第29話 審判の日
温かい吐息で目が覚める。
目を開けると、視界いっぱいに広がるのは愛猫の筋肉だった。
この子は、筋肉しか見えない世界でも変わらず美しい。
もちろん、毛並みもとても美しい。
俺の顔をペロペロと舐めながら、「早よ起きて餌くれや」とでも言いたげに鳴いている。
「よーし、よし。ファシアちゃんは今日も美猫ですねー」
「ニャン!」
朝から元気いっぱいの愛猫を抱っこしてリビングへ向かう。
キッチンでは、綾辻先輩がすでに朝ごはんを作ってくれていた。
腕の中からファシアはするりと飛び降り、そのまま先輩のもとへ向かう。
料理中の先輩の足に張り付くようにまとわりついている。
この子は本当に、いつも先輩と一緒にいたがる。
昨晩も、先輩の寝室から取り戻すのにかなり苦労した。
「今日の味噌汁は、ヒノくんが好きなジャガイモ入りだよ」
「ありがとうございます」
先輩は最近、寝る前になると、わざとファシアを自分の寝室に入れている節がある。
猫を取り戻すために、俺がマッサージ勝負を仕掛けてくることを分かっていて、やっているのだろう。
ちなみに先輩は戦闘力が激弱なので、今のところ愛猫を取り返せなかったことは一度もない。
「今日は授業終わりに、球団事務所に呼ばれているんだよね?」
「そうなんですよー。なので今日は予定入れてないんです」
犬飼選手の関係者が集まり、肩の状態について話し合う予定だ。
俺は部外者に近い立場だが、犬飼選手の強い希望で、その場に同席することになっている。
「ドームまで送っていってあげるね」
今日は先輩も比較的時間があるらしく、車で送ってくれるらしい。
素直にありがたい。
「ありがとうございます!」
そう話していると、先輩のスリッパを咥えたファシアが、俺の膝の上に乗ってきた。
「ニャ!」
なぜそんなものを咥えているのかは分からない。
だが、期待に満ちた目で俺の顔を見上げている。
もしかして、この子も一緒に球団事務所に行きたいのだろうか。
「猫を連れて行くのは、さすがに許されないかなぁ」
スリッパを取り上げようとすると、ファシアは激しく抵抗し、そのまま逃げていってしまった。
その様子を見て、先輩は苦笑している。
「終わった後、ご飯一緒に食べようよ。おすすめの店があってね!」
「確かに、たまには外で食べるのもいいですね!」
店を予約しとくねー、と言いながら、片足だけスリッパを履いた綾辻先輩がファシアを追いかけていった。
なぜか俺の部屋で、愛猫と恋人がスリッパを巡って取っ組み合いをしている。
どったんばったんと騒ぐ二人(?)を横目に、俺は家を出た。
俺のほうが通学時間が長いので、だいたい先輩よりも先に家を出ることになる。
今日はそれにしても暑い。
同棲を始めてから、気づけばもう三か月近くが経っていた。
暦の上では秋のはずだが、今日も真夏日だ。
タワマンのロビーから駅まで十分ほど歩くだけで、汗が噴き出してくる。
北千里駅から阪急電車に乗る。淡路駅で阪急京都線に乗り換え、高槻市駅で降りる。
およそ四十分の道のりだ。
出口の一つを出ると、目の前にあるのが我らが北摂医科大学だ。
退屈な授業を受けながら、犬飼選手のことを考える。
事前にMRIの資料は受け取っている。
何度も、繰り返し読み込んだ。
犬飼選手の肩は、正直に言って酷い状態だ。
最近では、俺の鍼治療の効果も明らかに短くなってきている。
週に二回も施術する必要が出ているほどだ。
本当は俺も、彼の肩の状態が末期的であることは分かっていた。
何度も、施術を続けるべきではないと提言してきた。
それでも最終的には、彼の熱意に押し切られる形で、鍼を刺し続けている。
「……でも、さすがに引退を宣告しないわけにはいかないよな」
俺は、小さくそう呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
授業が終わると、綾辻先輩が大学まで迎えに来てくれた。
指定された駐車場に車を停め、球団の事務所へ向かう。
ドームのすぐ近くだ。
ドーム周辺には、犬飼選手の顔が描かれた垂れ幕がずらりと並んでいる。
犬飼選手は今季、目覚ましい活躍を見せていた。
2000本安打を達成してなお、その勢いは衰えていない。
むしろ、ここにきてさらに調子を上げているようにも見える。
打率.321、本塁打21本。
名実ともに、チームの顔だ。
このままいけば首位打者はほぼ確実。
規定打席も十分に満たしており、極端な話、残り試合をベンチで過ごしてもタイトルは取れる。
衰えたと思われていた生え抜きが突然復活し、四番の座を実力で奪い取った。
俺を含め、ファンが喜ばないはずがない。
チームは現在二位。
すでにクライマックスシリーズ進出は決まっている。
一位との差は僅かで、明日から始まる直接対決ですべてが決まる、と言われていた。
「先輩、会議が終わったら電話しますね!」
「はーい。喫茶店で待ってるね」
最近は来る頻度が増えたせいで、顔パス同然になっている入り口を通り、球団事務所に入る。
指定された会議室には、顔馴染みになったチームドクターとトレーナーが座っていた。
一軍の監督と打撃コーチの姿もある。
もう一人、初対面の男性。
だが、どこかで見たことのある顔だった。
名刺を交換して、その理由が分かる。
編成本部長。
球団編成のトップであり、全選手の人事に責任を持つ役員だ。
このクラスの選手になると、ここまで出てくるのか。
室内は、重苦しい空気に包まれていた。
本当に俺がここにいていいのだろうか。
この会議は、かなり機密性が高い。
俺が呼ばれたのは、犬飼選手の強い要望だと聞いている。
そう思うと、信頼されているのだろうと感じて、正直うれしい。
だからこそ、心苦しい。
これから彼に伝えなければならない結論を思うと。
ほどなくして、犬飼選手が入室した。
今日の会議の結果次第で、選手生命が終わってもおかしくない。
そんな状況だというのに、彼は笑顔だった。
「ヒノ君。今日は来てくれてありがとう。
全員揃ってるかな? じゃあ始めようか」
その言葉を合図に、チームドクターが資料を配り始める。
一人の野球選手の未来を決める会議が、静かに始まった。




