第31話 寿司
綾辻先輩に電話をかけて、球団事務所の前で合流した。
「ヒノくん、お待たせ!」
「じゃあ、ご飯いきましょうか」
先輩は、打ち合わせの内容については何も聞いてこない。
犬飼選手に限らず、患者の話題は基本的に避ける人だ。
俺に守秘義務があることを、きちんと分かっているのだろう。
鍼灸師は国家資格だ。
医師と同じように、法的に強い守秘義務が課されている。
先輩は駐車場に向かって歩いている。どうやら車で店まで行くらしい。
この辺りの店だと思っていたが、少し距離があるのだろうか。
「今日は、どこに行くんですか?」
「内緒! でも、いいところを予約できたんだよ」
しばらく先輩の車に乗る。窓の景色から、大阪城の方向に向かっていると分かる。
車を停めたのは、桜ノ宮駅近くのコインパーキングだった。
そこから歩き出した先輩の進行方向にある建物を見て、俺は思わず足を止める。
帝国ホテル……?
少し身構える。このホテルは大阪でも有数の高級ホテルだ。
この中にある店は、超高級店ばかりである。
「ここのお寿司屋さん、直前だとなかなか予約できないんだよね!」
そう言いながら、先輩は高層階にある寿司店へと迷いなく入っていく。
……いや、ここ、俺でも名前を知っている店だぞ。
銀座の本店は、アメリカ大統領が訪れたことがあるほどの名店だ。
財布の中身を気にしながら、俺は大人しくカウンター席に腰を下ろした。
「ヒノくん、お寿司好きでしょ? 今日は少し早いけど、誕生日祝いさせてね」
確かに、先輩に寿司が好きだと話したことがある。
寿司は好きだが、俺が行くのはもっぱら回転寿司だ。
ここに、俺の大好きなカリフォルニアロールは置いていないだろう。
「ありがとうございます。……先輩、ここ、よく来るんですか?」
「うーん。子供の頃はよく来てたけど、最近は来てないかな」
誕生日祝い、とは言われたが、綾辻先輩と食事に来て俺が支払ったことは一度もない。
何かしら理由をつけて、結局いつも先輩が払ってしまう。
きっと、気を遣われているのだろう。
いつかは、こんな店で当たり前のように奢れるくらい、成功したいものだ。
お任せで次々と置かれていく寿司を味わう。
どれも文句なく美味しい。
……美味しいのだが、正直、今いちばん食べたいのはカリフォルニアロールだった。
もちろん、そんなことを口に出すわけがない。
高級寿司店でカリフォルニアロールを頼むなど、空気を読めないどころの話ではない。
完全にヤバい奴だ。サイコパスだと思われてしまう。
そんなことを考えていると、ポケットの中で携帯が震えた。
犬飼選手からのLINEだ。
――
犬飼 勇:引退試合は22日に決まったわ。当日と2日前に施術をお願いしてええか?
ヒノ:はい、大丈夫です。2日前はどうしましょ? 他に予約がないので、出張できますよ
――
木曜日、祝日か。ホームでの試合はもう残りわずかだ。
選ぶとすれば、ここしかない日程なのだろう。
そのまま先輩と雑談していると、先ほどのメッセージへの返信が来た。
十三まで行くと迷惑をかけるから、球団事務所に来てほしいとのことだ。
……そりゃそうだ。
引退を表明したスター選手、しかも首位打者確実の選手が繁華街に現れたら、騒ぎにならないはずがない。
そこで顔を上げ、先輩に話しかけた。
「先輩、22日の祝日、野球見に行きませんか?」
「予定確認するね……。
いいよ! 最近いっぱいデートに誘ってくれて嬉しい!」
口調は明るかったが、一瞬だけ表情に影が差した。
先輩は聡明な人だ。
今日の会議。
このタイミングでの試合観戦の誘い。
今のLINE。
言わなくても、何があったのか察してしまったのだろう。
俺が少し黙り込むと、先輩は自然に話題を変えた。
「ファシアちゃん、どうしてるかなぁ。あの子、寂しがり屋だから心配だね」
今は二人とも家にいない。
当然、留守番だ。
「あ、ペットカメラで様子見れますよ」
いつもどおり、俺の部屋にいるはずだ。
スマホでアプリを起動すると、キャットタワーの上にいるファシアが映った。
……なぜか、先輩のスリッパに頭を突っ込んでいる。
カメラが起動した音に気づいたのか、スリッパを放り投げてキャットタワーから降りてくる愛猫。
画面いっぱいに顔を近づけてきた。
ぽけっと口を開けたまま、こちらを見つめている。
かわいい。
「えー、ペットカメラあるの? 私もスマホで見れるようにしたい!」
それは困る。
このカメラは俺の部屋に置いてある。先輩が見れるようになったら俺のプライバシーが消える。
話を逸らすように、カメラの機能を説明した。
「これ、遠隔で会話もできるんですよ。
……ファシアちゃん、お留守番できてえらいね」
『ニャッ!』
即座に返事が返ってきた。
今のは「飯くれ」という意味の鳴き声だ。
隣にある自動給餌器を操作して、カリカリを出す。
少し不満そうだったが、食べ始めたのでひと安心だ。
「いいなぁ……私も外出先でファシアちゃんと話したい!
……ファシアちゃん、聞こえてる? もうすぐ帰るからね!」
『ニャッ! ニャ!』
ファシアが、先輩の声に飛び跳ねて喜んでいる。
俺の声との反応の差は、一体なんなんだ。
「ところで、先輩のスリッパ、おもちゃにされてますけど大丈夫ですか?」
「ファシアちゃん、いつも私のスリッパで遊ぶんだよね」
最近、スリッパの片足がいつもどこかに隠されているらしく、先輩はいつも裸足で生活している。
ちなみに、俺はもともと裸足派なのでお揃いだ。
二人で猫の様子を眺めていると、犬飼選手からLINEが来た。
メッセージの内容は出張することへの礼と謝罪だった。
謝らせてしまって心苦しい。
そもそもの原因は、俺の鍼灸院が有名人の訪問に耐えられない立地であることだ。
「ヒノくん、どうしたの? 何か考え事?」
「いや……今の鍼灸院、車でのアクセスがちょっと悪いなって」
アクセスが車で完結しないので、有名人の施術がなかなか難しい。
「駐車場、少し遠いから車で来ると目立っちゃうもんね」
「プロスポーツ選手って、基本的に車移動ですし……」
郊外に移転した方がいいんだろうな。
店の前に駐車場を作って、気兼ねなく訪問してもらえるようにしたい。
「しばらくは今のままでいいんじゃない?
困る人には出張してるでしょ」
そう言ってから、さらっと続けた。
「結婚したら、住居を兼ねた鍼灸院を郊外に建てようよ」
……気が早い。
恥ずかしくなって、聞こえなかったふりをする。
いきなり同棲生活なのもそうだが、この人、どうもスピード感が異常だ。
最近、家のあちこちに結婚情報誌が置き忘れられている怪現象も頻発している。
こちらの反応を窺っている先輩を意図的に無視しながら、出てきた寿司を味わうのだった。




