照明の明るさは変わらないまま、時間だけが静かに流れていく。
試合は、奇妙な均衡状態に入った。
次の犬飼選手の打席は四回。
外野へのフライ。
だが、打球が上がった瞬間、球場がどよめいた。
ホームランと勘違いした観客が、あちこちで立ち上がっている。
先輩も一瞬立ち上がり、少し気まずそうに座り直した。
「あれ、今のホームランじゃないの?」
「プロのフライは、迫力が違うんですよ」
テレビで見れば、明らかに平凡なフライだろう。
でも、現地では違う。
打球音一つで、球場全体が揺れる。
しばらく座っていた先輩が、背伸びをする。
「先輩、そろそろ観戦疲れてきてませんか?」
「そんなことないよ。すっごく面白い!」
そう言いながら、先輩はニコニコしている。
でも、そろそろ飽きてきたのは分かる。
この人の楽しんでいるふりは、俺には通用しない。
高校の二年間、表情を読み取ることができない俺が、機嫌を取り続けてきた相手だ。
「じゃあ、ちょっと歩きますか」
席を立ち、客席近くの階段を降りる。
通路に出た瞬間、揚げ物とソースの匂いが鼻を突いた。
広い廊下の両脇に、飲食店がずらりと並んでいる。
「このホットドッグすごい! ソーセージ長っ!」
「三十センチある、球場名物ですよ」
確かに、想像以上に長い。
食べにくいが、それも含めて名物だ。
次に、先輩が足を止めたのは、選手プロデュース弁当のコーナー。
「これ『犬飼勇の情熱ドロ焼き』だって! ドロ焼きって何?」
「姫路名物ですね。たこ焼きとお好み焼きの中間みたいなやつです」
「あ、ヒノくんも姫路出身だもんね!」
一瞬、言葉に詰まる。
……まずい。
家族の話題は、正直面倒だ。
話を強引に変える。
「じゃあ僕は『大和田豪の狭山茶香る武蔵野うどん・鉄壁守備盛り』で」
相変わらず、異様に長い名前だ。
三番・大和田選手は今日は二三振と振るわない。
だが、ショートの守備は本当に惚れ惚れする。
ちなみに埼玉出身で、今日の対戦相手の本拠地だ。
そのせいか、弁当の売れ行きもいい。
「じゃ、私は犬飼選手のにする!」
先輩が財布を出しかけたが、俺はポケットからクレジットカードを差し出す。
どうにか奢る形に持ち込んだ。
弁当を手に、他のグルメを冷やかしながら一回りした。
どこかからアナウンスが聞こえてきて、もうすぐ攻撃が始まることを告げている。
「あ、そろそろウチの攻撃が始まりそうだし、戻りましょうか」
席に戻りながら、ラジオのボリュームを少し上げる。
試合は、均衡を保ったまま、静かに終盤へと向かっていった。




