そこを進めば誰かが待っている。
「っ……ぁ?」
何が起きたのか。白飛びした視界を瞬きでリセットし、目を開く。その光景はとても一回の瞬きの間に理解できるようなものではなかった。
目の前で散りゆく火花の先に、なぜか奴の姿がある。1メートルにも満たない距離だ。
そしてその顔面に、幾本もの針金を絡み合わせて作られた鞭が、右腕から放たれていた。
「ぅあっ!? 何!?」
理解できない状況ということを理解し、あたふたしながら背後に下がる。
相手も同じく、二つの意味で面を食らったからか、天を仰ぎながら数歩後退した。
状況を整理する。
一瞬よりもずっと速く、感覚だけで言えば光に匹敵するほどの速さで奴は間合いを詰めてきた。目的は攻撃で間違いない。
それを防ぐために針金は動いたのだろう。気づいた時には勝手に腕が振り上がり、鞭を放っていた。
あの速度――、脆い人体なんて一撃だ。当たり所によっては即死、運がよくても致命傷、どっちにしろ避けるか針金に受けてもらうかの二択になる。
「いや避けんのは無理か、全然見えなかったし」
ならば針金に防いでもらうしかない、と思いきや、どうやらそれもあと数回が限界らしい。
地面に歪な断面の針金が散らばっている。
袖から伸びる針金の先を確認すると、鞭の一部が欠けていた。散らばっているのはこの欠けた部分だろう。
恐らく硬度が違う、相手の金属の方が数段硬いのだ。このまま防いでもいずれ限界が来る。
奴の不気味な顔が再びこちらに向けられる――。その顔には傷一つなかった。
火花が散るほどの一撃だったにもかかわらず、まるで効いていないように見える。
「効いてないな、やばいぞ針金」
何もできない人間からの無責任な言葉。
その言葉にムキになったのか、それとも作戦か、突然針金と共に右腕が暴れだし、人間であれば死んでもおかしくない一撃を、連続で三発、奴に浴びせかけた。
一撃加えられるたびに一歩奴は後退するが、相変わらずダメージを受けている様子はない、人間でいえば少し強めに押された程度なのだろう。
しかし、針金はあきらめず攻撃を続ける。
この隙に行けというならばそれは無理だ。とても突いていい隙じゃない。
後退する歩幅が徐々に縮んでいく、もし知能がある場合、無意味と学習されて状況をさらに悪くする可能性がある。
このままではまずいと、文字通り身を削りながら攻撃を続ける針金を叫びながら制止した。
「ちょっと待って意味ないって! 体無くなるよ!? あとこれ肩外れそうでこわい!」
喚くように訴えるが効果はなし、攻撃の手をやめる気配がない。
ところが――、針金が9発目を打ち込もうとした時、横ざまに薙ぎ払った一撃が直前で躱された。
それだけでは終わらず、すかさず奴は手を伸ばし、躱した針金を追いかけるように掴んだ。
「あ」
右腕が固まり、動けない。捕まってしまった。
針金は自らを揺らし、奴の腕から離れようと試みている。つまりこれは想定外、どうやらしでかしてしまったらしい
とてつもなく悪い予感がする――
「……あ、これまずいぞ! 針金! 今すぐこれ伸ば――」
頭によぎったその光景は、すぐに現実になった。
針金によるものとは違う、上半身が横に引っ張られる感覚。というより、重力を横向きにされたかのような――
「うぁぁああああ!!!」
体は宙に浮き、周回軌道上をなぞる星々の様に、凄まじい速度で奴を中心として公転し始める。
だが、それは一周を迎える前に、終わった。
掴まれた針金が離され、体に残った勢いそのまま、フェンスへと激突した。
そう、錆びだらけであまりにも頼りない、もたれかかっただけで壊れてしまいそうなフェンスに。
「グッ……、――エ゙ッ!!」
いいのか悪いのか、そこまでの痛みはなかった。
代償として、体がフェンスを突き破り、横向きの重力が徐々に元に戻っていく。
何とか左手を伸ばし、残ったフェンスを掴むが、それすら砕け、体が地面に吸い込まれる。
その時――、奴の手から離れた針金が投網のように広がり、掴めるだけのフェンスを掴んだ。
おかげで一瞬落下が和らいだが、残念ながら止まるには至らなかった。
頭の上で鳴る弾けるような金属音と共に、数メートルの落下が一時の停止を挟みつつ繰り返される。
針金を両手で掴み、着地に備え体勢を整えた。
そして地面から約2メートル離れた地点で、掴んでいたフェンスの最後の一本がちぎれる。
「ウゥッ~……ガァッ……!」
なんとか落下に近い着地を成功させた。
両足を同じタイミングで地面につけ、衝撃を吸収できるよう膝を曲げる理想的な着地。
それでも足から腰に掛けて、響くような痛みが通過していく。だが結果オーライ、恋しかった大地に再び触れることができた。
痛みを呼吸で逃がしながら屋上を見上げると、激しいモーター音を鳴らしながら奴がこちらを見下げている。
――逃げ切れるはず。
「……じゃ、じゃあなブス!!」
そう捨て台詞を吐き、道路に向かって疾走する。こうして、人生史にに刻まれるであろう逃走劇が始まった。
道路に出た瞬間、目の前にあった車が落石に巻き込まれたかのように部品を散らしながら盛大に潰れる。
誰の仕業かなんて言うまでもない。
「おぁっ……ととっ!」
すぐさま方向を変え、路地裏へと逃げ込んだ。
直線だとすぐに追いつかれる。
そのため何度も突き当りを曲がり、距離を取ろうと試みた。が、曲がるたびに背後で轟音が響き、まったく距離が縮まっていないことがわかる。
この路地も無限に続くわけじゃない、別の路地に入るとしても一度は開けた場所に出ることになる。
「めっちゃくちゃ追ってくる!! あぁっ~しんどい! なんかいい方法……え、なにここ……」
入り組んだ路地から歩道に出た。
その先には、一見するとなんの変哲もない中央分離帯で分けられた二車線道路があった。
見慣れてきた光景であるにも関わらず、奇妙な違和感を感じ止めてはならない足を止めた。
ただの道路だ。真ん中が崩れた歩道橋、柱が折れて倒れたビル、窓が割れた車。
見てきたはずなのに、どうしても拭いきれない違和感が――
いや――、今は気になったことにいちいち首を突っ込んでいい状況じゃない。
我に返り、再び走り出そうとした時、背後で轟音が轟いた。
振り返る余裕などない。直線状に飛んでくるであろう鋼鉄の体躯を避けるため、右手に見える硬いコンクリートにダイブした。
水平に飛んでいく黒い人型は、風を巻き起こしながら正面のビルの柱へと頭から激突した。
――なぜかビルは砕けなかった。液体の様にへこみ、奴の頭突きを受け止めている。
「ん……!?」
激突した奴の頭部が沈み込み、ビルがみるみる内に液体の様に変化していく。
針金とうさ耳人型ならまだ機械として納得できたが、今回はそうもいかない、あれは完全にファンタジーの住人だ。
この瞬間、図らずしも先程の違和感の正体に気づいた。
崩れた歩道橋の下、柱の折れたビルの下、車の割れた窓の下、改めて見ると、落ちているはずのものが無い。
歩道橋の残骸、ビルの瓦礫、割れた窓の破片が、それぞれ掃除されたかのように無くなっている。
この場所に人間がいるとしてもこの行為の意味が分からない。ならば考えられるのは、これをやったのは人ではないという事。
答え合わせはすでに視界の中で行われていた。
黒く汚れた水で形成されているが、透明感があり中身が透けてみえる。
形容するとすれば、巨大なゲル状のモンスター、又は巨大スライム。
内部にコンクリートの破片や鉄骨、何やらキラキラしたものも見える。恐らくこの付近の瓦礫を飲み込んだのは奴だ。
本来ならLV.1の、小さくか弱いモンスターとして出てくるべきだが――、あのサイズはおかしい、これがタイムスリップではなく、異世界転生だとしても、あのサイズはおかしい。
それ以前にここは文明崩壊後の現実世界――全て間違えてしまっている。
しかし、状況は好転した。
追ってきたうさ耳は、突如現れた巨大スライムに食われ、身動きが取れない。
運が良ければ一生あのまま動けない可能性だってある。
新たに表れた巨大スライムはそのうさ耳を取り込むことに必死――、には見えないがとにかう動かない。
「失礼しました~……!!」
再び逃げるチャンスを得た。
路地裏に戻り、先程とは違うルートで入り組んだ道を進む。反対方向を意識しながら、とにかく奴らから離れる。
道路に出ればその向かいの路地に入り、また道路に出ればさらに別の路地へ、喉から血の味がするまで走り続けた。
「ハァ~……! 疲れた……!」
息を切らしながら、薄暗い路地裏に腰を下ろす。
かなり距離を離したはず、ひとまず安心――していいのだろうか、短期間で2体、針金を含めるなら3体出会った。
あれ以外にもいる可能性が高い、下手に動けばまた新たに出くわす可能性がある。
「参ったな……絶対他にもいるぞ、てか……お前もか、お前らってほんと何……?」
カーディガンの前立てを開け、久々に鉄片と顔を合わせる。
「……まぁでも、助かったよ、掴まれたときは焦ったけど……、何はともあれ、お前が居なかったら逃げ切れなかった。ありがとうございます。」
頭を下げ、感謝を述べた。
呼吸が整い始め、脳に酸素が回ってきた。ふとあの件を思い出す。
「――あ、そういえば名前……、考えんの忘れてたな何にしよう」
ビルから出ても針金が離れなかったら付けようとしていた名前、度重なるイレギュラーで考える暇もなかった。
こんなに助けてもらったのだ、こちらからも何か与えるのが礼儀だ。
「う~ん……迷うな、やっぱ意味ある名前の方がいいよね……」
熟考の末、長い付き合いになるであろう針金に、決定した名前を伝える。
「じゃあ……レヴィ――、レヴィ・ヴァイヤーにしよう。」
そう告げた瞬間、針金もといレヴィはカーディガンから飛び出した。
そして一瞬糸玉のようになったかと思うと、勢いをつけて胸に飛び込む。背後に針金を回し、幼い子供や犬猫のような上目遣いで鉄片をこちらに向けた。
「おぉびっくりした。気に入った?」
名前をつけたことによるものなのだろうか、喜んでいるように見える。
レヴィを手に抱え、名前の意味を伝えた。
「昔弟と飼ってた金魚の名前だよ、レヴィとアタンを飼ってたんだけど、レヴィは飼って三日目で死んだ。だから俺にとってこの名前はあんまいいイメージがない、でも……だからこそいい。俺の家は少しネガティブな意味を持つ言葉を名前に付けるんだ。なんか名前の意味を変えるほどの人間になってほしいからだって……、。ちなみにヴァイヤーは苗字、お前だけのオリジナル。……んで、俺の名前が――」
「――何してるの?」
籠った少女の声だった。
声がしたのはこの路地の入口から、レヴィと共にその方向へ顔を向ける。
「え――」
そこにあったのは、顔をフルフェイスのヘルメットで覆い、袖なしの黒く土で汚れたポンチョを纏った人型のシルエット。
身長は140前後、先程の声色的にも恐らく子供だ。
ポンチョの丈は膝まであり、5つあるボタンの内、首元のボタンのみが留められている。
膝から下はサイズの合っていない都市迷彩のミリタリーズボン、そしてなぜそこだけラフなんだと言いたくなるような白基調のスニーカー。
人間――、でいいのだろうか。
そんなことを考えていると、再び少女の声が聞こえた。
「なんで答えない……?」
答えないことを疑問に思ったようだ。
レヴィを抱き寄せ、座ったまま対応する。
「あぁー、すいません……、えっと……走って疲れたから休憩してました。」
聞きたいことが山ほどある。
だが聞けなかった。うさ耳やスライムの時ほどでないが、この少女からは『脅威』を感じる。
「なるほど……、――ここに入ってから何時間たった?」
「入ってから……? 大体一時間くらい? です。」
『入ってから』ニュアンス的にナワバリや立入禁止区域を意味している可能性がある。
タイムスリップしてきたという一言ですべての説明が終わるが、ここは事を荒立てないため、不自然にならない範囲での返答を心掛けなければならない。
「嘘ついてない?」
「もちろん」
数秒の沈黙の後、少女はポンチョの隙間から手袋がはめられた左手を露わにする。その手はトランシーバーが握られ、送信ボタンが押されていた。
「ルーク、クローラーを見つけた。完全な人間のイミテーションだと思う。言葉通じてるし、相当頭いいよ。アモルファス型のクローラーを従えてるように見える。多分――モジュールによるもの。初めていい? ――わかった。」
唐突に知らない言葉がいくつも羅列された。
何かの確認を取るように、トランシーバーの向こうにいる誰かに連絡したようだ。
「討伐を開始する。」
意味を知っている単語が聞こえた。状況がよくない方に向かったことが察せられる。
――少女のポンチョから右手が現れた。
「あぁ、やばい」
その手には、扁平で滑らかな凹凸の少ない形状をした小型サブマシンガンが握られていた。
サプレッサーが取り付けられた銃口はこちらに向けられ、引き金に指がかかっている。
「――レヴィ……!!」
カーディガンの表面を走るようにレヴィが覆う。直後、サプレッサーで抑えられた銃声が路地裏に響いた。
レヴィは何本かの針金を犠牲に弾丸を逸らし、数十発の弾丸を壁と地面に着弾させる。
「おぉすげぇ! マジか!」
想像以上にうまく行ったことで、思わず歓喜の声を上げる。
「そっちのモジュールはそういう感じか……」
少女は慌てる様子もなくそうつぶやくと引き金から指を離した。
ガタついたクラウチングスタートで、後方に見える扉に向かって走り出す。
なにか勘違いされているようだが、説得は不可能だろう。いきなり銃を乱射してくる人間に言葉が理解できるとは思えない。
もはや人間であるかも怪しい。
「レヴィあれ開けて!」
伸ばした手を伝い、レヴィの針金が扉についていた鍵穴に飛び込む。
どうやらカギはかかっていなかったようで、レヴィはそのまま錆びついた扉を開扉する。
トランシーバーに向かって何かつぶやく少女を尻目に、ビルの中へ入室した。
「いや……! 人間もダメなのか……!」
ぼやきながら、大して休められなかった体で逃走を再開する。
意味の分からない機械に、意味の分からない不定形の何か、そして意味の分からない人間。
あの二体だけじゃない、人間もダメだった。あんなのがこれから何度も――
そんな考えに無理やり蓋をし、ビルを抜けようとした時、自分の物とは違う足音が聞こえた。
「え、来た……!? あれ……、これ何処から――」
先程の少女の物とは思えない大きな足音。
走っているようだが、足音が聞こえるのは前でも後ろでもなく上。
最初からこのビルに居たという事か、まさかあのうさ耳と同じような――そう思ったのも束の間、鳴動と共に天井が崩落した。
「うわァッ!? あっぶな!!」
男性の声で、知っている単語が発せられる。
「討伐を開始する。」
「……!?」
崩落に伴い発生した砂ぼこりを払うように、中から骨に似た鉄製のこん棒が現れた。
あまりにも近すぎる。回避は不可能、横薙ぎに頭を振り抜くつもりだろう。
防御も不可能――、だが受け止めるしかない、顔の横に腕を構えた。
「な……?!」
少し間の抜けた声、刹那、棍棒が腕に触れる直前で停止した。巻き起こった強風に撫でられ、髪が逆立つ。
「グッ……? あれ?」
閉じていた目を開くと、そこには半面ガスマスクをした男が立っていた。
都市迷彩の戦闘服、ズボンは少女が着ていたものと同じものだろうか、軍人のような格好だ。
とてつもなく驚いた表情、なんなら少し震えている。
その状態で、男はささやくような声量で聞いてきた。
「お、お前……、人間か……?」
「えぇ……?」
逆にそれ以外何があるのか、予想外の言葉に返事が遅れる。
しかし男は悟ったのか、棍棒を地面に突き立て、そこに頭を乗せた。
胸元のトランシーバーを外し、恐らくあの少女に向けてだろう。呆れたような声で彼女に指示を出した。
「ファルナ、先に車に戻っててくれ……、――ちげぇよ……、お前が撃ったのは人間だよ……。」
ファルナ――あの少女の名前だろうか
「あの……、どういう状況? もう俺襲われない?」
我慢できず男に問うと、バツが悪そうに顔を上げ、質問に答えた。
「悪かった……、あぁ、そうだ。約束する、もう襲わない、安心してくれ。俺の仲間が……その、勘違いしていたらしい。お前をクローラーだと思ったんだ……人間のイミテーションだと。」
『クローラー』『イミテーション』また知らない言葉が出てきた。
「ごめん、そのクローラーとかイミテーションとかわかんない」
「は? 知らない……? そんなわけないだろ、義務教育だぞ? いや、受けてなくても知ってるはずだ。」
義務教育という概念があることに驚く、知らない単語はこの時代特有の物なのだろう。やはりここは知っている時代じゃない。
「……やっぱそうなのか」
「……待て、じゃあなんでお前はここにいるんだ? 何のために来た?」
「さぁ……? 目が覚めたらここだったんだよ、俺も意味わかんない。」
「目が覚めたら? ――まさか代償で……? いやでもなんでここに……」
何かぼそぼそ言っている。
「お前……ここに来る前はどこで何してた?」
「家で寝てたよ」
「違う、出身だ。国はどこだ?」
「出身国?」
同じ言葉を使っているんだから日本に決まっているだろう。そうは思っても声に出さず、落ち着いて質問にだけ答えた。
「日本の東京から――」
その答えに対し男は目を見開き、やはりそうかと言うように、顎に手を乗せる。
「……そうか、わかった。えーと……俺はルーク・ミルコトピア、お前――名前は?」
「名前?、あぁ――、俺バベル」