3. 王女の天敵フェルセン
父の大きな指が、フランスの国土をなぞる。
テレーズと親友、弟の三人は、その指を目で追っている。
テーブルの上に広げた全国地図。北西部の一点で指が止まり、小さく円を描いた。
「ジョゼフに質問だ。この辺りを何地方と呼ぶ?」
「ノルマンディーちほう」
「正解だ。よく分かったな」
「シャルルのなまえなので、すぐおぼえました」
父に褒められたジョゼフは得意げに笑う。今日は起きていられるほどに元気だ。
ノルマンディー公ことシャルルには、まだ父の話が理解できない。
それでも興味はあるようで、斜め横のソファに座る母に抱かれながら、こちらへ手を伸ばしている。
「この半島の先にあるのがシェルブール。今度出かける場所だ」
「ぼくも行きたいです」
「残念だが、子供たちはトワネットと留守番だ」
弟は不満そうに口をとがらせる。
「ジョゼフ、お父さまの言うことは聞かなくちゃ」
「あねうえとティニは、行きたくないのですか?」
テレーズは、親友と顔を見合わせる。
行きたい。その気持ちは親友も同じはずだ。
「こらジョゼフ、二人を困らせるな」
父がおかしそうに笑った。
「シェルブールに大きな港を造っている。それを見に行くんだ」
「大きな、みなと?」
「どんなところですか?」
テレーズも親友も、そろって首を傾げる。
自分たちは海を見たことがない。
「白い帆を張った大きな船が泊まっている。そこに、たくさんの人がいるんだ」
説明されても、テレーズにはピンと来ない。
親友と弟もよく分かっていなさそうだ。
「絵を見せてあげればいいんじゃない。言葉で説明するより、その方が子供には分かりやすいわ。シェルブールでなくても、港町の絵やスケッチでいいから」
母の言葉に、それはいいな、と父は答える。
父が絵を持ってくるという。
一番に喜んだのは弟。
テレーズも、親友と顔を見合わせて笑い合った。
「ところであなた、出発はいつになるの?」
「詳しい日程はまだ決まっていないが、六月か七月。二週間くらいは、お前たちの顔を見られなくなるだろう。もしかすると、お腹の子が生まれるまでに戻ってこられないかもしれない」
母のお腹のふくらみは、もう服の上からでも分かる。
「お父さま、お出かけの日をずらせないのですか。赤ちゃんが生まれる時は、家族みんなで、いっしょにいたいです」
「テレーズ、わがままを言ってはだめよ。あなたのお父様は、お仕事で行かれるのだから」
わがままを言ってはだめ。
こう言われたら、テレーズは口をつぐむしかない。
「寂しい思いをさせてしまうな」
大きな手が、テレーズの頭に乗せられた。
「帰ってきたら、土産話をたくさん聞かせてあげよう」
「本当ですか?」
「ああ。ジョゼフとティニもな」
二週間も父と会えなくなるのは、初めてのこと。それでも父がこう言ってくれるなら、寂しさを我慢できる気がする。
「初めての地方行幸でしょう。私たちのことは気にせず、行ってらっしゃい」
「そう言ってくれると助かる。私がいない間に産気づいてもいいように、向こうでの手はずは整えておく」
「お産は、向こうでないとだめなの?」
「何度も言ってるだろう。プチ・トリアノンでは無理だ。王家の子供を産むのは、ヴェルサイユ宮殿でと決まっている」
「どうしてですか?」
両親の会話を聞いていたテレーズは、ふと気になって尋ねた。
父と母が、そろってこちらを見る。
「赤ちゃんをうむのに、どうしてあっちに行くのですか?」
去年シャルルが生まれた時も、母はお腹を抱えたままヴェルサイユ宮殿へ行ってしまった。
テレーズたちは、ここで留守番だった。
「それは……」
「しきたりなのよ」
父が言いよどむと、母が代わりに答えた。
面倒だが、守らなければならないもの。
それが、テレーズの知っている「しきたり」というものの意味だ。
父はヴェルサイユ宮殿に、親友は自宅に帰った後。
母や弟と夕食を食べていた時、テレーズは大変なことに気づいてしまった。
二週間も、父がプチ・トリアノンに来ない。
フェルセンからすれば、母に近づく絶好の機会ではないか。
愕然としたテレーズは、手にしていたパン切れをスープの上に落としてしまった。
パン切れがふやけていく。テレーズはカリッとした食感のパンが好きなのに。
だが今、パンのことはどうでもいい。
「どうしたの、テレーズ」
「……な、何でもないです」
娘の気持ちもつゆ知らず、のん気に尋ねる母。
とはいえ、気づいたのが今でよかった。
悠長にしていられないが、幸いまだ時間はある。
テレーズは固く心に誓った。
フェルセンの魔の手から、母のことを守ってみせると。
翌日。
よく晴れた昼下がり、プチ・トリアノンの庭園。
テレーズと親友は、木陰で「作戦会議」をしていた。
少し離れたところにいるのは母とジョゼフ、シャルル、あと何人かの女官。父の悪口を言っていた女官も混じっている。
テレーズと親友の近くには、養育係がいる。
「だいじな話をティニとするから、遠くへ行って」
と言ってあるため、少し離れた場所に。
作戦会議の内容は大人に聞かれたくない。
「フェルセンを、げきたいする?」
「そうよ。お父さまがいない間にあいつが来たら、おいかえすの」
「ムリなんじゃない?」
「どうして」
「だって、子どもだけじゃ」
「やってみないと分からないじゃない。あのバカフェルセンから、お母さまのことを、まもるのよ!」
親友が周りを見回してから、
「聞こえるわよ」
小声でテレーズをたしなめる。
テレーズは慌てて、自分の口を両手でふさいだ。
養育係のいる方、そして母と女官たちのいる方を見る。
気づかれている様子はない。
ひとまず胸をなで下ろし、
「おねがい、ティニ」
今度は、声を落として懇願した。
親友同士で見つめ合うこと数秒、
「分かったわ。きょう力する」
仲間が出来た。親友が協力してくれる。
「ありがとう、ティニ!」
テレーズは両腕を広げ、親友を抱きしめた。
ところが、勢いあまって二人とも芝生の上に倒れ込んだ。モスリン生地の服に、小さい草がたくさん付いてしまった。
父が出立する当日。テレーズたちの闘いが始まる日が来た。
テレーズと親友は、父を見送るためヴェルサイユ宮殿に行った。
あいにくジョゼフは寝込んでおり、母は付き添いでプチ・トリアノンにいる。
宮殿の正面入り口付近では、大変な数の従者が長い行列を作っていた。
その中に、父の乗る馬車があった。いつもプチ・トリアノンに乗ってくる馬車ではなく、公式行事用のものだ。
「テレーズ、ティニ。今日から夜も一緒に過ごせるからといって、夜更かしをしたり、はしゃぎ過ぎないように。規則正しい生活をするんだぞ」
今日から、親友は自宅に帰らない。両親とランブリケ夫人から特別に許可をもらっていた。
「お父さま、一日も早く帰ってきてくださいね」
「おみやげ話を楽しみにしてます」
「ああ、分かった」
父が馬車に乗り込み、窓からテレーズたちに笑いかける。父の姿が見えなくなるまで、テレーズたちはその場に留まった。
さりとて長居してはいられない。
すぐプチ・トリアノンに戻った。
父に会えない間は寂しいので、父が行幸から帰ってくるまで、夜も親友と一緒にいたい。
それが、大人たちに伝えている理由。
実のところ、言っていない理由もある。
フェルセン撃退作戦のために、仲間と一緒にいたいのだ。
テレーズにとって何より問題なのが、親友の他に仲間がいないことだった。
養育係、テレーズたちの身の回りの世話をする女官、授業を教えに来る家庭教師、庭園に配置されている守衛。
こうした大人たちに協力を求めても、母や、母に仕える女官に告げ口されるだろう。
かといって、弟たちを仲間にするのは無理だ。ジョゼフは頻繁に寝込んでしまうし、シャルルはまだ幼すぎる。
そういうわけで、親友の存在がなければ、テレーズはまさしく孤立無援。
おまけに日が経つにつれ、肝心の親友でさえ、頼りにならないことが明らかになった。
「テレーズ、いつまでまどにへばりついてるの」
「いつなんどき、あの男がやって来るか分からないじゃない」
プチ・トリアノンの正面入り口は南にある。
その方角の窓から、テレーズは暇さえあれば、外を見張っていた。
「ずっとそうしてると、あやしまれるわよ。さっきのじゅぎょう中も、うわの空で、先生にちゅういされてたでしょう」
「だって気になるんだもん!」
フェルセンがいつ何時やって来るか、気になって授業どころではない。
テレーズにとっては一大問題だというのに、親友は呆れ顔をするのだった。
【3. 王女の天敵フェルセン】
≪子供たちの世話役≫
養育係や、子供たちの世話をする女官たちは、モブとして書いています。
史実では、ポリニャック夫人が養育係を務めていましたが、彼女は本作に登場しません。のちほど名前は出てきますが、養育係ではなく、マリー・アントワネットと親しい女官の一人という位置づけです。
≪モスリン生地のドレス≫
マリー・アントワネットもよく着ていましたが「下着姿をさらすな」と非難されていました。
ところで、礼服こと宮廷用のドレスについて。
昔の女性がスカートの下に装着するものといえば、釣り鐘型の骨組クリノリンをイメージされる方も多いと思いますが、これが登場するのは十九世紀。
作中の頃は、パニエというものを装着して、さらにドレスのスカートを膨らませるために、下穿きを何枚も重ね着していました。
史実の主人公も、小さい時から、大人たちのような重たいドレスを着せられていました。あいにく、その姿の肖像画は残されていないようです。
「堅苦しいドレスを着てしまうと、子供らしさがなくなってしまうから」というお母さんの意向で、描かれなかったのかもしれません。