第33話 肉離れ
少年の太ももを眺める。
患部の皮膚には、肉離れ発生時によくある内出血のアザが出ている。
この症状だと、確かにわざわざ整形外科には行かないかもしれないな。
外観を見ただけで、肉離れだと分かる。
「痛いけど動ける」状態だから、整形外科に行くほどではないと思ったのだろう。
触らなくても分かる。
俺の視覚情報は、彼の肉離れが見た目とは違うことを告げていた。
肉離れというのは、筋肉の繊維が切れる怪我だ。切れてしまっているところには血が溜まる。
その血によって、内出血の外観が出るわけだ。
俺の目には、かなりグロテスクな状態になっている彼の筋肉が見えていた。
かなりの出血だ。決して軽症ではない。
「一昨日の昼の練習中に怪我してしまいまして。怪我した直後は歩けなかったんですが、今は大丈夫です」
「今は大丈夫」という言葉は、怪我の現場ではよく聞く。
その言葉に、思わず小さくため息をついた。
本人の感覚と、実際に起きていることが一致するとは限らない。
むしろ怪我の現場では、ズレていることの方が多い。
この子はエース。一ヶ月後にある大事な大会に出したいらしい。
コーチの声色から、その焦りが伝わってくる。
彼にとっては大会の結果が、選手の進路に直結する。
「日野さん、どうにか貴方の腕で一ヶ月後の試合に出られるようにしてくれませんか?」
「うーん、それは無理っすね」
場の空気が一瞬、固まった。
少年の視線が、一瞬だけ床に落ちた。
俺は続ける。
「この肉離れ、結構重症です」
肉離れの中でも重症な方で、筋断裂と判断しても問題はないだろう。
少なくとも「歩ける程度の軽い肉離れ」ではない。
コーチは自らの見立てと違ったようで、反論してくる。
「でも、歩けるんで、そこまで重症じゃないと思うんですけど」
その反論は予想していた。
軽傷だと判断して、整形外科には行かせなかったんだろう。
回復を早くするために、鍼灸院に来た――といったところだな。
「これはただ、周りの筋肉が固まって歩けるようになってるだけです」
今はハムストリングの周りの筋肉が固まっている。防御的収縮ってやつだ。
治ったから、軽傷だから歩けるわけではない。
大腿四頭筋や殿筋が固くなって、その動きを代償している。
複数ある筋肉を硬直させて、一本にして歩けるようにしているだけだ。
歩けるというのは、軽症である証拠じゃない。
それは、ただの一時的な誤魔化しにすぎない。
最近導入した大画面モニターを使って、その原理を丁寧に説明する。
納得してもらうためではない。止めるための説明だ。
理解できなくてもいい。ただ「危ない」ということだけは伝わってほしい。
俺は二人の顔を交互に見ながら続けた。
「外観と『歩けるかどうか』だけで重症度を判断しないで欲しいんです」
肉離れの重症度は、簡易的には外見でも判断できる。
筋肉に外見的な左右差、具体的には凹みが見られる場合は、明らかに重症の肉離れだ。
だが、重症肉離れの判断基準は、それだけじゃない。
仰向けになっている少年の足を、ゆっくりと上げていく。
さほど上げないうちに、少年は顔をしかめて痛みを訴え始めた。
その反応だけで、答えとしては十分だった。
コーチの表情が、少し変わった。
「ハムストリングの場合、足を上げたときに痛みを感じ始める角度が、重症度合いの目安になりますね」
角度が三〇度程度で顔をしかめている。これは重度である証拠だ。
重症度について共有できたところで、治療の方針について説明していく。
実は鍼治療が最も活躍するのは肉離れだ。
過剰な防御的収縮を解除できるし、血流を良くして回復を早められる。
コーチは核心を突いてきた。
「どれくらいでトレーニング再開できますかね?」
「順調に行って、多分二ヶ月くらいですね。それくらい重症です。
あと、今日治療したら一時的に歩けなくなると思います。しばらく松葉杖生活です」
少年の肩が、わずかに落ちた。
俺は一度、少年の顔を見る。
本人の覚悟を、直接確かめる必要があった。
彼は悲壮感の漂う表情をしていた。
だが、諦めてはいない。
彼が歩ける原因は防御的収縮だ。
損傷した筋肉を補って歩けるようにする、人間の機能。
天敵から逃げる必要があった野生下では必要だったと思うが、現代では邪魔になることが多い。
この状態で歩いてしまうと、治りが悪くなったり、最悪の場合、肉離れが再発してしまう。
そのまま治ってしまうと、不自然な形で筋肉が再生する。
それは「治ったように見えるだけ」だ。
以前にも同じ場所で肉離れを起こしたことがあるようだ。
今回の怪我は、前回の治り方が良くなかったのかもしれない。
そう説明した上で、この状態を解除していいかを本人に確認する。
選択権は、本人にある。
強制することは簡単だ。だが、それは医療じゃない。
「はい、お願いします」
治療とは、副作用とのトレードオフだ。
今回の場合、歩けなくなるというデメリットに対して、得られるメリットが大きすぎる。
スポーツ選手でNOと言う人はいないだろう。
治療を開始する。全神経を患部に集中する。
鍼を、筋肉が収縮している場所にピンポイントで刺す。
刺すたびに、少年の身体が小さく震える。
うーん、我ながらいい施術だ。
これで防御的収縮は、ほぼ確実に解ける。
「とりあえず、二週間は松葉杖生活して欲しいです」
コーチが、ゆっくりと頷いた。
二週間は亜急性期と呼ばれる、非常にデリケートな時期だ。
ここで防御的収縮をきちんと解除できるかどうかが、その後を左右する。
必要なら整形外科にも紹介するが、この少年の場合は今のところ必要ないだろう。
奥にある作業部屋へ繋がるドアを小さく開けて、綾辻先輩に声をかけた。
「テーピングセットと、松葉杖の準備をお願いしまーす」
「はーい」
しばらくして、奥から松葉杖を持った先輩が出てきた。
その瞬間、少年の目が先輩に釘付けになった。
さっきまでの重苦しさが、一気に薄れた。
若さって、分かりやすいな。
少年の目にハートマークが浮かんでいるような錯覚すら覚えた。
でも、その人は俺の彼女だから、あげないぞ。
男ばかりのサッカー部員からしたら、美人に見惚れるのも無理はない。
そんな先輩の後ろから、足音を立てずに俺の愛猫がついてきた。
先輩は猫の脱走に気づいていない様子だ。
ファシアの目線は、見たことのない二人の人間に釘付けだ。目はキラキラと輝いている。
嫌な予感がして、さりげなく捕獲する。
「ニャッ……」
「こら、静かにしなさい」
ファシアは、知らない人間に悪戯をしたかったんだろう。手の中で大暴れしていたが、マッサージを始めると静かになった。
少年はずっと先輩の方を目で追っている。
先輩はその視線に気づいて、満更でもなさそうに微笑んでいる。
わざと胸元を見せたり、顔を見つめたりしている。
いたいけな少年で遊ぶのは、やめなさい。
少年はもう話を聞ける状態じゃない。
仕方がないので、俺はコーチの方を向いて、患部の固定方法を説明し、実際にやってもらう。
「ヒノさん、こんな感じですかね?」
「流石です。僕より上手いかもしれないです」
慣れた手つきで患部の固定を終えたコーチ。
さすがプロのコーチだけあって、圧迫は完璧だ。俺が教えることは特になかった。
彼は手早く会計を済ませ、放心状態の少年を引っ張るように連れていった。
静かになった診療室で、ようやく息を吐く。
良い仕事ができた。
あとは、彼がどれだけ真摯にリハビリに取り組むか――それが回復の鍵だ。
「あれ、ヒノくん。なんか不機嫌そうだね。どうしたの?」
少しニヤニヤしながら話しかけてくる先輩。
「なんでもないですよ」
俺は平静を装ったが、感情が少し漏れていたかもしれない。
全くもう。この人は悪戯好きなんだから。
愛猫を撫でながら、俺は小さくため息をついた。




