第15話 満身創痍のアスリート
俺は大学から帰ってきてから、ずっとソワソワしていた。
ファシアもそんな俺につられたのか、足元で落ち着きなくウロウロしている。
そんなファシアを抱き上げて撫でながら、なんとか高揚した気持ちを落ち着かせた。
ただの予約客なら、ここまで動揺しない。
今日は、特別な客が来る。
俺が昔から大好きだったプロ野球選手。
高校時代、何度も勇気づけられた選手だ。
そんなことを考えていると、腕の中でファシアが身をよじらせた。
「どうしたの、ファシアちゃん?」
「ニャッ!」
そうしていると、隣の部屋から鍵が開き、ドアが開く音がした。
その瞬間、ファシアは腕の中から飛び降り、仕事場に通じる壁の穴へ、一目散に走っていく。
あぁ、なるほど。綾辻先輩が来たんだな。
ファシアは、先輩のことが大好きだ。
一旦アパートの廊下に出て、隣の部屋にある仕事場に入る。
ドアを開けると、隅にある更衣室から声が飛んできた。
「あっ、ヒノくん。今、着替えているからちょっと待ってね」
「ニャッ!」
先輩は施術着に着替えているらしい。
今日の予約は一時間後だ。やけに早く来たと思ったら、福利厚生のマッサージをご希望らしい。
愛猫の声も、更衣室から聞こえてきた。
ファシアが先輩の着替えを見ていると思うと、少し羨ましい。
高校時代は、先輩のことも筋肉の塊にしか見えていなかった。
だから、気軽にマッサージをして、雑談もできていた。
でも、テレビでも見たことがないほどの美人だと知ってからは、どうにもドキドキしてしまう。
ドアが開き、施術着に着替えて少し肌の見える姿になった先輩が出てきた。
後ろには、我が愛猫が従っている。
なんだか、いい匂いがする。
香水だろうか。でも、それならファシアが嫌がりそうなものだけど。
「今日はマッサージお願いしたいんだけど、いい?」
そう言いながら、先輩は施術用のベッドにうつ伏せで寝始めた。
疑問形ではあるが、断られるとは一ミリも思っていない様子だ。
というか、もう施術着に着替えているし。
なぜか、ファシアもその横でコテンと仰向けになった。
足を交互に動かしながら、マッサージを催促する体勢だ。
美女とかわいい猫。絵になるなぁ。
ファシアを片手でマッサージしながら、先輩の筋肉の状態を見ていく。
今日は全体的に調子がいい。肩だけ、少し張っているかもしれない。
「主訴は肩凝りでいいですかね?」
「それでお願い!」
施術に入ろうとしたところで、先輩がうつ伏せのまま話しかけてきた。
「今日予約してくれている犬飼さんは、ヒノくんが好きな球団の選手なんだっけ」
「そうなんですよ。昔からファンで。
ここ数年は出場機会が少ない選手なんですけど、今でも代打でピリリと活躍してくれます」
開業してすぐに、こんな大物の施術ができるとは思っていなかった。
プロテニスプレーヤーの山本さんの紹介だ。大学の先輩後輩の関係らしい。
「でも、あまり聞いたことのない選手かも」
「ウチの球団自体が、あまりメジャーじゃないですから」
応援している球団は、大阪を本拠地にしているはずなのに、俺の知り合いにファンはほぼいない。
関西といえば甲子園の球団が圧倒的で、本当に影が薄い。
知名度はともかく、犬飼選手は素晴らしい選手だ。
かなり前だが本塁打王も獲っている。レーザービームとも称された強肩。
一時期は推定年俸二億を超えていた。
生え抜きの選手で、ファンの支持も厚い。
「それに、今年中の二〇〇〇本安打も確実って言われてるんですよ!」
「へぇ! 二〇〇〇本安打! すごいね!」
綾辻先輩は心の底から驚いたような声を返してくれる。
もっとも、この人は生返事に感情をたっぷり乗せるのが上手い。
先輩は、あまり凄さが分かっていなさそうだ。
ふと、ファシアの鳴き声が聞こえないことに気づいた。
「……」
見ると、ファシアは舌を出してピクピク痙攣しながら、完全に昇天していた。
少しマッサージをやりすぎたらしい。
先輩と話しながら、無意識に手が動いていたようだ。
まぁ、いいか。そのうち復活するだろう。
「じゃあ、施術を開始しますね!」
今日の先輩の肩凝りは、ほどよく僧帽筋の中部繊維を解しておけば十分だ。
施術着の上から、ブラ紐の少し上にある筋肉の隙間へ指を入れて、丁寧にほぐす。
「あっ……」
先輩が色気のある喘ぎ声で反応する。
「ちょっと先輩、その声やめてくださいよ」
たぶん、この人は俺の反応を見て楽しんでいる。
「だって、ほぐれる感じ、気持ちいいし……」
マッサージの「効いている感じ」は、筋肉がある程度緩んでからでないと出ない。
先輩の肩は、状態としてはかなり良好だ。
「やっぱヒノくんのマッサージは最高!『神の手ヒノ』は伊達じゃないわね」
「ありがとうございます」
あらかた終わる頃には、ファシアも復活して、先輩の腰のあたりでフミフミしていた。
すっかり助手気取りだ。
「はい、終わりです。腰はファシアちゃんが担当してくれたみたいですね」
「えー、腰とお尻もヒノくんにマッサージしてほしかったのに」
「もう、あんまり揶揄わないでください」
先輩が起き上がってベッドに腰掛けると、ファシアは当然のようにその膝に飛び込んでいく。
一応、この子は俺の猫のはずなんだけど。
「じゃあ、奥で事務作業しておくから、会計の時に呼んでね」
ファシアを抱えて事務室へ向かう先輩を見送り、俺は施術の準備に戻った。
しばらくして、部屋のチャイムが鳴る。
時計を見ると、約束の時間より少しだけ早い。
「はーい、開けますね!」
ドアを開けた瞬間、視界を塞ぐように大柄な男が立っていた。
分厚い胸板に、広い肩幅。
さすがはプロ野球選手、と一瞬思う。
次の瞬間、俺は息を呑んだ。
……この人ほど酷い状態の肩をした人を、俺は見たことがない。
右肩周りの筋肉は萎縮し、一部はすでに機能を失っている。
それ以上に深刻なのは――肩の腱板の酷い損傷だった。
「……犬飼選手。今日は来ていただいて、ありがとうございます」
なんとか絞り出した挨拶。
損傷した腱は、二度と元には戻らない。
野球選手にとっての生命線は、あまりにも危うい状態だった。本当に現役選手なんだろうか。
さっきまで胸を満たしていた高揚は、一瞬で消え去る。
これから始まる激戦の予感に、俺は犬飼選手の肩から目を離せなかった。




