第30話 宣告
チームドクターが配ったのは犬飼選手のMRIの結果だ。
実はこれらの画像は、事前にメールで送られてきていた。
結果は――酷い。
覚悟していた以上だった。
俺のもとに初めて来た頃よりも、腱の損傷は進行している。
犬飼選手の右肩のMRIでは、真っ白に映っている腱があった。
これが、彼が痛めている棘上筋腱だ。
監督が、資料を手に取ったまま呟く。
「左肩と比べると、右肩は真っ白だな……」
比較用に撮影された左肩と見比べれば、その異常さは素人目にもはっきり分かる。
本来、腱は水分をほとんど含まない組織だ。
それが炎症によって水分を含むと、MRIでは白く映るようになる。
ここまで鮮明に白いということは、それだけ損傷が進んでいるということだ。
この結果は相当悪い。
沈黙を破るように、ドクターが口を開く。
「犬飼選手の棘上筋腱は、今シーズンの初めの時点で、一般的には引退を勧告するレベルの腱板断裂でした」
そう言いながら、ドクターは俺を見る。
「ここまで来ると、普通は肩をまともに動かせないはずなんですが……」
その『動かせないはずの肩』を、無理やり動かしてきたのは俺だ。
腱が壊れれば、人間の脳は筋肉の出力を落とし、患部を守ろうとする。
他の筋肉を使って、動作を代替しようとする。
俺がやってきたのは、それを妨害する行為だった。
壊れかけた腱を無視して、筋肉の出力だけを元に戻す。
損傷を庇うために硬くなった筋肉を、ほぐし続けた。
治療とは呼べない。
患者に対する加害行為だと言われても、否定はできない。
ドクターの説明は続く。
「先週のMRIでは、腱断裂が約60%に達していると推定されます。
ここ一か月で、加速度的に進行しています。もう大部分が断裂している状態だと評価していいでしょう」
腱は、無数の糸を束ねたような構造だ。
断裂が進めば進むほど、一本一本にかかる負荷は増える。
そして、破綻は一気に進行する。
黙って資料を読んでいた犬飼選手が、顔を上げた。
「……それは、来季に現役を続けるのは難しい、ってことか?」
ドクターは、すぐに首を横に振る。
「いえ。もうポストシーズンの出場もできません。
ここでドクターストップをかけます。明日からの試合にも出ないでください」
会議室に、息を呑む気配が走った。
それを意図的に無視するように、ドクターは言葉を続ける。
「なぜこの状態で今のパフォーマンスを維持できているのか、正直よく分かりません。
痛みは相当あるはずですし、普通なら炎症で肩は動かなくなります」
犬飼選手はドクターをしばらく見た後に、こちらを向いた。
「動くんやったら、腱が完全に切れるその日まで、現役続けさせてくれや。
ヒノくんなら、肩、動かせるやろ」
俺は、すぐに答えられなかった。
――できるか、できないか。
問われれば、できてしまう。
俺は、腱が完全に断裂するその日まで、犬飼選手に野球をさせることができる。
「……すみません。そのご依頼は、お受けできません」
犬飼選手の表情が、はっきりと曇った。
この会議に、無理やり俺を呼んだ理由も分かっている。
味方になってくれると、期待していたのだろう。
裏切られたと感じても、不思議はない。
沈黙の中、俺は言葉を選びながら続けた。
「腱は、完全に切れてしまうと手術が難しくなり、予後が悪くなります。
縮んでしまって、再建手術そのものが困難になることもあるんです」
犬飼選手の手術は、シーズンオフに予定されている。
ドクターがここまで強硬なのは、損傷の進行が手術の成否に直結するからだ。
実は事前に根回しも受けている。
一呼吸置いて、続ける。
「選手人生が終わっても、犬飼選手にはその先の人生があります。
医療者の端くれとして、それを犠牲にする選択はできません」
本当は、もっと前に止めるべきだった。
損傷が進んでいることは分かっていたのに、活躍している姿を見るのが嬉しくて、惰性で続けてしまった。
2000本安打を達成した時が、引き際だったのかもしれない。
だが、改めて示されたMRIと、推定される損傷率を見て、考えは完全に変わった。
損傷率60%――あまりにも重い数字だ。
このレベルになると、日常生活の動作だけで断裂が進行する可能性すらある。
再建手術は必須で、これ以上の損傷は手術そのものを妨げる。
コーチ陣から、次々と質問が飛ぶ。
「あと1カード、行けないか?」
「何とかする治療はないのか?」
明日から、優勝をかけた頂上決戦が控えている。
四番で首位打者の犬飼選手を失う損失が、どれほど大きいかは分かる。
だが、チームドクターは一貫してNOを突きつけた。
数試合だけなら?
そう聞かれれば、できるに決まっている。
だが、CSだけ、日本シリーズだけ――と応じていけば、際限がない。
だからこそ、客観的な数値で、機械的に判断する。
それが、最も正しい。
本当は――俺が、もっと早く止めるべきだった。
犬飼選手の脳は限界を感じ、筋肉を止めようとしていた。
それを邪魔し続けたのは、俺だ。
無表情でやり取りを聞いていた犬飼選手が、俺のほうを向く。
「来季とは言わん。今季全部とも言わん。
明日からの三連戦だけでも、肩を動かしてくれへんか?」
「……ごめんなさい。
むしろ、僕がもっと早く止めるべきでした」
会議室の空気が、さらに重く沈んだ。
しばらく俯いていた犬飼選手は、ふっと笑う。
「まぁ、キミがおらんかったら、2000本安打も無理やったしな。
オープン戦の時点じゃ、二軍落ちも覚悟しとった」
そう言ってから、編成本部長と監督を見渡す。
「やっぱり、今オフで引退、ということで……」
そして最後に、俺とチームドクターを交互に見た。
「引退試合くらいは、鍼してもええやろ?」
チームドクターが、小さく頷く。
それを見て、俺も静かに頷きを返した。




