第23話 球場観戦 前編
大阪・大正駅の近くにあるドーム球場にやってきた。
球団スタッフに先導され、観客席とは切り離された関係者用通路を進んでいく。
静かで、人の気配がほとんどない。無駄に広い通路が、やけに長く感じられた。
今日は犬飼選手からの招待で、このドームに来ている。
もちろん、遊びに来たわけじゃない。
試合直前の鍼の施術を頼まれていた。
俺のやっている治療は、あくまで一時的なものだ。
長くても一週間ほどで効果は薄れていく。
移動や他院での治療スケジュールの関係で、どうしても通院が間に合わないらしく、融通の利く俺に声がかかった、というわけだ。
施術後は綾辻先輩と一緒に試合を観戦する予定になっている。
ちなみに先輩は、授業の都合で試合一時間前からの合流だ。
だから今は一人で歩いている。
最終的に案内されたのは、メディカルルームだった。
ベッドが何台も並ぶだけの、がらんとした部屋。
どこか学校の保健室を思わせる雰囲気だ。
犬飼選手を待つ間、自然とメディカルスタッフと雑談になる。
「へぇ、ヒノくんは鍼灸師の資格を持ってる医学生なんだ。それは珍しいね」
「まぁ、あまり見ない経歴ではあると思います」
トレーナーは柔道整復師の資格を持っているらしい。
あとはスポーツ関連の民間資格をいくつか。
普段バイトしている整骨院で一緒に働いている人たちと、だいたい同じ畑の人間だ。
話していると、裏で待機していたチームドクターまで寄ってきた。
医者というのは、わりと医学生が好きな生き物だ。話に入りたかったんだろう。
「北摂医大の学生なんだ。あそこ、アクセス良くていいよね」
チームドクター、トレーナー、俺。
三人で話しているうちに、いつの間にか即席の勉強会みたいになっていた。
選手個人が依頼した鍼灸師が現場に入ることは珍しくないが、医学生が来るのは初めてらしい。
話が盛り上がってきたところで、ドアが開いた。
「お、ヒノくん。わざわざありがとうな。なんか話が盛り上がってそうやね」
犬飼選手だった。
早速ベッドに横になってもらい、その周りを俺と医療チームの二人が囲む。
この部屋には本格的なエコーの機械もあったので、腱の状態を一緒に確認する。
「……棘上筋腱の損傷、少し進行してる気がしますね。ドクターはどう思います?」
「エコーじゃちょっと不鮮明で分からないかな。
僕としては競技中止して欲しいんだけどね」
気づけば、自然と議論になっていた。
争点は鍼治療の効果だ。
「前からトリガーポイント注射はしてるんだけど、正直あんまり効かなくてね」
チームドクターは経験豊富な整形外科医だ。
だが、整形外科のアプローチも万能じゃない。
こういった筋収縮に対する基本的な対策は、局所麻酔注射になる。
腱の損傷を脳が検知するのを、麻酔で一時的に誤魔化す。
それに加えて、トリガーポイント注射。これは鍼に近い考え方で、筋肉のしこりを直接狙う。
もちろん、効果はある。
ただ、犬飼選手の場合は筋肉の防御性収縮が強すぎる。
黙って俺たちの議論を見守っていたトレーナーが口を開く。
「日野さんは、鍼で筋肉の反射を使って緩めるんですね。でも、それだと効果時間は短くないですか?」
その通りだ。
俺の予想では、長くても二日ほどで防御性収縮は戻る。
だが、実際には一カード――つまり半週間ほど効果が持っている。
「先生のヒアルロン酸とトリガーポイント注射のおかげで、筋肉がまた硬くなるのを防げてるんじゃないですかね」
脳の誤認を利用して反応を抑える整形外科的アプローチ。
そして、直接筋肉を緩める鍼。
まったく異なる方向からの併用治療だ。
それがいい具合に作用して、効果を長引かせているのではないだろうか。
「ステロイド注射は、このレベルでも避けます?」
ステロイド注射は、炎症を抑える非常に強力な薬だ。
一時的に防御性収縮も解除できるが、その代償として腱や筋肉を壊しかねない。
ちなみに筋肉増強剤のアナボリックステロイドとは別物である。
「アスリートにはリスクが高すぎる。僕は使わないね。ドーピング規定的にも、厳密にはアウトだし」
NPBだとほぼバレないけどね、とドクターは小さく付け加えた。
整形外科では一般的な治療でも、スポーツの世界では別の意味を持つ。
スポーツ医学は、まだまだ奥が深い。
俺たちの話が盛り上がっている間、犬飼選手はずっと半笑いだった。
「はよ治療してくれへん? もうすぐ俺のバッティング練習の番やねん」
どうやら、我慢の限界に来たらしい。
「はいはい。じゃあ、いきますね」
俺は目を凝らす。
凝り始めている筋肉、その中心にあるしこりを正確に捉える。
ミリ単位のズレも許さず、鍼を刺す。
刺すたびに、犬飼選手の身体が反射的に小さく揺れた。
一つ一つの筋肉を見極め、緩めすぎないよう調整する。
「……はい、終わりです」
「ほな、行ってくるわ」
犬飼選手はそう言って、部屋を出ていった。
犬飼選手の6月時点での打率は.270。
DHとしては物足りなくても、簡単に切られる成績ではない。
2000本安打まで、残り30本。
豪快なスイングも戻ってきている。
貧打に悩むチームにとっては、貴重な存在だ。
閉まったドアを見つめながら、俺は小さく呟いた。
「……犬飼選手、2000本安打、行けるといいですね」
「今のフォームなら行けると思いますよ。スイングスピードも、可動域も、かなり戻ってます」
そうだといいですね、と頷きながら今日の試合を思う。
今日はスタメン出場と聞いている。
犬飼選手の肩が今日も持ちますように。願うのはそれだけだ。
沈黙を破るようにチームドクターが話しかけてきた。
「日野くんは、西洋医学的な言葉で説明してくれるから僕達にも分かりやすいね」
「そう言ってもらえると助かります」
俺は基本的に、東洋医学的な説明を避けている。
経穴やチャクラといった言葉を出しても、今の時代は納得されにくい。
鍼灸は経験医学だ。古来から術者の権威によって患者を納得させてきた。
だが、現代の患者はエビデンスを求めている。
それは医師でも、鍼灸師でも同じだ。
だから俺は、できる限り西洋医学的な言葉で説明する。
エコーで治療前後を見せ、納得してもらう。
特にスポーツ医療は、健常者を相手にする分、要求が厳しい。
コストに見合う効果があるか。
それを説明できるようにする。患者自身に判断してもらう。
難しい挑戦だ。
だが――それが、俺の進みたい道だ。




