4. あらし雲の夜 前編
(お父さま、早く帰ってきて)
テレーズがこう願い続け、かれこれ十日。
幸い、フェルセンはまだ一度もプチ・トリアノンに姿を見せていない。
この日も、テレーズは窓にへばりつき、正面入り口を見張っていた。
なんでも今日、母がお茶会を開くという。
招待客の中に、もしかしたらフェルセンがいるかもしれない。
午後になると、何台かの馬車がやって来た。
停車した一台の馬車から、見知った女性が姿を見せた。テレーズにとって義理の叔母にあたる、アルトワ伯妃だ。
アルトワ伯と夫婦そろっての訪問かと思いきや、続けて降りてきたのは、
「アングレーム公だわ!」
見紛うことなき想い人。彼がプチ・トリアノンに来るのは初めてだ。
「ティニ、おむかえに行ってくるわね」
親友に言い残し、テレーズはすぐさま部屋を出た。
急いで一階に向かう。
お目当ての彼が建物に入ってくるより先に、テレーズが表へ出た。
「アングレーム公、ごきげんよう!」
「ああ」
「と、ベリー公」
「なんだよ。マダム・ロワイヤルは、ぼくに対してそっけないな。兄上だとうれしそうな顔をするのに」
会って早々、おしゃべり少年が口を開く。
テレーズは慌てて人差し指を立て、自分の口元に当てた。
おしゃべり少年ことベリー公は、束の間不思議そうな顔をする。
だがにんまりとした笑みを浮かべるなり、
「そうだった。君が兄上のことを好きな気持ちは、ナイショにしておくんだったね」
声を落として、テレーズのことをからかう。
(お母さまもベリー公もおしゃべりなんだから!)
テレーズは心の中で文句を言った。
「はじめ見た時、どこのだれかと思ったけど、あいさつされたら分かったよ。兄上相手だと、君は表情がちがうから」
言われてみると、これまで従兄二人と会うとき、テレーズは決まって礼服姿だった。
今は、プチ・トリアノンで普段過ごすときの格好だ。
対する想い人とベリー公は、シャツの上からウェストコートを着て、半ズボンと白い靴下を穿き、頭にはかつらを付けている。
公式行事のときに見る姿とあまり変わらない。
そこへ、後ろから親友の声がした。
「アングレーム公、ベリー公、ごきげんよう」
「ああ」
「やあエルネスティーヌ、君も同じ格好なんだね」
親友の元へ行くベリー公。
この従兄は、親友に対しても変なことを言うのではないかと、テレーズはいぶかしんだ。
だが今は、それ以上に気がかりな存在が、目の前にいる。
辺りを見回している想い人。
テレーズとベリー公との会話を、彼は聞いていたのだろうか。
思いきって、こちらから声をかけた。
「アングレーム公、何を見てるの?」
「初めて来る場所だから、どんな所だろうと思って、ながめてた」
想い人の目が、テレーズを映した。
彼は今日も無表情だが、その目に、いつもと違う姿のテレーズはどう映っているのだろう。
「そうだわ。せっかく来てくれたから、あんない……」
案内したい、と言いかけて、テレーズは口をつぐんだ。
フェルセンがいつ何時来るかもしれない。
「……したいけど、今日はちょっとムリそう」
「いいよ、テレーズ。そんな気を遣わなくて」
「そういえば、今日はどうしてプチ・トリアノンに?」
母のお茶会に招待されているのかと尋ねると、違うと言われた。
「招待されてるのは母上。僕とベリーは……」
今度は想い人が言いよどむ。
「どうしたの」
「なんて言うか、巻き添えにされて、ここに来た」
「まきぞえ?」
想い人の話によると。
彼ら兄弟の住まいは、ここから馬車で少し走ったところにある。アルトワ伯夫妻とは離れて暮らしている。
今日の昼頃、想い人とベリー公の元に、伯妃が顔を見せに来た。伯妃は、その足でプチ・トリアノンに行く予定だった。
そこでベリー公が、自分も一緒に行きたいと突然言い出した。
いつも机に向かって勉強ばかりでは疲れるので、たまには羽を伸ばしたいと。
居合わせていた想い人も、ベリー公のわがままの巻き添えにされた。
二人で伯妃に頼み、許可をもらった。
親子三人は、今日の夕方には帰るつもりだ、というのが想い人の話。
テレーズはひそかに肩を落とした。
彼はテレーズに会うために、ここへ来てくれたわけではない。
おまけに、今の服装や髪型のことも、まだ何も言ってくれない。
だがそれでも、こうして会えただけで嬉しい。公式行事のときに顔を合わせても、いつも長くは話せないのだ。
残念に思った気持ちよりも、明るい気持ちを言葉にしよう。
「アングレーム公が来てくれて、すごくうれしい」
想い人は返事をしない。ただじっとテレーズのことを見る。
テレーズの顔は、じわじわと熱くなる。
彼の視線から熱が伝わってくるかのようだ。普段こちらが一方的に見つめるときには、こんなふうにはならないのに。
「そうか」
短く答えて、彼は目を細めた。
テレーズの大好きなプチ・トリアノンで見る、想い人の笑顔。
またひとつ、宝物が出来た。
想い人にときめいた瞬間は、テレーズにとって、すべて宝物なのだ。
そののち。
庭園の一角に、テレーズと親友、従兄二人は集まった。
つい先ほど、親友がベリー公と話をしている時、フェルセン撃退作戦のことを教えたらしい。
何だか面白いことをしてるね、と言ってベリー公が食いつき、今に至る。
芝生の上、四人で円になって座っている。
少し離れた所には見慣れない女性がいる。アルトワ伯妃に付き従ってきた女官だという。
誰がテレーズたちのことを見張っていようと、ここは子供だけの空間。大人は立ち入り禁止だ。
フェルセン撃退作戦について、テレーズから改めて従兄二人に説明をした。
「むぼうだね」
話を聞き終えたベリー公の開口一番。無謀だと言い切った。
「大人相手に女の子二人だけなんて、いくら何でも無茶だよ。兄上もそう思いますよね」
「ああ、そうだな」
想い人までもが同じことを言う。
「そこまで気になるなら、たずねればいいじゃないか。親と同じところに住んでるなら、すぐ聞けるだろう」
「たずねるって、何を」
「お母様は、お父様よりも間男の方が好きなんですかって」
聞き慣れない言葉に、テレーズは首を傾げた。
「まおとこって?」
「結婚してる女の人をくどいて、恋人になった男のことだよ」
テレーズはムッとした。
ベリー公は、あの女官たちと同じことを言いたいのだ。
「こいびとじゃないわ。それに、お母さまがあの男を好きだなんて、ありえないもの」
「どうだろうね。女官の言うことが当たってたりして」
「あんなの、ぜんぶウソっぱち。ヴェルサイユの人間はウソつきばっかり」
意地悪なことを言う従兄から、テレーズは顔を背けた。
すると想い人が、
「ならベリー、お前は尋ねられるのか?」
「何をですか」
「母上に、父上のことを愛人に取られて、くやしくないのかって」
ベリー公は急に黙り込む。
何やら暗い顔になり、無理です、と小声で答えた。
「だろう? テレーズの気持ちも分かってやれ」
おしゃべり少年の意地悪から、想い人がテレーズのことを守ってくれた。
また宝物が出来た。キラキラと輝く宝物が。
だがそれも束の間、
「……アルトワ伯に、あいじんがいるの?」
親友が遠慮がちに聞き返す。
「いるよ。母上より若くて、きれいな人」
想い人があっけらかんと答えたことに、テレーズの輝く宝物が砕け散った。
アルトワ伯に愛人がいることがショックだったのではない。想い人がたった今「きれいな人」と言ったからだ。
きれいな人という言葉は、美しい大人の女性に対して使うもの。子供には使わない。
美しい大人の女性が、想い人の好みなのだとしたら、三歳下の従妹に、とうてい勝ち目はない。
それきり作戦会議は静かになった。
テレーズは重たい気持ちのまま、何気なく空を見上げた。朝から晴れていたのに、いつの間にか雲に覆われている。
鳥のように空を飛べれば、父の馬車が今どこを走っているか分かるのに。鳥になるのが無理でも、気球に乗っていければ。
二年前、テレーズは初めて気球を見た。
まだシャルルが生まれる前で、スウェーデン王グスタフ三世がヴェルサイユを訪問した時のことだ。
そういえば、あの時グスタフ三世のそばにフェルセンもいたような……。
うっすらとした記憶が脳裏に浮かぶも、目を閉じてかぶりを振った。嫌いな相手のことは、頭の中から締め出したい。
ぽつりと、冷たい雫が頬に当たる。
目を開けて、また空を見上げた。
「雨だ、中に入ろう」
ベリー公の声にテレーズたちも立ち上がり、みなで正面入り口に向かった。
すると、先頭を走っていたベリー公が突然立ち止まる。
「ねえ、あれって」
ベリー公が指さす方。
建物へと入っていく人影。そのシルエットに、テレーズは我が目を疑った。
まさか、あの男が来たのか。
テレーズはすぐに駆け出した。他の三人が呼び止める声は聞かない。
入ってすぐのところにある大階段。
そこから上を見れば、階段を上がる二人の男女。母に仕える女官と、間違いなくフェルセン。
彼らに気づかれないように、テレーズは跡を追った。
「アントワネット様は、こちらにいらっしゃいます」
女官が部屋の扉を開けると、向こうから男女のざわめきが起こった。
「まあ、騎士がお義姉様に会いにいらしたわ」
「おやおや、私たちがいては、お二人の邪魔になってしまうかな」
フェルセンと女官が部屋に入っても、扉は開かれたまま。
はやし立てる声。その中には、嬉しそうな母の声が混じっている。
テレーズは扉の前で立ち止まった。
向こうの部屋に入れない。
足が前に進まない。
母は今どんな顔をしているのだろう。フェルセンが来たことを喜んでいるのだろうか。
ほどなくして、大人たちが部屋から出てきた。
テレーズの存在に気づいた彼らは、改まった様子でこちらに向き直り、うやうやしく挨拶をする。
テレーズは自分でも意識しないうちに、マダム・ロワイヤルの仮面を付ける。おおやけの場でそうするように、お行儀のいい王女になった。
お辞儀をしながら、思った。
もしテレーズが頼めば、大人たちは味方になってくれるかもしれない。フェルセンを追い払ってくれるかもしれない。
いや、そうだろうか。
部屋から出てきた大人たちは、みなフェルセンのことを歓迎していた。テレーズの頼み事など聞き流されてしまうかもしれない。
「マダム・ロワイヤル、もう夕方よ。お子様は自分の部屋に戻らないと」
アルトワ伯妃に声をかけられる。
普段、挨拶するときくらいしか言葉を交わさない叔母。彼女の言葉が、今のテレーズには意地悪なものに聞こえる。
あなたは邪魔者よ、と。
テレーズの元を離れた伯妃は、自分の息子たちのことを呼ぶ。アングレーム、ベリー、と。
従兄二人は、テレーズの後を追いかけてきていた。
大人たちと子供たちが入り混じる空間。
そこに、母とフェルセンの姿はない。
二人だけで向こうの部屋にいる……。
「あ、あの、アルトワ伯妃!」
突然聞こえた大きな声。
場が静まり返る。
テレーズも含め、居合わせた人はみな、声のした方を見た。
「驚いたわ、急に大きな声を出して。私に何か用かしら、エルネスティーヌさん」
「アングレーム公とベリー公は、お帰りになりません」
親友は真剣な面持ちで、王弟妃と対峙している。
「あら、どうして?」
「お二人とも、今日はプチ・トリアノンに、おとまりになります。わたしたち四人でやくそくしました」
そんな約束をいつしただろう。
「まあ、子供たちだけで遊んでいたと思えば、そんな約束をしていたのね」
伯妃が、自分の息子たちの方を見る。
「彼女の言うとおりです、母上」
ベリー公が答えたことに、テレーズの驚きは二倍になる。
親友がとっさに吐いた嘘に、彼が乗ったのだ。
【4. あらし雲の夜 前編】
≪補足≫
公爵と伯爵は、作中で出てくる頻度が高い言葉なので、爵の字を省略しています。
≪王弟妃について≫
アルトワ伯爵夫人と書く文献もあります。
しかし、彼女は王家に嫁いだ女性。夫人ではなく「妃」とした方が適切だと思ったので、本作では「伯妃」と書きます。
なおルイ十六世には弟が二人いるため、王弟妃はもう一人います。そちらの彼女については、のちほど。
≪ヨーロッパ史の話なのに日本語の解説1≫
主人公には、父方にも母方にも「いとこ」がいます。
父方のいとこのうち、長じたのはアングレーム公とベリー公。
母方は把握しきれないほど大勢いますが、そのうち何人かは、これから登場します。
ちなみに読み方は「いとこ」でも、漢字で書くと以下のようになります。
従兄:自分から見て年上の男
従弟:年下の男
従姉:年上の女
従妹:年下の女
主人公から見て、アングレーム公とベリー公は、どちらも従兄。ベリー公は主人公と同じ年生まれですが、彼の方が先に生まれているため従兄。
実際彼らの文化圏では、こうした使い分けはされていないはずですが、作中では書き分けています。
≪ヨーロッパ史の話なのに日本語の解説2≫
おじ、おばについても、以下のように書き分けています。
伯父、伯母:両親の兄、姉
叔父、叔母:両親の弟、妹