第26話 背中の痛み
「ヒノくん〜、今何しているの!」
今日の先輩はやたらご機嫌で、座っている俺の背中に抱きついてくる。小ぶりな胸が押し当てられた。
仕事部屋でファシアと遊んでいた綾辻先輩に、思い切って「付き合おう」と言った結果が、これだ。
少し笑顔のままフリーズしていたが、すぐに俺の手を取ってオッケーされた。
告白してからというもの、ここ数時間ほど猫可愛がりされ続けている。
どうも俺の扱いが、ファシアと同列になっている気がする。
立場を取られたと思っているのか、愛猫がずっと俺のズボンを引っ掻いて抗議している。裾がほつれてきたので、正直やめてほしい。
「もうずっと告白してくれないのかと思ってたんだけど……どうしたの急に」
「まぁ、ちょっと色々と思うところがあって」
足元で抗議を続けるファシアがいい加減うっとうしくなってきたので、持ち上げて先輩に渡す。
先輩は反射的に受け取り、何事もなかったかのように撫で始めた。
……やっぱり俺と扱いが同じな気がする。
「ところでヒノくん! 恋人同士なんだから『綾辻先輩』って呼ぶのはおかしいでしょ!
『美咲』って呼びなさい」
「えー、先輩だって俺のこと苗字で呼んでるじゃないですか……」
ヒノくんはヒノくんだからいいの、と先輩は当然のように言い切った。理不尽だ。
「ところで二人でどこに住む?
今私が住んでるマンションはどうかな?
ちょっとヒノくんの大学までは通いにくいんだけど」
ごめんねー、と軽く謝る綾辻先輩。
……もう同棲前提なんだ。
まあ、付き合う前から半同棲みたいなものではあった。
仕事がない日でも、先輩はよく仕事場に顔を出していたし、俺の部屋にも、しょっちゅう入ろうとしていた。
キラキラした目で「いいよね?」と言わんばかりに見られると、なかなか弱い。
本気で同棲したがっているようなので、それに応じることにした。
とはいえ、もちろん準備があるから、すぐにというわけにはいかない。
その後も綾辻先輩は、ずっとくっついてきた。
テンションが上がっている先輩を見るのは面白いし、正直ドキドキもする。
そんなことを、どこか冷静に考えている自分がいる。
胸を押し付けるように抱きついてくる先輩は、少し顔が赤い。
恥ずかしいなら、やらなきゃいいのに。
綾辻先輩が大好きなファシアの、嫉妬に満ちた鋭い視線を受けながら、
タガが外れたように俺を猫可愛がりしてくる先輩の相手をするのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
名残を断ち切るように、くっついてくる先輩の相手をファシアに押し付けて、俺はバイト先の整骨院へ出勤した。
今日のシフトは矢野さんだった。
矢野さんは、俺と仲のいい女性の整体師だ。
結構な美人で、実は彼女目当ての常連も多い。
バックオフィスで予約の確認をしていると、矢野さんが声をかけてきた。
「あれ、ヒノくん。今日は機嫌良さそうだね。彼女でもできたの?」
「えっ……まぁ」
いきなり図星を突かれて狼狽える。
矢野さんは目を見開き、口に手を当てた。
「えー、ヒノくん狙ってたのになぁ」
いや、あんたは彼氏と同棲しているだろ。心の中でツッコミを入れる。
一度、近くのスーパーで会ったことがあるが、ラブラブな美男美女カップルだった。
俺は高校卒業後すぐに、この整骨院でバイトを始めた。
多分、矢野さんは俺を弟のように思っている。
最近では、ラーメン屋への同行をひたすら要求してくる。
特に駅の東口にできた二郎系がお気に入りで、アプリでポイントまで貯める気合いの入りぶり。
「ねぇねぇ、彼女さんどんな人なの? 写真見せてよ」
「仕事の準備してるんで、また後で!」
ウザ絡みを適当にかわしていると、午後の営業が始まった。
今日の矢野さんの予約は、びっしり埋まっている。
この人は、うちの整骨院で一番人気だ。
女性というのは整体をする上で明確に不利だ。力が足りない。
それを跳ね除けて活躍しているのは、間違いなく矢野さんの人柄、そしてテクニックによるものだろう。
「ヒノくん、ちょっとこっち来てくれる?」
一時間ほど鍼の予約がなく、のんびりしようと思っていたところで呼び出しがかかった。
矢野さんからのヘルプ要請だ。
患者は矢野さんのところによく来る常連だった。
派手な金髪の、若くてかなり痩せた男性。年は二十代半ばだろうか。
職業はホストらしい。主訴は、背中が急に痛くなったというものだ。
「ヒノくん、この症状どう思う?」
まずは肩の筋肉を順番に見ていく。
肩には十七種類の筋肉がある。人の複雑な動作を支えるためだ。
急性の痛みが出やすいのは、ローテーターカフと呼ばれる肩の回転を司る筋肉群。
肩の構造は複雑で立体的だ。表面から順に、見落とさないよう確認していく。
「うーん、肩の筋肉には問題ないですねぇ」
俺の目から見ても、触ってみても、彼の肩は健康そのものだ。
急性の痛みは、大概二パターンに分かれる。
強い炎症か、急激な筋収縮。そのどちらも、俺の目には鮮明に映るのですぐに分かる。
「背中に急性の痛みが出るってのは、あんまり聞かないですし」
「触った限り、背中も問題なさそうね」
一応、主訴である背中の筋肉も確認する。
後回しにしたのには理由がある。ここは急性の痛みが起きにくい部位だからだ。
どちらかといえば、広い範囲で慢性的な痛みが出ることが多い。
「何かの関連痛が起きているんでしょうかね」
一旦、そう仮の結論を出す。
そこから、内臓群を見ていくことにした。
人間の痛みというシステムは、よく出来ている。
ただし、誤認も多い。
心筋梗塞の痛みが肩や上腕に出るのは、その典型例だ。
だが、彼の心臓は元気に動いているように見えた。
そんなことを考えながら、不可解な背中の痛みを訴える患者に、改めて目を凝らした。




