針金
「いってみるか!」
靴で針金の先に触れてみるが、変化はなし。素肌で触れなければ大丈夫なのだろうか。少しづつ触れて針金をどかしていくつもりだったが、どうやらその必要はないようだ。このまま行ってしまおう。
こうして、未知の領域への第一歩を踏み出した。
中は薄暗く、窓から入ってくる光を針金がほとんど遮ってしまっている。そもそも量が外と比べると尋常じゃない。床、壁、天井に至るまで、どこもかしこも針金だらけだ。正面に見える階段に至っては、針金が何本か枝垂れ、顔の位置に来ている。
顔で触れても反応する可能性があるため、念のためフードを被り、滑って転ばないよう慎重に階段を上り進めていく。
針金のあの性質、先端に触れるならまだいいが、そうではない真ん中辺り、つまり今踏んでいる部分に触れてしまった場合は危険だ。後方から針金が鞭のように飛んできて背中を爆発させてしまうことだろう。
それだけは避けなくてはならない。
「――あぉっ……!?」
小さく、情けない奇声が上がる。まだ2階にも、踊り場にさえたどり着いていない。にも関わらず――転んだ。
手のひら全体、五指は驚いたことで限界まで広がり、その状態で大量の針金を捉える。それが二つ。おまけに右頬も触れてしまった。
体勢を直そうとするも、針金で滑り、立ち上がれない、何とか片膝をつく形で、状況を確認する。前方、後方、どちらも触れたであろう針金がふわりと浮かび、波打っている。
今にでも上に向かって進みだすだろう。その場合、ここは通過点、背中が爆発してしまう。それだけは御免だ。
――やるしかない
覚悟を決め、両手で触れてしまった針金を再度掴む。次の瞬間、グンッと勢いよく体が引っ張られ、宙に浮いた。重さに耐えきれず、千切れることも期待していたが、そうは行かないようだ。
しかし、これを利用すれば一気に最上階へと行けるかもしれない。むしろやってよかったのではないか、そんな思考が浮かんだ直後、曲がる際に生じた慣性により、背中から壁へと激突する。はじける鈍痛。
そしてトドメと言わんばかりに、先程掴み損ねたであろう、数本の針金が胸を穿つ。文字通り、胸が張り裂けそうになった。表面だけじゃない、中まで貫く、電撃を浴びせられたかのような痛み。
「ウゥゥゥッ!?」
感じたことのない激痛が全身を襲う、それを塞ぐかのように、再び壁へと打ち付けられる。当然痛みが無くなることはなく、ただ上乗せされるだけだった。
出来の悪い絶叫マシンに乗せられたかのような気分だ。吐き気と痛みに耐えながら、最上階を目指す。16回ほどだろうか、壁に全身を使った接吻を交わして、ついに辿り着いた。
「ギャァァァァァ~!」
恐らく、ここが最上階、この地獄もやっと終わると思いきや、針金たちは登った先の通路を右に曲がる。17回目、壁に左半身を削られながら今までより少し長く、少し弱い痛みが体を襲う。
そろそろ限界だ。ふと針金の先に目をやると通路左側に見える部屋へと入っていく。あの金属音の正体、恐らくそれはあの部屋にある。ゴールが見えた。
安堵と同時に腕に限界が訪れ、針金を掴んでいた手を放してしまう。そして勢いを保ったまま、体は吹き飛び、宙を舞う。針金が入っていく部屋を通り過ぎたあたりで、念願の地面に触れた。
派手に転がりながら顔と手を針金につけぬよう浮かせ、慣性が死ぬのを待つ。10回転ほどした後、ようやくすべての動きが停止する。それと同じタイミングで、甲高い金属音がフロア全体に響いた。
「痛~い……」
誓った。もう少し慎重に、最悪を想定して動こう。やはり学びとは失敗から得るものだ。いい経験だった。そう無理やり自分を納得させ、体を起こした。
痛みで震える足を使って立ち上がり、被っていたフードを外す。
何はともあれ、いよいよだ。まさか階段を上るだけでここまで満身創痍になるとは思わなかったが……まぁいいだろう。まだ生きてる。フラフラと針金を踏みつけながら、こいつらの終着点である謎の部屋と向かう。
さすがにここまでされたら、ただ屋上から景色を一望して帰るなんてできない。いや、帰る場所を見つけるために来たのか。
とにかく、目的を果たす前に、少し寄り道してもいいだろう。
そんなことを考えながら、再び未知の領域へと足を踏み入れた。
扉は外れていて、どこにも見当たらない、恐らく針金に埋もれたのだろう。部屋は割れた窓から光が差し込み、視界が十分に確保できる。
――だからこそ、その異様な光景にすぐ気づくことができた。
入って左、奥行きのある部屋の中央に位置する、針金で形成された――巨大な繭のような何か。
それは壁、床、天井から伸びる針金によって、根を張るように空中に固定されていた。動きも今までのものとは違い、グネグネと這うような動きだ。
無機物からではなく、生き物から感じるような気持ち悪さに、思わず息をのむ。先程ひどい目にあったばかりというのもあるが、これはさすがに興味よりも不気味さが勝る。
もっと機械的な物を想像していたが、予想外だ。針金の終点がここなら、すべての針金はこれに繋がっていることになるのだろうか?
「ん……?」
何やら繭の表面に、針金ではない何かが張り付いている。赤く、切り付けたような形のバツ印が描かれた……鉄の破片? だろうか。それが二つ、どちらも歪で角ばった、少し長い楕円形、横は8cm縦は5cm程。
よく見るとバツ印は描かれている訳ではなく、磨かれた石らしきものが埋め込まれているようだ。赤く澄み、宝石のように光を反射させている。
だがそこまで精巧というわけではなく。鉄片と同じで、こちらも少し形が歪だ。
「さすがに触るのはまずいか」
針金とは別で、この鉄片にもなにか別の危険が孕んでいるかもしれない。得た学びを活かすべきだ。迂闊に触れるのはよそう。
しかしそうなると、これといってやれることがない、入ってきたばかりにも関わらずもう手詰まりになってしまった。
――やっぱりやってしまおうか
そんな衝動が湧き、思わず手を伸ばす。だが、既の所で手を止めた。だめだ。場合によっては死ぬ。
仕方がない……、一旦人探しに戻って、日没になったら戻ってこよう。よくよく考えればこれは別に今やらなくてもいい。
夜間に灯る光が月のみというこの環境、日が沈めばきっとこの街は想像以上の闇に沈むことになる。人が見つかればいいが、もし、それが叶わないのであれば、ここに帰って来よう。
触るかどうかも、その時に決めればいい。ここは冷静に、優先すべきことから処理していくべきだ。
「またね」
そう告げ、入室時間わずか2分。針金の繭に背を向け、未だ未知が残る部屋を後にしようとする。
――その時だった。 ひんやりとした針金が、右頬を撫でる感覚が突如として走る。
「は……?」
そんなはずがない、足を止め、振り返る。
そこにあったのは、捻じれた樹木のように絡まり、重力によってたわんだ数十本の針金をこちらへ伸ばす鉄の繭の姿。
さらに、二つの鉄片に埋め込まれたバツ印の石が、赤く発光している。両片はまるで双眸のようで、無機物にはないはずの自我を感じさせる。
勘違いじゃない、先程の感覚――針金自ら、こちらに触れて来たのだ。
「いや……え、待って……それは無しじゃん、ちょっと……え?」
予想だにしていなかったまさかの自発的行動に、脳を介さず言葉がこぼれていく。
しかし、そんなことはお構いなしと言わんばかりに、それは始まった。
触れた際に起きる、波打つような反応。もう見慣れたといってもいい。それが頬に触れた針金をはじめとして、部屋からビル全体へと、全ての針金に収束の予兆が広がっていく。
脳内のシナプスを総動員して打開策を講じようとするが、何も思い浮かばない。胸に食らった針金の痛みが、古傷のようにズキズキと痛み出し、思考をさらに遅くさせる。
「――待って、待って待って待って待って、無理無理無理無理無理無――」
刹那、訪れる浮遊感。テーブルクロス引きで失敗される食器達はこんな気持ちなのか、最期にしてはあまりにもどうでもいい知見を得たところで、ようやくなにが起こったのか理解した。
地面に触れるのが少しで送れることを願いながら、咄嗟に目を閉じ、顔を腕で固め、体を丸めた。出来る限りの、精一杯の防御。
――さあどうなる。
「痛てっ」
全身に針金が絡まり、そのまま巻き取られて圧死。無数の針金に体を打たれ、その痛みでショック死。繭に捕らわれ、身動きが取れず、じわじわと衰弱死。想定された無数にある結末の中、実際に迎えたのは、尻もちによる軽い臀部への痛みだけだった。
針金ではない、硬いコンクリートの感触。何が起きているのか。状況を確認するために、ゆっくり腕をどけながら目を開けた。
その瞬間、破裂するような金属音と共に、目の前で巨大な火花が散る。
「うわぁっ!?」
すぐさま腕で顔を覆うが、音も火花もそれっきりで、これ以上何かが起きる気配はない。今度こそ終わり、ということでいいのだろうか。
もう一度、ゆっくり腕をどけ、目を開ける。
「あれ?」
そこにあったのは、くたびれたモップのように、ざんばらに広がり、床に野垂れる針金の姿。二つの鉄片は光を失い、針金の上に乗っかっている。ありえないほど縮んでいて、丸めてもバスケットボールほどにしかならないだろう。
いったい奴に何が起きたのか、起き上がり、状況を確認する。
目の前にあったはずの針金の繭も、ビル中に張り巡らされていた針金も、どこにも見当たらない。残ったのは埋もれて隠れていた扉と、この小さな針金の山のみ。
先程に比べ、まったく脅威を感じられない。困惑しながら歩み寄り、腰をかがめ、人差し指で針金に触れる。反応は無し。
「死んだ……?」
まさかこんな結末になるとは、謎のやるせなさに苛まれる。思い切って持ち上げてみるが、動かない。
――鉄片のならどうだろう? 例え動いたとしても、こちらへのメリットは皆無。しかし、なぜか湧いてきた淡い期待に応えるために、左右の親指で両片を押した。