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52. 見せかけの盲従

 タンプル塔を出てから一日もしないうちに、テレーズは正体がばれた。早くも民衆に知られてしまったのだ。


 だが、捕まって連れ戻されることはなかった。

 血まみれの暴徒は襲いかかってこない。罵りの言葉ひとつ聞こえない。


 それどころか、行く先々で、テレーズは歓呼の声と笑顔で迎えられた。何人もの人が手を振り、こう呼んでいた。

 お姫様(プランセス)お嬢さん(マドモアゼル)、と。




 これは夢ではなく現実。

 頭では分かっても、気持ちが追いつくには時間がかかった。




 パリを離れてから数日後、テレーズは国境の町に到着した。

 予定では、この町でオーストリアの使者と落ち合う。先方の使者が到着するまで、テレーズと従者たちは待機することになった。


 一泊した翌朝。

 今日は外に出る予定がないので、身づくろいは簡単に済ませる。


「あなた様は見れば見るほど、エリザベート様によく似ておいでで」


 テレーズの身の回りの世話をするのは元養育係。

 毎朝、身づくろいをするたび、彼女は独り言のように言う。


「こうも素敵にご成長されたお姿を、アントワネット様やエリザベート様、シャルル様にお見せしたかったと思うばかりです」


 父のことを、わざと省いた。


 道中の従者は数人。

 その中でユー男爵と元養育係は、テレーズと旧知の間柄。あとは総裁政府の雇い人と、元養育係自身の小間使い。

 全員テレーズの頭越しに人選された。


 テレーズ自身で選べたなら、少なくとも元養育係のことは指名しなかった。


 彼女には、物心つく前から世話になってきた。まだ小さかった頃は、そこまで嫌いな相手でもなかった気がする。

 だがテレーズが覚えているのは、彼女にまつわる嫌な記憶ばかりだ。

 養育係という立場に乗じて、テレーズや弟を、父から引き離そうとした。彼女を筆頭にした女官たちは、テレーズたち家族の仲を引き裂こうとしたのだ。


 最愛の家族は、みな亡くなった。


 一方で、タンプル塔で面会した女官たちのような人間はまだ生きている。

 自分たちの所業を()()()()()()にし、ずうずうしくもテレーズの前に再び現れ、元養育係にいたってはウィーンまでくっ付いてくる始末。


 ここ数日、元養育係と顔を合わせるたび、チュイルリーにいた頃の記憶がよみがえる。彼女の言うことひとつとっても、父に対する嫌みや皮肉に聞こえてならない。


 幼少期の恩は、もはや消え失せた。

 今のテレーズにとって、この女は視界に入れるのも苦痛な存在だ。


 さりとてテレーズは、悪感情を言葉にしたくても理性で押しとどめている。遺族の前で、故人への恨みつらみを吐き出すことに夢中な「恨み夫人」とは違う。

 元より、従者と悶着を起こして旅を遅らせるのは、良識ある大人のすることではない。


「今日は物書きをしたいの。用事がなければ、あなたは部屋に入ってこないでちょうだい」


 視界に入れるのも苦痛な相手とは、理由を付けて距離を置く。これが最善の方法だ。


 かしこまりました、と元養育係は答える。テレーズの胸中をつゆほども分かっていなさそうだ。

 退室する時、彼女は言った。


「あなた様のお姿を一目見ようと、表には見物人が詰めかけております。あまり野次馬の目にお姿をさらされぬよう、お過ごしくださいませ」


 確かに、宿の前には見物人がいる。冬の朝は凍えそうなほど寒いというのに、熱心な人々である。


 道中では人目を避けているわけではなく、見ず知らずの人と関わる機会も皆無ではない。

 だが今のテレーズは、護衛されている身。

 革命支持者から危害を加えられるよりも、政治的な理由で拉致される危険性の方が高い。そう説明されていた。




 この日、テレーズは数時間かけて一通の手紙を書き上げた。

 普通に手紙を書くだけなら、こうも時間はかからない。だがこの手紙については別。文章を考えて文字にするのに、大変な労力が必要だった。

 達成感とともにペンを置き、読み返した。



‘ウィーンの皇帝には、感謝の念を示すつもりです。

 しかし、これだけは叔父様に保証します。

 これから先どんなことが起ころうとも、私は叔父様の同意なしには決して行動を起こしません。


 ですから叔父様、どうかお願いがあります。


 王としてフランスに戻った際には、平和を取り戻してください。そして憎悪と恨みを忘れて、フランス人をお(ゆる)しください。

 過ちを犯した者たちに必要なものは、何よりも平和なのです。


 父、母、弟、叔母を殺された娘が、恩赦と平和を懇願しています’



 今、亡命先のヴェローナにいるというルイ十八世がこれを読んでも、無垢で無知な姪がつづった手紙だと思うだろう。


 タンプル塔で受け取った、あの叔父からの手紙。

 それには、こう書かれていた。



‘あなたの両親は生前、あなたのことを私に託した。

 不幸にしてあなたが孤児となったら、父親代わりとなって手元に迎えよ。そして、アングレーム公と(めあわ)せるようにと。


 あなたの両親は、かつてあなたとアングレーム公との結婚を考えていたが、王太子の誕生を機に、考えを変えてしまったのだ。


 だがもし今、兄夫婦が生きていて、あなたしか子供がいなかったら、きっと最初の考えに立ち戻るであろう’



 生前の両親にそうした意向があったのか、今となっては確かめるすべはない。

 ただひとつ分かることがある。

 この手紙に書かれた内容は、


(姪をだますための嘘ね)


 パリにいた頃、あの叔父はあれだけテレーズの両親のことを嫌っていた。

 きっと父も母も、王弟から向けられる敵意を知っていた。それでいて、自分たちの娘のことを託すであろうか。


 テレーズは確信している。あの叔父は、自らが名実ともにフランス王となるために、姪を利用するつもりなのだと。

 ようやく死んでくれた兄夫婦のことを話題に出せば、姪が何でも言うことを聞く――そう思っているのだ、あの叔父は。


 そして、そのことを承知の上で、テレーズは心に決めた。


 フランスが共和国になったからといって、自分は(いち)市民にはならない。

 母の実家に引き取られるからといって、オーストリア人にもハプスブルクの人間にもならない。

 フランス王族、フランス王家の女として生きていく。


 自分の夫となる相手は、フランス・ブルボン家の男でなければならない。

 両親の意向は関係ない。長らく会っていない従兄が、今どんな人物になっているかも関係ない。

 結婚は、テレーズにとって、生きていくための手段なのだ。


 ふと気づくと、室内が暗くなっていた。そろそろ明かりを灯した方がいい。

 十二月の日没は早い。日が沈むと読み書きが不便になる。この手紙をもっと早く書き上げていれば、もう一通書けたのに。


 ルネットにも手紙を出したい。

 彼女に書き送る分は義務ゆえではなく、心からの親愛を込めたものだ。


 ぼんやりと内容を考える。

 道中であった出来事、行く先々で目にした光景など。

 それと、


「カール大公……」


 無意識に口からこぼれ出た、その名前。


 テレーズには母方のいとこが何人もいる。カール大公はそのうちの一人。先帝の三男で、今の皇帝の弟。


 オーストリアでは、皇帝の令息には「大公」を付けて呼ぶ。令嬢の場合は「大公女」。

 母も結婚前、かしこまった場ではマリア・アントニア大公女と呼ばれていたという。


 それはさておき、カール大公という人物は、テレーズにとって面識がない従兄の一人に過ぎない。

 彼のことを、気にかけている理由。


 ちょうど昨日、元養育係から話に聞いた。今の皇帝には弟が何人もおり、カール大公は未婚の大公のうち最年長。オーストリアがテレーズを引き取るのは、彼に娶せるためだと。

 皇帝の思惑は、ルイ十八世もすでに知っているという。


 又聞きで、なおかつ信頼していない相手からの情報。鵜呑みにするのは危険だ。

 それでも、あの叔父の元へ行くことが、当面のテレーズの目標なのだ。姪から機嫌をとっておくに越したことはない。

 ゆえに今日、手紙の返事を書いたのだ。


「キュゥン」


 その声で、考え事を止めた。

 ココが足元に来て、こちらを見上げている。


 テレーズは椅子から立ち上がり、その場に屈んだ。

 柔らかい体を撫でると、胸の中にあった重く暗いものが自然と薄らぐようだ。


 ココに対して、テレーズは酷いことをしてきた。

 再会を果たせたにもかかわらず、偽物だと疑った。そのうえ置き去りにして死のうとまでした。命を絶つことを試みていた間、ココのことは完全に頭から抜け落ちていた。


 もう寂しい思いはさせない。

 これからは、何があろうとずっと一緒だ。





 翌早朝。

 辺りが薄暗いうちに、テレーズの一行は町を後にした。オーストリアの使者と落ち合うため、郊外へ向かうという。

 馬車は市門を出て、しばらく走る。その間に、外が明るんできた。


 着いた先は、裕福な地元住民が所有する庭園。

 オーストリアの使者はすでに到着していた。テレーズたちの一行とは違い、やけに仰々(ぎょうぎょう)しいいで立ちだ。


 馬車から降りたテレーズは、皇帝の使者と対面した。フランス語で支障なく会話できた。

 ところが、


「パリからの従者はお帰りくださいとは、どういうことですか」


 ユー男爵の抗議する声。オーストリアの使者と何か言い合っている。


「我が主君、フランツ二世のご命令です」

「事情を説明してください」

「我々の国とあなたがたの国は交戦中。我が主君の宮廷は、フランス人が立ち入る場所ではありません」


 テレーズは小さくため息を吐いた。

 早くも察しがついた。これから向かう先で、フランス人である自分が、どういった扱いを受けるのか。


 ひとまず押し問答を止めさせよう。

 テレーズは、男爵と使者に向き直った。


「そこまでになさい」


 しゃがれた声だからこそ、相手がちゃんと聞き取れるように、はっきりと声を出す。ルネットと練習したことだ。


「あなたたちの献身には感謝しているわ。されど、私がこれから赴く先は母の実家。オーストリアの言うことには、あなたたちも従いなさい」


 男爵と、その近くにいた元養育係が、そろって驚いた顔をする。


「あなたたちと別れることも、フランスを旅立つことも、私にとって当然つらいことよ。だからこそ、私はどこへ行こうと忘れないわ。自分がフランス人であることを」


 食い下がる声はない。男爵だけでなく、総裁政府の雇い人までもが名残惜しそうな顔をしている。元養育係にいたっては泣き始めた。

 彼らは、テレーズが今言ったことを真に受けているようだ。


 テレーズ自身でさえ綺麗事だと思う言葉を、信じている。

 なんと滑稽な者たちだろう。


 フランス人との別れは、確かに惜しい。

 それはテレーズにとって、彼らが貴重な情報源だからだ。

 つらいだの寂しいだの、そんな感情があるものか。


 薄情者の同国人と血塗られた共和国とは、今ようやく、おさらばだ。


 彼らに背を向け、今度はオーストリアの使者に向き直る。

 仇に背を向けても、目の前にはまた別の仇。母のことを見捨てた親戚が、テレーズをウィーンへ連れて行くために遣わせた使者。


 これから行く先にも、きっと信用できる人間はいない。そのことも、とうに覚悟している。


 オーストリアの馬車に乗る前、テレーズはあることを頼んだ。ペットだけは同行を許してほしいと。

 使者からの許可は、すぐ下りた。

 ココとだけは一緒にウィーンへ行ける。


 嘘吐き、裏切り者、卑劣な人間を、十七年間の人生で嫌になるほど見てきた。

 だが犬は、人間とは違う。言葉で相手を傷つけることも、嘘を吐くこともない。

 テレーズにとって、本当に心を許せる存在は、ただひとつでいい。




 オーストリアの馬車に乗り換え、その日のうちに国境を越えた。

 翌日、教会に赴いてミサにあずかった。教会を訪問したのは、実に三年ぶりだ。


 その後も、旅は続いた。


 道中で親戚を訪ねた。母方の伯母の一人、そして父方の祖母の親戚。

 どちらとも初対面。テレーズに対し、彼らは概して他人行儀であった。薄情な外国の親戚は、ウィーン以外にもいることが分かった。


 それでもテレーズは、王女としての然るべき態度で、彼らにこうべを垂れた。


 自分に言い聞かせた。道中での親戚付き合いは、上流階級の人間と接する練習なのだと。

 なにせこれから赴く先は、帝国の都ウィーンだ。



 旅の途中で年が改まり、一七九六年になった。

 今から二十六年前、母の花嫁行列がフランスへと向かった道。テレーズの馬車が進むのは、母とは反対方向だった。




【52. 見せかけの盲従】


≪補足≫

 英語でいうプリンセスは、仏語で Princesseプランセス になります。つづりや発音が英語とは少し異なります。



≪道中で会った親戚≫

・母方の伯母:ママ王妃の姉の一人、マリア・エリーザベト。

・父方の祖母:パパ王らの母親はドイツ出身。主人公のおばあ様(≠女帝)は、主人公が生まれるずっと前に亡くなっています。



≪本作では≫

 一般的な文献では、ルイ十八世の即位は一八一四年となっています(百日天下をはさんで翌年また即位)。

 しかし本作は、亡命中のブルボン家に視点を置いて話が進むため、ルイ・シャルルの死の発表をもって、プロヴァンス伯はルイ十八世になりました。

 したがって作中および解説でも、ルイ十八世と書きますが、昔の彼を指す場合にはプロヴァンス伯と書くこともあります。


 ところで名目上の王ではありますが、一七九三~五年までのシャルルは、ルイ十七世とされています。

 あくまで作者の私見ですが、シャルルのことをルイ十七世と呼ぶのなら、王政復古前のプロヴァンス伯をルイ十八世と呼んでも差し支えないのでは。


 何はさておき、次回の話から、舞台はウィーンに移ります。タンプル塔を出てからが、主人公の人生の本番です。


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