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54. 母の故郷 前編

 テレーズが朝目覚めて、最初に思うこと。


 ここは、どこだろう。


 上質な素材の寝間着、寝心地のいい寝具。

 天蓋のカーテンを開けると、室内はまだ薄暗い。朝日が昇りきっていないようだ。

 壁際を見れば、ケージの中で眠るココ。


 夢ではない。

 今いる場所は、タンプル塔ではない。


 ウィーンに腰を落ち着けて、かれこれ一週間。こう思うことが、朝の日課になりつつある。


 寝台の上で体を起こしたまま、改めて考えた。

 今自分が置かれている状況について。


 大きな問題がふたつある。


 同胞もとい情報源、父方の人間とどうやって連絡をとるか。

 そして、オーストリアが押しつけてくる縁談をどうやって回避するか。


 オーストリアは、テレーズとフランス人との接触を阻んでいる。

 自分の部屋から一歩でも出るとき、テレーズには女官が付いてくる。

 おそらく監視目的。

 手紙を出すことは許されているが、受け渡しは女官を介して。手紙の中身は見られているだろう。


 テレーズは世間知らずのお姫様ではない。

 伊達にタンプル塔やチュイルリーで、監視された生活を送っていなかったのだ。それくらいのことは予想できる。


 あともうひとつの問題。カール大公との縁談についてだが……。


 ほどなくして、部屋に人が来た。女官が起こしに来たようだ。


 テレーズは天蓋のカーテンを閉め、すぐさま掛け布団の中にもぐった。すっかり目が覚めているが、今の今まで寝ていたふりをする。

 起床時間になる前に起き出して怪しい行動をしていると、余計なことで疑われたくない。




■■■




「我が従妹ながら、なんて恥ずかしい子」


 皇妃は失笑した。

 目の前には、王女の様子を報告に来たシャンクロ夫人。憂わしげな顔をしている。

 あの王女のせいで気苦労が絶えないのだろう。


「いかがいたしましょう。連日ご着用の喪服は、周囲にも異様なものに見えているようですし」

「本っ当に迷惑な子だこと。お情けでフランスから救い出してあげたっていうのに、この宮廷に波風を立てるようなことをして。自分が厄介者の立場にあることを、まるで分かっていないのね。まあでも、王族の身分をはく奪されて一般市民になり下がったと聞いているし、仕方がないのかしら」

「皇妃様、ひとつよろしいでしょうか」


 シャンクロ夫人の声音が変わった。こちらに対して、異議を唱えるようなものに。


「皇妃様とテレーズ様、それぞれのお母上様は、マリア・テレジア様の数多くいたご子息ご息女の中でも、とりわけ仲がよろしいお二人でした」

「そうらしいわね」

「今のお言葉を、ナポリのお母上様がお聞きになったら、どう思われるでしょう」

「私の母が、今の話と何か関係があるの?」

「姪のテレーズ様をナポリに迎え、我が子として育てたい。お手紙にそう書かれていたと伺っています」

「母は優しいのよ。そうでなくても、仲の良かった妹の娘ですもの」

「でしたら」

「でも半分は、あの暗君の血が流れているわ。あの愚かしいフランス王のせいで、叔母様が不幸になったばかりか、オーストリアは元よりヨーロッパじゅうが大混乱に陥っているのよ。あの王女は、父方の血を恥じて然るべきなのに、当人はあの態度。あんな子と実際に顔を合わせたら、お母様もきっと私の意見に同調してくださるわ。あの父にしてあの娘、劣悪な小フランス人だって」


 こちらが話している間も、シャンクロ夫人は不服そうな顔のままだ。


「一体いつから、そのようなお考えになってしまわれたのですか」

「いつからも何も、ずっと前からよ」

「私の記憶違いでなければ、テレーズ様がご存命だという知らせがウィーンに届いた時、あなた様は大変喜んでいらっしゃいました」


 思わぬ反論。皇妃は言葉に詰まった。


「涙を流されながら、神が私たちの従妹をお救いくださったわ、と」

「そ、そうだったかしら?」

「テレーズ様をウィーンに迎えるという話が持ち上がった時も、楽しみだとおおせになったではありませんか。ナポリにいた頃から、お母上様より話に聞いていた従妹。自分と似た名前の彼女に、ずっと会ってみたかった」

「言ってないわよ、そんなこと!」


 それ以上は言わせまいと、相手の言葉を遮った。

 対して、シャンクロ夫人は冷めたような、呆れたような表情になる。


「そうですね。私もすでに孫がいる年齢ですので、ぼけ始めているのかもしれません。失言をお詫び申し上げます」


 言葉のわりに、口調から詫びの気持ちは感じられない。

 王女をかばい立てするシャンクロ夫人の態度は、皇妃にとって(かん)に障るばかりだ。


 すると、別の女官がやって来た。

 陛下がお見えになりました、と。

 愛する夫の来訪を告げられ、皇妃の胸にあった不快な気持ちは吹き飛ぶ。


「シャンクロ夫人、あなたは勤めに戻りなさい」

「皇妃様」

「いいこと?」


 反論される前に、こちらの言葉を被せる。王女の話をしているところは、夫に聞かれたくない。


「国の安寧と臣民の幸福のために働き、妻を愛する。あの王女の父親がまったく出来ていなかったことよ。でも私の夫、皇帝フランツは違うわ。そして私は皇妃として、フランツを支える。そのために夫婦で過ごす時間は大事なの。だから邪魔をしないでちょうだい」


 シャンクロ夫人は不承不承というように、部屋を後にする。

 入れ替わりで、夫が姿を見せた。




■■■




 この日の午前中、テレーズは自分の部屋で読書をしていた。今読んでいるのは、ハプスブルク家の歴史に関する本だ。


 物書き机の上には、他にも数冊の本がある。

 オーストリアの歴史と地理、文化、ウィーン宮廷における礼儀作法、フランス語話者がドイツ語を学ぶためのテキスト。

 どれも、それなりの厚みと文字量だった。


 つい先日、家庭教師による授業が始まった。予習のために目を通しておくようにと言われたのが、これらの本だ。


 お妃教育でも始めるつもりなのだろうか。


 シャンクロ夫人が言うには、修得すべきものの中でも、礼儀作法が最優先とされる。

 ウィーンの宮廷人としての立ち振る舞いを教え、あとは語学、歴史、文化を通じて、身も心もオーストリア人にする……というのが皇帝の思惑であろう。


 そういえば、いつだったか父が言っていた。


『語り手が変われば、見え方も変わる。それが歴史というもの。だからこそ、他国の本を自国の本と比較して読むのは面白いんだ』


 フランス語以外にも、ドイツ語、イタリア語、英語、ラテン語など多言語を習得していた、父らしい言葉だ。

 現にテレーズが今読んでいる歴史の本。書かれてあることは、総じて「オーストリアのすることは正義」といった内容だ。


 こんな本を読めと命じられた。

 ところどころ内容が不愉快で、読むのが嫌になったが、それでも放り投げることはしない。本の一冊や二冊も読破できない、無学な女などと思われるのは心外だ。

 意地の悪い親戚には、テレーズも意地で立ち向かってみせる。


 そして、ついに最後の一冊を読み終えた。


 時計を見れば、もう昼前。朝からずっと読書をしていて、さすがに疲れた。

 カウチに座ったまま、大きく伸びをする。


 腰の辺りで、もぞもぞと動く感覚。

 眠っていたココが、目を覚ましたようだ。


 もうすぐ餌の時間になる。ついでにテレーズも昼食をとろう。

 午後には授業があり、体を動かす予定だ。




 昼食の後、テレーズはホーフブルクの一室に向かった。

 授業内容は踊り。

 テレーズは子供の頃、メヌエットを教わったことがある。だがこれから教わるのは、


「ご覧のとおり、メヌエットとはまるで違うでしょう。これがワルツです」


 演奏曲に合わせて手本を披露する男女は、まるで抱き合ったまま踊っているかのようだ。


 踊りの講師もこの場にいるが、今説明をしているのは講師ではない。

 テレーズの目の前にいる青年、カール大公である。


「ワルツはかつて、はしたないものと見なされていました。他の踊りに比べて男女の体が密着する、それが宮廷の風紀紊乱(びんらん)に繋がると懸念されたのです――」


 男女が密着し過ぎ。そう思ったのはフランス人のテレーズだけでなく、ウィーンの宮廷人も同じだったようだ。


 手本の披露が終わると、演奏も止む。

 カール大公は改まった様子で、こちらに向き直った。


「恥じらいを捨てない限り、上達への道は遠いままです。時間が許す限り、テレーズさんのワルツの練習は、私が相手役を務めます」

「ご自身の予定に、支障のない程度になさってください」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。しかし、ご心配には及びません。今は軍務を離れて養生中ですので」

(初心者の練習相手なんてしてないで、養生に専念すればいいのに)


 声には出さず、テレーズは言い返した。


 本人が今言ったとおり、カール大公には軍歴がある。

 また革命と戦争で混乱のさなかにあったネーデルラントにおいて、短期間ではあるが総督を務めたこともあるという。これは先日の晩餐会で、しかめっ面の皇帝から聞かされた弟自慢だ。


 眉目秀麗なうえ、つつがない身のこなしが出来る。彼の隣に見目麗しい女性がいれば、きっと絵になる美男美女が出来上がるだろう。


 女性が放っておかなそうな男性。


 これが、テレーズの抱いたカール大公の印象だ。




 ワルツの練習が終わり、テレーズは自分の部屋に戻った。ケージからココを出し、ちゃんと留守番が出来たことを褒めてあげた。


 テレーズは心身ともに疲れたが、身体よりも精神的な疲労の方が大きい。カール大公と適度に距離を保つことに神経を使った。


 これからも、授業のたびに彼と密着しなければならないと思うと、気が重くなる。

 ココと触れ合いながら、憂鬱な心を癒した。


 何気なく顔を上げると、暦に目が留まる。


 もうすぐ一月二十一日。父の三回忌。

 この日、ウィーン市内にある教会で追悼のミサが執り行われるという。パリからウィーンへの道中で、ユー男爵から聞いた話だ。


 教会の名前と住所は聞いている。

 当日そこへ行けば、同胞もとい情報源と会えるかもしれない。

 ただ、どうやってこのホーフブルクから出るか。方法がまったく思い浮かばない。


 ミサに参列できる可能性は、ほぼ皆無。


 それでも、用意しているものはある。

 ルイ十八世に宛てた手紙。道中で書き送った分とは別のもの。

 今のテレーズ自身が監視下にあることを、この手紙で伝えたかった。


 あの叔父宛ての手紙を渡すために、追悼ミサを利用するようで、父に申し訳ない。だが背に腹は代えられない。


 それに、ミサに参列したいというのは、父の死を悼む娘としての偽りない気持ちだ。




【54. 母の故郷 前編】


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