第32話 サインボールを取り返せ!
大学終わり、今日は予約が入っている。
最近は忙しすぎて、個人でやっている鍼灸院の新規受付を絞っている。
開業当初は、どんなお客さんでもありがたかった。
だが今は、やることが増えて手が回らない。
スポーツ選手以外は、土日にバイトしている整骨院を紹介している。
まぁ、そこで施術に出てくる鍼灸師は、結局俺なわけなんだけど。
ただ、整骨院の仕組みに乗って診療できるので、無駄が出にくく回転も速い。
個人院で一人ひとり丁寧に診るのとは、別の意味で理にかなったやり方だ。
「ま、あっちの院長には世話になっているしな」
バイト先の院長は俺を目にかけてくれている。
客を紹介するのは恩返しの一つでもある。
実は大学の入学金の一部も用意してくれた。俺にとっては親代わりみたいな人だ。
開業したばかりの頃の経営状態は、正直ひどかった。だが今は目に見えて良くなっている。
すべては犬飼選手のおかげだ。
最近は球団事務所やドームに呼ばれることも増えた。
この鍼灸院の通常料金より、犬飼選手は桁違いに金を払ってくれる。
正直、鍼灸院で客を待つより出張した方が儲かる――というのも、予約を絞っている理由のひとつだったりする。
犬飼選手への感謝の象徴として、事務室の机の上にはサインボールを飾ってある。
……はずだった。
手に取ろうとして、違和感に気づく。
「あれ、俺のサインボールは……?」
台座だけが、ポツンと残っている。
部屋を見渡す。隅で、俺の宝物であるサインボールを愛猫が齧っていた。
「あ、ファシアちゃん。そのボールを返しなさい!」
「ニャン!」
捕まえようと席を立った瞬間、ファシアはボールを咥え、隣の部屋に続く壁の穴の向こうへ逃げていった。
今のボールは二代目だ。前のサインボールをボロボロにして、かなり怒ったはずなのに、まったく懲りた気配がない。
まったく、困った猫だ。
「ファシアちゃーん、出ておいで」
「……」
呼びかけても、返事はない。
代わりに、革を引っ掻く嫌な音だけが聞こえてくる。
ファシアは寂しがり屋なので、今日のように鍼灸院に長くいる日は、ケージに入れて家から連れてくるようにしている。
俺の大事なサインボールが……。
穴の前に座って、取り返す算段を練っていると、綾辻先輩がやってきた。
「あれ, ファシアちゃんは?」
「今、逃走中です。先輩が呼んだら、多分出てくると思いますよ」
先輩は少し不思議そうな顔をしたが、素直に壁の穴へ向かって声をかけてくれた。
「ファシアちゃーん」
「ニャッ!」
猛スピードで飛び出してくるファシア。
待ち構えていた俺は、横から素早く捕まえた。
ボールを取り返そうと思ったが、今は持っていない様子。
どこかへ隠したな。あとで捜索だ。
とりあえず、先輩を使った作戦は大成功。
罠にかかった愛猫が、絶望的な顔で俺を見ている。
だが、なぜか全身の力を抜いて、まったく抵抗しない。
「悪い子には、お尻叩きだよ」
「ニャ……」
ファシアをお尻叩きの刑に処していると、先輩が声をかけてきた。
「今日の予約は、サッカーやってる高校生だっけ?」
「そうなんですよ。結構、本格的にやってるみたいで」
冬の高校サッカーにも出場していた将来有望な選手らしい。大阪府代表、つまりかなりの強豪校だ。
以前施術したアスリートからの紹介だ。
実を言うと、俺はサッカー選手の脚を診た経験は、あまり多くない。
「ニャ!」
話していると、いつの間にか、お尻叩きが止まっていたらしい。
ファシアは手を甘噛みしながら、『もっとケツを叩け』と抗議してきた。
お尻叩きを再開すると、気持ちよさそうにニャーニャー鳴く。
……これ、まったく罰になってないな。
先輩は、なぜか羨ましそうな目でファシアを見ている。
この人も、ドM妖精の莉子さんと同じタイプだったりするんだろうか。
そうでないことを信じたいけど……。
先輩の性的嗜好について疑念を抱いていると、声をかけられた。
「ヒノくんは、あまりサッカー選手の治療経験はないんだよね? それでも受ける理由はあったの?」
「まぁ、サッカー選手と言っても肉離れですからね。鍼灸師が日常的に診る、いちばんありふれた怪我です」
肉離れは、筋肉の断裂だ。
筋肉は腱と違って、比較的簡単に再生する。
放っておいても治ってしまうことすらある。典型的なら、六週もあれば元の練習に戻れる。
だからこそ、甘く見られがちだ。
だが、治療は決して簡単ではない。
肉離れは、非常に再発しやすい。
治療のやり方を間違えれば、その選手生命を左右することもある。
そんな説明をしていると、チャイムが鳴った。
「お、来たみたいですね」
椅子から立ち上がった瞬間、ファシアは先輩に奪われた。
先輩は、俺の代わりにお尻叩きを続行している。
……ああ、なるほど。
叩かれたいんじゃなくて、叩きたかったのね。
ウチの恋人が、莉子さんみたいな変態じゃなくて安心した。
ドアを開けると、下半身の筋肉が発達した少年と、付き添いのコーチが立っていた。
「どうも、日野です。よろしくお願いします」
軽く挨拶し、早速ベッドに横になってもらう。
応急処置として巻かれていた包帯を外し、ハムストリングの状態を確認する。
あー、これは完全に鍼灸師の友達、肉離れですね。
さて、どう治療していくか。
肉離れの治療自体は、そこまで難しくない。
だが――それを「二度と繰り返させない」治療は、まったく別だ。
俺は、治療から完治までを体系的に説明したいと思っている。
治療のメリットとデメリットを納得してもらい、その上で着手する。
そして、リハビリ計画まで含めて提示する。
この症例は決して難しくはない。
だが、鍼灸師としての腕の見せ所だ。
彼の脚とその奥にある筋組織を、じっくりと眺め始めた。




