第34話 引退試合
犬飼選手の引退試合の少し前、俺はメディカルルームにいた。
彼の肩を治療するためだ。
つい二日前に施術したばかりだというのに、肩の筋肉はカチコチだ。
それほど腱が損傷し、炎症が強く出ているんだろう。
「犬飼選手、打席で少しでも異常を感じたら即座にプレーを中止してくださいね」
「おう、分かっとる」
一ミリもプレーを中止する気がなさそうな返事を聞き、ため息をつく。
そして、彼にとって現役最後となる施術に入った。
犬飼選手の肩の奥、筋肉の組織にじっと焦点を合わせた。
今回は防御的収縮を完全には解除しない。
動作を代償している他の筋肉を解放しすぎれば、リスクが高すぎると判断したからだ。
収縮している筋組織から数ミリ離れたところに鍼を刺す。
もう少しほぐしたい。再度刺す。微妙な繰り返しだ。
体の全神経を指先に集中する。
永遠にも思える時間の末に、ようやく満足できる状態まで筋肉を仕上げることができた。
時計を見ると、施術を始めてから三十分が経っていた。
慣れないことをするものではない。完全に解しきらず、全体のバランスを取る。
なかなか普段の施術では必要とされないスキルだ。
「はい、これで施術終了です」
俺の掛け声で、ベッドから起き上がった犬飼選手。
いつものように肩を回している。
その動作を見ているだけで、ヒヤヒヤした。
「あれ、今日はあんまり解れてない気がするな、もう一度やってや」
「わざとそうしているんですよ。今の状態で全部の力が腱にかかったら危険です」
俺の言葉に、犬飼選手は不満そうな顔をした。
「なんや、君の腕が落ちたかと思ったわ」
軽口を叩いている。
俺がこんな単純な施術で失敗するわけがないことは、知っているだろうに。
渋る犬飼選手をなんとか説得して、ベストコンディションではない現状に納得してもらった。
少しスイングしたときに、違和感はあるだろう。
だが、この解し具合がベストだ。
数日前から必死に考えた末の、一つの答えだった。
「ありがとうな、じゃあ行ってくるわ」
部屋を出て行こうとする犬飼選手に、声をかけた。
「あの、犬飼選手」
「お、なんや」
俺は犬飼選手の目をしっかり見た。
そして、自分の心の底からの気持ちを伝えた。
「無事に帰ってきてくださいね」
「おう」
手を挙げて部屋を出ていく犬飼選手。
その後ろ姿は頼もしく、同時に、どこか儚げにも見えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日のドームは満員だった。
ナイター開始前にもかかわらず、すでに場内は熱を帯びている。
相手は関東のチーム。普段なら、そこまで客が入るカードじゃない。
この対戦はビジターファンが少なくて、満員になった光景を今日まで見たことがなかった。
超巨大なドームが埋まると、空気の重さが違う。
音が反響し、床がわずかに震えているのが分かる。
混雑した入り口。
身動きできないほどの通路。
人の流れに押されながら進むこの感じ。
もちろん、超満員の観客のお目当ては、今日引退する犬飼選手だ。
十年以上チームに尽くしてくれた生え抜き選手の、最後の輝きを見ようと集まっている。
群衆の中でも、球団関係者が用意してくれた席だけは別世界だった。
通路は静かで、視界も広い。
スタッフの動きも洗練されていて、ここだけ空気が違う。
ようやく席につき、ホッとしている先輩が話しかけてきた。
「わぁ、今日はすごい人だね」
「ウチの球団では満員御礼はなかなか出ないんですが、それだけ犬飼選手の引退試合ってのが大きいですよね」
スタメン発表が始まった。
照明が落ち、ド派手な演出とともにスクリーンに映像が流れる。
去年の大ヒット曲が流れているはずだが、歓声でほとんど聞こえない。
選手紹介が次々と続く。
「三番、背番号42 ショートストップ 大和田 豪」
そろそろ、来るはずだ。
無意識に拳を握りしめている自分に気づいた。
「四番、背番号6 DH 犬飼 勇!」
一瞬、球場全体が沈黙に包まれた。
次の瞬間、爆発したような歓声が押し寄せる。
年配のファンが立ち上がり、若い客が叫び、子どもが意味も分からず飛び跳ねている。
隣の客は目を見開き、必死でメガホンを叩いていた。
事前に発表されていなかったスタメン出場──その衝撃が、遮るものなく伝わってくる。
実はスタメンでいくかどうかは、前日の深夜まで決まっていなかった。
チームドクターが「1打席だけにしてくれ」と強く主張していたからだ。
犬飼選手は、引退試合でのスタメン出場を熱望していた。
少しでも戦力が欲しい球団の上層部も、それを後押しした。
会議の中で、犬飼選手が放った一言が、今でも耳に残っている。
誰も口を開かず、視線が宙を彷徨った、あの静けさと一緒に。
「ファンに恩返ししたい、優勝したいんや」
首位とは数ゲーム差。
だが、自力優勝はまだ消えていない。
引退試合だろうと、総力戦をしないといけない状況だった。
犬飼選手は、個人成績よりチームの勝利を選んだ。
残り試合の関係で、この試合に出場しないのであれば首位打者は確定していた。
首位打者のまま引退──それ以上ない花道だ。
それを捨ててでも、彼はスタメンで出たがった。
チームドクターからは何度も連絡が来た。
彼に信頼されている俺に、説得してほしいという要請だ。
犬飼選手の肩はもう限界で、本当は一打席も出したくない。
オフに予定している腱板再建手術への影響は、どうしても避けたい、と。
それでも、俺にとってのヒーローの願いを、断ることなんてできなかった。
もし今日、何か起きたら──その責任は、間違いなく俺にある。
「本当に良かったのかな……」
胸の奥が、じくりと痛む。
綾辻先輩が無言でハンカチを差し出してくれているのが、滲んだ視界の端に映った。
無意識のうちに、涙がこぼれていたらしい。
「すみません、ありがとうございます」
スタメン発表が終わっても、場内のざわめきは消えなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「はい、ご飯とってきたよ!」
そう言って、先輩が席に戻ってくる。
皿はウィンナー中心の内容。俺の好みを知り尽くしたチョイスだ。
先輩の皿は、串カツ、串カツ、串カツ。
前に来たときも同じだった。
この安っぽい衣とソースが、どうやらお気に入りらしい。
「あ、犬飼選手の打席だよ!」
巨大モニターの映像が切り替わる。
往年の名歌手の曲が流れているはずだが、歓声に完全にかき消されている。
すごい応援だ。
関西中のファンが集まってきたんじゃないかと思うほどだ。
ランナーは二塁。
犬飼選手は、いつも通りのルーティンで打席に入った。




