8. ある夕暮れ、女たちの恨み言 前編
ある夕陽のまぶしい日。
テレーズの耳に、女官たちの会話が聞こえる。
彼女たちは気づいていないようだ。開いた扉の陰にいるテレーズの存在に。
「いつもいつもアントワネット様ばかりが槍玉に挙げられて、お可哀相でならないわ。何もかもルイ十六世が悪いのに」
「夫が不能なせいで子供が出来なかったのに、それを妻のせいにされるだなんて。王妃としてどんなに贅沢な暮らしが出来たって、私なら絶対にごめんよ」
「誰だって嫌よ、あんな男の妻になるなんて。この世すべての女性がそう思ってるわ」
向こうにいる悪口女は三人。
全員、母に仕える女官。
以前父の悪口を言っていた女官たちは、この中にいない。
「それにしたって、どうしてさっさと手術して治さなかったのかしら」
「あの性格じゃあ無理もないわよ。ルイ十五世も、きっとお手上げだったんでしょうね。あんな孫息子が次の王だなんて、我が王国は終わりだって」
「お妃のことを七年間も生娘のままにしておくだなんて、まったく前代未聞。ルイ十六世は、フランス王家は元よりフランス王国の恥ね!」
三人分の笑い声が大きくなる。
テレーズには、彼女たちの話していることのすべては分からない。
分かる必要はない。
彼女たちが、父を笑いものにしている。そのことが分かれば十分だ。
(こいつらを、みんなクビにすればいいんだわ)
向こうにいる三人、あと以前悪口を言っていた二人。
彼女たちのことをまとめて、父と母に告げ口すればいい。
そうすれば、悪口女たちを追放できる。プチ・トリアノンから、いいや、ヴェルサイユから。
「マダム・ロワイヤル」
ひそめた声に名前を呼ばれた。
振り向くと、そこにいたのは母と同年代の女性。
「カンパン夫人」
テレーズもまた声を落として、彼女の名前を呼んだ。
彼女は人差し指を立てて口元に当て、テレーズの前で身を屈める。
「私が彼女たちを叱ります。あなた様は、ここでお待ちください」
再び立ち上がった彼女は、テレーズの横を通り抜ける。
そして凛とした声で、
「あなたたち、そのような話は風紀が乱れます。口を慎みなさい」
こう言った途端、悪口はぴたりと止んだ。
しおらしい謝罪の言葉と、その場から立ち去る足音。
悪口女たちはいなくなったようだ。
カンパン夫人がこちらに戻ってくる。
彼女がテレーズの前に立つと、窓から差し込む夕陽が、ちょうど彼女の体で遮られた。
「嫌な思いをさせてしまいました。王妃付き女官長として、彼女たちの無礼をお許しください」
改まった様子で、彼女はこうべを垂れる。
「お父様とお母様に言いつけようかしら。王の悪口を言う女官が、何人もいるって」
「彼女たちにきつく申し伝えます。今後同じようなことがないように」
王妃付き女官長は、女官たちの中でも特別な地位にある。彼女の言うことなら、
「おねがいするわ」
テレーズは信じる。父にも母にも、今のことは言わない。
「あと、カンパン夫人」
「何でしょう」
「あなたがあやまる相手は、わたしじゃないわ。わたしのお父様よ」
重々承知しております、と彼女は答える。
その表情は、逆光でよく見えなかった。
■■■
昼食を食べ終えたエルネスティーヌは、プチ・トリアノンの中を一人でぶらついていた。
すると、開いた扉の向こうに見知った女性を見つけ、思わず足を止めた。
彼女はソファに座り、ティーカップを手にしている。
(いつ見ても、すごくきれい)
見かけるたびに、エルネスティーヌの視線は彼女に奪われてしまう。それほどの美人なのだ。
ややあって彼女はこちらに気づいたようで、きれいな微笑みを浮かべた。
「ご機嫌よう、エルネスティーヌさん」
「ごきげんよう、ルブラン夫人」
「テレーズ様は一緒ではないの?」
「マダム・ロワイヤルは、お昼ごはんをめし上がっています」
「あなたは?」
「先に食べ終わりました」
テレーズは今、おかずの乗った皿と闘っている。嫌いな野菜が出ても残さず食べなさいというのが、王妃の教育方針だ。
「ルブラン夫人は、王妃様に会いに来られたのですか」
「ええ。アントワネット様は今、身支度をされているみたい。そうだわ、あなたも紅茶を飲む?」
午後の授業が始まるまで、まだ余裕がある。
勧められるまま、エルネスティーヌは彼女の向かいに座った。
ふとテーブルの上に目が留まった。
重ねて置いてある、何枚かの紙。
「その紙は何ですか」
「これはね」
ルブラン夫人は、自分が飲んでいた茶器を退かし、紙を裏返してテーブルに広げる。
それは、エルネスティーヌにも見覚えがあった。
「王妃様とお子様たち」
「ええ、これはその下絵。今日は、絵の進み具合の報告に来たの」
ルブラン夫人は宮廷画家。王妃やテレーズたちをモデルに絵を描いている。
彼女は下絵を指さして、話をし始めた。
どれくらい進んでいるか、どの部分をどういった色合いにするか……といった内容だが、あいにくエルネスティーヌには難しい。
「説明しても、子供には難しいかしら」
こちらが何も言っていないのに、ルブラン夫人に気持ちが伝わった。
「あなたの顔に書いてあるわ。大人の言うことは、よく分からないって」
自分は今どんな顔をしていたのだろう。気になったが、近くに鏡はない。
エルネスティーヌの分にと出された紅茶。飲みかけのカップの中をのぞき込んだ。
表面に映るのは、紅茶色をした自分。特段いつもと変わらない顔。
「あなたは、いつも絵のモデルにならないわね」
容姿端麗な顔が、じっとこちらを見る。
相手のまなざしに、エルネスティーヌは気恥ずかしさを覚えた。
「王家の方々に遠慮しているの?」
「それはちがいます」
「なら、理由を聞いたらだめ?」
この質問をされるのは、今に始まったことではない。テレーズをはじめ、他の人からも聞かれている。
理由を話してはいるが、どうにも理解してもらえない。
「モデルになるのが、イヤではないのです。でも、時間が止まってしまうみたいで」
「時間が止まる?」
「絵がかかれた時のまま、古くなってしまいそうで……それが、イヤなんです」
ルブラン夫人は不思議そうな顔をする。
よく分からないことを言う子だと、彼女も思っているのだろうか。
「そういえば、モデルが目の前にいないのに、どうして絵がかけるんですか」
こちらが急に話題を変えても、ルブラン夫人はいぶかしむ様子を見せない。
「最初からモデルがいない状態では、さすがに描けないわ。モデルになる方に時間をとってもらって、実際にポーズをとってもらうの。この絵も、描き始める時にはそうしたのよ」
モデルをする時間になると、テレーズはエルネスティーヌの元を離れる。これまで何度もあったことだ。
「そうだわ。あの子に聞けば、あなたにも分かる説明をしてくれるかも」
「だれですか?」
「ベリー公よ。あの子はすごく絵が上手なの。特に人物画」
ルブラン夫人の話によると。
ある来賓が、ヴェルサイユ宮殿を訪問した。ベリー公とその来賓は初対面だった。
館に帰ったベリー公は、ものの一時間で、その来賓の姿を描き上げたという。
「その絵を、私も見せてもらったことがあるの。十歳にもならない子が、あそこまで描けるんだもの。彼にはきっと絵の才能があるわ」
ベリー公は絵が上手い。エルネスティーヌが知らなかった彼の一面だ。
どんな絵を描くのか、興味がわいてきた。
その時どこからか、ティニ、と呼ぶ声が聞こえた。ぱたぱたという足音も。
開けたままにしていた扉の方を見れば、
「ティニ、ピーマン全部食べられたわよ!」
テレーズが嬉しそうに駆け込んできた。嫌いな野菜を完食したという。
その足がぴたりと止まった。
この部屋にルブラン夫人がいることに、今気づいたようだ。
ルブラン夫人が肩を揺らして笑いながら、ご機嫌ようと挨拶する。
テレーズは顔を真っ赤にしながら、礼儀正しく挨拶を返した。
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